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結局のところ、西野は昼休み終了まで無事に逃げきった。
勇者ともてはやす者もいれば、裏切り者と嘆く者もいる始末だ。どうやら、逃げきれない方に賭けていた生徒が多かったらしく、理不尽なことにやたらと小突き回されている西野の姿が笑いを誘った。
とは言っても、賭けの結果と勝負の景品とは別物だ。西野のチームが負けてしまったことに変わりはなく、たとえ、どんなにアホらしくても毎日の決め事に従って彼のチームは掃除当番を黙って引き受けた。女子生徒はその勝負とは関係ないから、いつもの当番と同じなのは当然の成り行きである。
「大体さぁ、西野のすばしっこさは反則なんだと思うね。アレがなければ、また別の結果が出たんじゃないかね?」
いつまでも賭けの結果についてぐちぐちと言い募る佐山に、西野が薄情な友人を睨む。睨まれたところで、佐山が怯むことはない。更に文句を言い、それに西野が言い返した。
そんなやり取りを聞いて、桜は思わず笑いそうになる。
仮にも友人なら、逃げきれる方に賭けてあげればよかったのに、と思うのは桜でなくとも抱く感想だろう。だが、西野が逃げきったのは大半の予想を裏切っての展開だ。あれだけ動き回った後に一人で逃げきれるなんて、誰もが思わなかったのだから。
「お前の体力は底なしか」
「別に、配分を上手くコントロールしただけだ。お前のように見境なく突っ走らないから最後までもつ」
冷静な表情で切って捨てるように言われても、佐山はまるで堪えた様子がない。おそらく、西野の言葉の半分も聞いてはいないし、聞いていたとしてもすぐに忘れてしまうからだ。それは彼のポジティブさから来るものであるのと同時に、童顔で可愛らしい西野から何を言われてもほとんど迫力がないせいでもある。
そして、明日になったら、彼らはまた同じことを繰り返すのだ。誰かが飽きてやめようと言い出すまで、きっと、延々と続けられるのだろう。だったら、今日のことはもう忘れて諦めればいいものを、いつまでも諦められないというのは不思議だ。
佐山と西野はひとしきり言い争っていたものの、やがてそれにも飽きたのか、それとも、先生の怒鳴られる前に真面目に片付けることにしたのか、おとなしく掃除を始めた。その光景をぼんやり見ていたさくらは、気を取り直して箒を持ち直したところで、ふと背後からの視線を感じて顔を上げた。
誰かが、自分を見ている。
それは、直感だった。
何かに教えられたとか、そういった類のものではない。はっきりと、誰かが自分を見ていることを感じてしまったのだ。
周囲には、掃除当番である自分たち以外の生徒はいなかった。校舎の中から、部活動らしき喚声とざわめきが聞こえるだけだ。
けれど。
確実に、何かの瞳が桜を捉えているような気がした。何を根拠にそう思うのかを考えるよりも先に、桜は視線を感じた方向を振り向いた。
……誰も、いない。
通りがかる生徒の姿すら、そこにはなかった。
だが、確かに誰かがそこにいたように思えてならなかった。そのことを、何故か理解しているような自分に、少しだけ怖くなった。何かがいた気配だけが漂っているその重苦しい空気に、ぞくりとしたのだ。それは、肌を冷機がなで上げていく、その感覚にも似ていた。動けば汗ばむほどの陽気だというのに、寒気がするほどの何かを感じたのだ。
気がつくと、背中を嫌な感じの汗が流れていた。暑さや運動で流れるのとは意味を異にする、後味の悪い汗だった。
(何、今の……?)
