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「……っ!!」

 桜は、自分が上げた悲鳴に驚いて飛び起きた。

 心臓が恐ろしいほどのスピードで脈打ち、恐怖にも似た震えが身の内を走り抜ける。

 荒く息をついて、そこが自分お部屋のベッドであることを確認してホッとする。たった今感じた恐怖が夢であったことに安堵し、再びそれを思い出す感覚に更に身を震わせた。

 それは、たぶん、いつもの夢だった。だが、いつもは薄い水の膜を通した映画を見ているような感覚だったものが、今夜は変わっていた。桜はその映画の登場人物となり、その痛みや喜びを自分のものとして感じていたのだ。

 こんなことは、初めての経験だった。何度となく同じような夢を見てきたけれど、今まではどんなに知りたくともその詳細を見ることはできなかった。だというのに、あまりにも鮮明に脳裏に焼きついているその夢の残滓に、束の間、夢と現実との境目がわからなくなる。

 リアルに感じすぎて、吐き気までして来そうだ。

 汗ばんだ額を手の甲で拭い、深呼吸を繰り返す。

 全ては夢なのだと繰り返し言い聞かせなければ、境界線が曖昧になって夢に飲み込まれてしまいそうだった。

「何なの……?」

 わからない。

 ただ、何かが変わろうとしている。それは、誰かに教えられるまでもなく身体の奥で感じる予感だった。

 時計を見れば、まだ早朝だ。この夢を見た時の常として、夜明け頃に目が覚める。今日も、それは変わらないらしい。だが、二日連続でこの夢を見るというのは初めてのことだった。

 いや、厳密に言えば、同じ夢とは言えないのかもしれない。今日見た夢は、今までに見て来たものとは明らかに様子が違っていたからだ。これまでのどこかぼんやりとしたイメージからは一転して、生々しいほどに刻み込まれた夢の中の風景は、まるで現実に起きたできごとのように桜の脳裏に焼きついている。追い詰められ、激流に身を躍らせた瞬間の身を切り裂くような強い風の音が、今も耳に残っているようだった。

 ぶるりと頭を振って、夢の名残りを追い払おうとする。

 嫌な汗でべとついているような身体が不快だったが、この時間にシャワーを使うのは家族に迷惑だ。この目覚めがいつもの夢のもたらすものと同じであれば、この先はどうあっても眠れないはずで、二日連続でこんな目に遭うなんて、と桜は溜め息をついた。

 何となく、ふと思いついてベッドから降りる。

 着替えるかどうか迷って、後でシャワーを浴びてさっぱりしてからにしようと思い直した。そうしてから、妙に胸騒ぎにも似たものを覚えて窓に歩み寄る。

 何故だか、昨日と同じように、あの男がそこにいるような気がしたのだ。

 迷うことなくカーテンを引くと、驚いたようにこちらを見ている男と目が合った。その驚いた様子からして、桜が起き出して来るとは全く思っていなかったのだろう。

「……ねえ」

 躊躇わずに窓を開けて、空中で立ち尽くすようにしてこちらを見ている男を手招きする。その様子は迷子の子供のようにあまりにも頼りなげで、どこか寂しそうで、放っておけないような気がしてならなかった。

「そんなところにいるんだったら、中に入って来たら?」

「何故ですか」

 わずかに棘のある返答は、昨日と変わらない。だが、それを不快だとは思わなかった。

「そんな所にいられると、私が気になるの」

 早くして、と急かせば、不承不承といった様子で彼は降り立った。

 改めて近くで見てみると、無駄に整った顔立ちをした男であることを痛感させられる。いきなり学校にまで乗り込んできて生徒のふりをしている緋月たちと言い、精霊というのは人間離れした容貌の持ち主であるらしい。

