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 季節は梅雨の最中だというのに、珍しく快晴だった。

 そろそろ本格的な夏の暑さも始まろうとしているのではないかという気配を含み、空気はこの時期特有の湿った重さを持って身体に纏わりついているような気がする。一日やそこらの短時間の晴れ間では、周囲に重くのしかかるかのような鬱陶しい湿気を解消することは難しいらしい。

 そもそも、日本の夏は湿気が多い。

 それでも、降り続ける雨に否応なしに室内に閉じ込められる日々が続き、ストレスに悩まされることに比べたら、晴れ渡って外に出ることのできるような日は過ごしやすいに違いない。やまない雨につられるように落ち込んでいたような気分も、多少なりとも爽やかなものへ変わるのも本当のことだ。

 そんなありふれた日の、昼下がりである。

 新学期が始まってから、既に二ヶ月ほど。入学した当初のぎくしゃくとした探り合いのような関係はだいぶ薄れ、それぞれに仲のいいグループが出来上がっているような時期だ。未だグループに入らずにいる者もいるが、それを強要するほど心根の狭い者もいないのは、比較的穏やかなクラスだと言える。

 いや、既にグループなどというものは関係ないのがこのクラスである。それなりにグループはできあっているものの、そんな小さな共同体など吹き飛ばすかのように、そこにいる連中は変なことに熱中していた。それも、ほぼ毎日の昼休みを利用しての恒例行事と化している。雨の降り止まなかった期間はお預けになっていたそれは、久しぶりの晴れ間にようやく再開の日の目を見てエスカレートしていた。

 それは、クラス内対抗ドッジボール大会である。

 さして広くもない校舎前の中庭には、教室から持ち出してきたチョークで歪なコートが書かれている。クラスを紅白の2チームに分け、それぞれがその日の放課後の掃除当番をかけての大熱戦が、雨の日以外は飽きることなく繰り広げられているのである。

 そして、本日の試合は、今、佳境を迎えようとしていた。

 ここのところの試合が停滞していたのは天候のせいだが、そのためにもはや日課と化している試合が行われなかった反動なのか何なのか、いつもよりも騒ぎは大きい。

 久しぶりに顔を出した太陽に忙しく立ち回らなければならないのは、洗濯物を溜め込んだ主婦だけではない。長雨におとなしくしていることを強いられた高校生のフラストレーションも、相当に大きいようだ。

 とは言え、こんなことに貴重な昼休みのほぼ全てを潰している理由がどこにあるのか、わからない。おまけに、今日は汗ばむほどの陽気だ。更に汗をかくような遊びに興じているなんて、理解に苦しむ者だっていないわけではない。

 そんなふうに考えはしても、既にクラスの恒例行事になっているものを、一人で無視を決め込むのも協調性がないと思われそうだ。別に、この恒例行事を疎ましく思っているわけでもないのだけれど、自分には理解できないと思うだけだ。

 馬鹿の一つ覚えのように、毎日同じことで大騒ぎをしているクラスメイトの男子たちを見やって、小柄な女子生徒は窓際で溜め息をついた。

 久々に晴れた空が見えて気温は上がっているものの、今朝方まで降っていた雨のせいで湿気は高いままだ。湿気が多いと天然パーマ気味の髪がもっさりと広がってしまうのが、腹立たしくて仕方がない。朝のブローも何もかもが、あっという間に水の泡だ。片手で髪を押さえながらも、応援する他の女子に混じって窓の外を眺める。

さくら! ほら、応援したらいいよ!」

 わずかに上ずった声を張り上げて、桜と呼ばれた少女の脇から、もう一人の女子生徒が彼女の腕を掴む。

 桜はわずかに小首を傾げ、促されるようにして隣の友人が指差した方へと視線を転じた。

 コートの向こう側から、一人の男子生徒が窓際に群がる女子生徒に向かって手を振っている。試合に出ているということは、同じクラスの生徒だ。佐山武さやまたけし、だったはず、と桜は彼の名前を思い返す。彼はこのドッジボール大会の中心人物であり、クラスでも率先して騒がしくする生徒だ。だが、不思議と憎めない得な性分の持ち主でもある。