知らず速度を速めていた心臓の鼓動が、そこら中に聞こえているかのような錯覚に陥る。
今、何が起きていたのか、自分でもさっぱりわからなかった。それでも、何もないはずだと自分に言い聞かせるのはおかしな気分だった。
たいしたことではない。気のせいだ。
けれど、桜の中にある何かの感覚が、それが決して単純なものではないことを教える。その瞬間の空気はおかしなものであると、何かが気づかせる。
そして、それは、全ての前兆だった。
その日の学校からの帰り、桜はいつものように学校を出て、いつもの道を辿っていた。そこまでは何も変わらない、いつも通りの日常だった。途中で足を止めたのは、誰かが後ろからついて来ていることに気づいたからだ。
それは、単に同じ方向へ向かっているのとは違うと、気づいてしまった。そして、後ろから見られているその感覚は学校で感じたものとは違っていた。言うなれば、どこか懐かしいような気配さえ含んだものだった。
やはり、それも直感でしかなかった。誰かが教えてくれたわけでもない。自分の中にある何かが、それを教えた。そんな感覚だった。
「……誰?」
そう問いかけながら桜は振り返ったが、そこには誰もいない。だが、すぐ近くに誰かがいるのはわかる。その直感にしたがって、桜は姿を見せない相手に向かって問いかけた。
「ねえ、そこら辺にいるんでしょ。出て来たら?」
「あら、私のこと、わかるの?」
向けた、視線の先。
ちょうど、桜からは死角になっていた建物の影から出てきたのは、同じ高校の制服を着た少女だった。
しかも、場違いに思えるくらいの美少女だ。背の中ほどまである黒髪は、さらりと流れるストレート。下ろした髪の左側を小さく束ね、そこに鮮やかな山吹色のリボンが巻きついていた。勝気そうに見える瞳はやたらと大きくきらめいて、桜のことを迷いもなくまっすぐに見据えている。
「どうして、私の後をついて来るの?」
一瞬、少女のその眼差しに吸い込まれそうな錯覚を覚えて、桜は眩暈が思想になる。それを振り払うように頭を振ってから、桜は信じられないものを見て愕然とした。
目の前の少女は、宙に浮いていたからだった。
浮いている、と一言で言っても、常識外れに高い場所から見下ろされているのとは違った。少女は、地面すれすれの高さに、ふわりと立つように浮いていたのだ。おまけに、彼女には地面に落ちているべき影もなかった。
今日は、快晴だ。季節は違うが、天高く、などと言ってもおかしくないほどのいい天気なのだ。こんな日に、影ができないなんてことはありえない。そんな存在があるとしたら、それは、おそらく、この世に存在しているものではない。
(……嘘、でしょう?)
背中を冷たいものが滑り降りていて行くような、そんな気がした。桜はつばを飲み込もうとして、口の中がからからに渇いてしまっていることに初めて気づいた。それほどまでに緊張していたことを、その時になって思い知らされた。
そんな桜に、吸い込まれそうなほどの少女の視線が注がれる。
少女の姿形だけを見てみれば、場違いに綺麗なだけのただの女子高生にしか見えない。なのに、決してそうではないことを、彼女自身が放つ存在感が教えているような気がした。
「あなたが、深山桜?」
少女の形のいい唇が、楽しそうに言葉を紡ぐ。その声音はどこか幻想的に響き、桜は驚いてその少女を見返した。
見も知らぬ少女から、いきなり名前を呼び捨てにされることの驚きと、戸惑い。初めて会ったはずなのに、少女はそれを全て無視するかのように馴れ馴れしく名を呼ぶ。
桜はどうしようもなく苛立ちを感じて、思わず言い返した。
「いきなり呼び捨てにされる覚えなんてないし、そう言うなら、あなたが先に名乗るのが礼儀じゃないの?」
その切り替えしに、少女は一瞬驚いたように目を瞬かせる。それから、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ああ、そうね。そういうことだったわね。あなたのことは、私が一方的にそうだと理解しているだけだということを忘れていたわ。ごめんなさいね。あまりにも久しぶりなものだから、接し方を忘れてしまったみたい」
くすくすと笑って、少女は桜に向かって優雅に一礼した。
「私は、緋月よ。今日は、あなたの顔を見に来てみただけだから、これで帰るわ。また、すぐ似合う機会もあることだし、その時に会いましょう?」
一方的にそう告げて、緋月と名乗った少女は桜の目の前から消えた。文字通り、消えたのだ。
そして、それは桜が巻き込まれる諸々のできごとの、最初の一歩だった。
ちょっとしっくりこない気がして、タイトルだけ変えました。中味は変わっておりません……。