「それで、何か御用でしょうか」

「それを聞きたいのは、むしろこっちの方だと思うんだけど」

「……僕には、あなたに用事などありません」

「じゃあ、どうして、こんな時間に私の部屋の前にいるの?」

「それは……」

 一瞬言葉に詰まり、それから、ぼそぼそと先を続ける。

「散歩です」

 無理のある言い訳だということは、おそらく、本人もわかっているのだろう。桜からの視線から逃れるように目をそらす辺りが、それを現している。

「散歩……」

 思わず半笑いになると、むっとした表情で睨まれた。

 無理があることはわかっていても、それを指摘されるのは気に食わないらしい。その刺々しい態度にどこか懐かしさのようなものを覚えて、桜はうろたえた。

 何故、そんな気持ちを抱くのか、わからなかった。

「……顔色が、悪いようですが」

 ぽつりと、つぶやくように言葉が零れ落ちた。

 それが、桜への気遣いの言葉だと気づくのに、一瞬遅れた。あまりにも彼の態度が刺々しいから、そんな言葉をかけてもらえるとは思いもしなかったからだ。

「え? ああ……その、たぶん、夢見が悪かったからだと思う」

 顔色が悪いのだとしたら、変な夢を見たせいだ。それしか考えられない。だが、それをこの男が気づいたというのが不思議だった。

「夢……?」

 その眼差しが、ほんのわずかだけ心配そうな色を乗せて桜を見た。

「昔からよく見る夢なの。今日は、今までと少し違ったから驚いただけ。少し休めば、大丈夫」

「何が違ったのですか……?」

「いつもは、ぼんやりとしか見えなかったストーリーの主役になった感じ、かな。よくわからないけど。こんなこと、今まで一度もなかったから」

 思わずべらべらと事情を話してしまう自分に、驚いた。

 そのことに意味があるのか、その行動に何か理由があるのか、わからない。そもそも、あの夢を繰り返して見ていること自体が不思議な現象ではあるのだ。

「どんな夢だったのですか」

「それは……」

 説明しようと口を開きかけ、ふと気づく。この男の声を、今の夢の中で聞いたような、そんな気がしたからだった。

「あの?」

「あなた、名前は?」

 思いつきのように尋ねると、はっとしたように身構えられる。その質問は、彼にとってあまり歓迎できないものだったのかもしれない。だが、今更、口に出してしまったものは返らない。

「何故、そのようなことを聞くのです?」

 物腰は丁寧だが、そこには確実に棘が含まれている。夢の話でわずかに和らいでいた態度が、再び頑なな様子に取って代わる。

 桜の何がそれほどまでに気に入らないのか、まるで見当がつかなかった。名前を聞いたことがそれほどまでに不愉快なのか、と考えて、それが先ほどの夢に出て来た最後の叫びを思い出させる。

 名前を呼んで欲しいと、呼ばれなければ意味がないのだと、悲痛な声で叫ぶ誰かの声を。

 ……あれは、一体、何を示しているのだろう?

「あなたが、緋月たちとは仲間だと聞いたから。なら、あなたにだって名前があるんだろうと思って。こうして話しているのに名前も知らないのは、何となく居心地が悪いな……って」

「彼女から聞かなかったのですか?」

「聞いてよかったの? よくわからないけど、聞いてはいけないことのような気がして……」

 それは、特に深く考えての行動ではなかった。ただ、そうした方がいいような気がしたまでのことだ。緋月はその場にいる二人の名を明かしはしたが、そこにいなかったこの男については『彼』としか言っていなかった。そこに、何か意味があるように思ったのは気のせいだったのだろうか。

 それでも、その感覚は曖昧なものでしかない。

 けれど、緋月たちとの出会いをきっかけにして、昔から繰り返し見る夢に変化が訪れたのは事実のように思える。

「あなたは、僕たちの存在を不審に思わないのですか?」

 まるで別のことを聞き返されて、桜は思わず苦笑した。

「そりゃ、不審だと言うのなら、不審なんだと思うけど……」

「では、何故」

「それがわかっていたら、あなたを部屋に招き入れようなんてしないと思うの。でも、あなた、どこか寂しそうに見えて」

「どうして……っ」

 桜の言葉に小さな声でうめくようにつぶやき、彼は唇を噛み締める。

「何もかもが違うのに、どうして、紡ぐ言葉は同じなのです……!!」

「……何の話?」

 何かを責めているかのような、悲痛な声音。桜が戸惑っていることに気づいたのか、彼は決まり悪げに口をつぐむ。

「いえ、何でもありません」

「何でもないって感じには見えないんだけど。あなたは」

「あなたには、関係のないことです!」

 それは、拒絶だった。

 緋月たちにしても、こちらの出方を探りながら近づいてきている様子がある。そのぎこちなさを不思議に思わないわけではない。それでも、彼女たちは戸惑いながらも距離を近づけようとしているように思える。だが、目の前のこの男にそういう雰囲気を伺うことはできなかった。

「僕は、認めません。たとえ、そうであるのだとしても、あなたは違う!」

「違う、って、何が」

 いきなり否定だけを投げつけられても、わからないものはわからない。そして、それがもどかしい。

 桜のその答えが気に入らなかったのだろう。彼の桜を見据える眼差しが苛烈さを増し、ぶわりと風が巻き起こる。それまで穏やかに見えていた窓の外には、ほとんど風などなかったはずだ。風は窓の外からではなく彼を中心に渦巻くように現れ、不意に巻き起こったそれに煽られてカーテンが勢いよく翻った。

 その風が、目の前の男が起こしたものであることを、疑う余地はない。緋月の言っていたことを、唐突に思い出したからだ。この男の属性は―風。気性が荒いのは火の属性である緋月の専売特許なのかもしれないが、暴走した時の歯止めが効かないのは風の属性を持つこの男こそがそうなのだと、地の属性を持つ少年があっさりと告げた。

 だからこそ、彼が一番厄介なのだ、と。

「もう、二度と目覚めたくなどなかったのに……!」

 泣き出しそうな声で、彼は叫ぶ。それは、聞く者に痛みさえもたらしかねない響きを持って、桜の心に突き刺さる。

「僕は、人が嫌いです。人の世なんて、滅びてしまえばいいと思っています」

「でも」

 と、桜は言い募る。

「あなただって人と契約をしたから、今があるんじゃないの? 緋月たちが、そう言っていたように」

「たとえ、そうだとしても! それを奪ったのも、また、人です!」

 開け放たれたままだった窓から、背後に飛び退るようにして彼は屋外へと移動する。何もない宙に支えもなく立ち、彼は桜を見下ろした。音もなく吹き上げる風が髪を煽り、距離以上に二人の間を隔てているような気がした。

「ちょ……待って!」

 手を、伸ばす。

 相手は既に高く飛ぼうとしていて、桜の手が今更届くはずがないと思うのに、その衝動を止められなかった。

 届かない、手。その光景が、つい先ほどまで見ていた夢の光景と重なって、強烈に脳裏に蘇る。

 あんな想いは、繰り返したくない。繰り返させない。味わうことも、味わわせることも。絶対に、そんなことだけは。

「待って……っ、イナミ!」

 意識するわけでもなく、するりと口をついてその名が零れた。目の前の男の瞳が大きく見開かれ、食い入るように桜の顔を見つめる。

「何故、あなたがその名を?」

 その声は震え、彼の動揺を如実に現しているように思えた。おそらく、それが本当に彼の名であるからなのだろう。

「……今のが、あなたの名前なの?」

 確認するように問い返せば、目に見えて男の顔が強張った。

 そこで、桜は確信する。その質問が、真実を言い当てているのだと。

「その質問に、答える義務はありません」

「……イナミ」

「あなたがその名前で呼ばないで下さい!」

 感情の波が一気に高まったのか、彼が叫んだ勢いそのままに風の威力が膨れ上がる。

「僕をその名で呼んでいいのは……あの人だけです!」

 その叫びは、どこか悲鳴にも似ていた。あの夢の中で、伸ばした手が届かない絶望に縁取られた絶叫と、同じだった。

「あれは……あなた、なの?」

 ぐらりと、視界が揺れた。

 頭の奥で、自分であって自分ではない存在が何かを言っている気がする。それを聞き取ろうと神経を集中させようとすれば、ひどい眩暈と頭痛に襲われた。

「……何、これ……っ!?」

 立っていられない。眩暈と、それと同時に襲って来た鈍い痛みに、こめかみを押さえるようにしてしゃがみ込む。

 ダメ、と、どこかで声が聞こえるような気がする。

 けれど、同じだけの強さで知りたいと渇望する心がある。本能的に従ったのは、後者の方だった。

「大丈夫ですか!?」

 音もなく傍らに降り立った影が、やわらかな動きで肩を掴んで覗き込む。語りかけられるその声音はほんの一瞬前までの刺々しさを取り払い、相手を案じるような響きを持って耳に滑り込んで来た。苦痛に強く閉じていた目を開けてみれば、色素の薄い茶色の双眸が目の前にあった。

「……イナミ」

 手を、伸ばす。

 今度は、彼が遠ざかることはなかった。指先が頬に触れ、あたたかな体温がそこにあることを知る。精霊なのにあたたかいのか、と、少し不思議に思うと、目の前の彼はわずかに震えていた。

 何となく、感じた。

 彼は、怯えているのだ。何かに。こんなにも立派な体躯を体現できるほどの力を持ちながら、彼は怯えている子供のように見えた。彼の言う『あの人』は遠い昔に失われていて、その失った過去を再び見ることが怖くて頑なに拒んでいるような、そんな気がした。

 けれど、それでは、何もか変わらない。

 届いたはずのこの手が、何も意味を為さないものになってしまう。

「逃げないで」

「……僕は、逃げてなど」

「待てないの……?」

 言葉を見つけることができないのが、言わなければならないことがすぐ近くで引っ掛かっている気がするのが、もどかしい。自分の中には確かに答えが存在するはずなのに、それが形となって表に出て来ない歯がゆさがそこにある。

「私は、ここに、いるのに」

 どうしてそんなことを言ってしまったのか、その言葉に何の意味があったのか、朦朧としかけていた意識では冷静な判断力などないに等しかった。それでも、そう言わなければならないと、告げなければどこにも進めないのだと、思考とは別の場所で感じていた。

 目の前にあった秀麗な容貌が、痛みで生理的に滲んだ涙で歪む。

「あなたは……本当に、あなたなんですか……?」

 問いかけられた声は、動揺を隠しきることができずに震えていた。目尻から零れ落ちた涙が頬を伝い、首筋を滑り降りて衣の端に吸い込まれる。

 その問いに対する答えなど、桜は持っていない。ただ、自分でも知らない奥底から溢れる想いを言葉にした、それだけのことだった。

「行かないで……っ。あなたに置いて行かれるのは、もう、嫌なのです」

 かすれた声で、懇願するように囁かれる。

 強い力で、不意に抱きしめられた。そのぬくもりがやけに心地よくて、懐かしいような気がして、大きく息をつく。

 これでいいのだと、誰かがどこかで教えてくれたような気がした。そして、桜はゆっくりと意識を手放した。

久々に更新しました。

今年はもう少しスピードを上げたいです。

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