 一番張り切っているが、割と早い段階で沈没するのも彼だ。ついでに言うなら、これだけ昼休みに大暴れすれば、午後の授業などまともに受けられるはずもない。八割の確率で居眠りをし、教師に小突かれているのもまた、彼だった。

「佐山くん、桜のこと、気にしているみたいだって男子が言ってたよ。桜が応援してあげたら、張り切るんじゃない?」

 これ以上張り切って、どうしろと言うのだろう。

 何とも言えない提案に曖昧に笑い、桜は小さく溜め息をついた。

 正直な話、気にしていると言われてもピンと来ない。どうでもいいと言えば、そうなのかもしれない。誰それが付き合っているだの、誰が誰を好きだの、周りの少女たちはそんな話が大好きらしいが、桜はその手のことにほとんど興味を持てなかった。何だか、自分には関係のないことのような気がしてしまうからだ。

「ええと、気にしているって言われても……。私、そういうの、よくわからないから」

「また、桜はそんなこと言って」

 ダメだよ、そんなんじゃ。と、腕を掴んだ少女が溜め息交じりに言う。

「でも、本当によくわからないし、そんなことより図書館の本を読みた」

「恋愛をそんなこと呼ばわり! 年寄りじゃないんだから、そんなのダメだよ、桜! 別に佐山じゃなければなきゃいけないわけじゃないし、別のクラスの男子でも!」

 やたらと大仰に嘆かれて、桜は困ったように笑うしかない。

 クラスメイトの恋愛話をかわす口実でも何でもなく、本当にわからないから困る。わからないと言うよりも、身近な異性に対してそういう感情を抱くという現実が飲み込めない、とでも言った方がいいのだろうか。何だか、それは自分には違うような気がして、でも、そう言っても相手には伝わらないからわからないと答えるしかない。

 男子のやっている毎日の恒例行事もよくわからないと言えばそうなのだけれど、友だちの言う大事な『恋愛』だって、桜にはわからないもののひとつだ。

 そんな桜の抱く疑問を他所に、熱戦は相変わらず続いている。

 この勝負で負けたチームが、本日のクラス全員の掃除を引き受けるのである。元気のあり余っている高校生男子のやることとしては、割合にまともで建設的な結果を伴っているのかもしれないが、怠惰な昼休みを過ごしたい者にとっては少々迷惑な日課だと思わずにはいられない。だが、そこにはちゃんと救済策が用意されていて、試合をやりたい生徒に代理を頼むか、最初から掃除当番を引き受けるという宣言をしておけばいいという逃げ道もあるのだという。何ともわかりづらい念の入れようだ。

 そんなふうに取り決めができていることからして、わずか二ヶ月あまりで出来上がったクラスの和としては素晴らしいものなのだろう。

 勝負の景品とは言っても、その日の掃除当番が免除されるだけのささやかなものだ。そんなことに熱くなって、という疑問もあるが、おそらく、問題の根本は掃除当番なのではないのだろう。今日の試合が白熱しているのは、長雨の影響でたまった苛々がそこにぶつけられているせいに違いない。

 ぼんやりと試合の成り行きを見守っているうちに、どうやら勝負の行方は決まりかけているようだ。

 先ほど大騒ぎをしていた佐山のいるチームが劣勢らしく、彼は頑張れと喚いている。これ以上何を頑張れと言うのだ、と、誰かが怒鳴り返してどっと笑いが起きる。何しろ、コートに残っているのはたった一人なのである。

 残りは一人だ、やっちまえ、と、誰かが叫ぶ。それを合図に始まった集中砲火のような攻撃を必死に避けながら、たった一人でコートに残された男子生徒は、コートの向こうで無責任に応援だけをする佐山に何事かを怒鳴り返す。こうなってしまったからには防御に徹するしかないのだろうが、多勢に無勢となった状況はさすがにきついのだろう。顔つきは、いやに真剣だ。

 見ているだけの女子生徒たちも、さすがにその状況が気の毒になってきたのか、きゃあきゃあと言う声もわずかなりとも静まってきたようだ。

 勝負は決まっているというのに頑張らされているその男子生徒は、クラスでも一番小柄な少年だ。その小柄な身体を活かした敏捷さでもって今の状況を作り出したのだが、本人としても不本意であったのかもしれない。

 件の男子生徒―西野拓弥にしのたくやは、誰もが振り返るような美少年、というのとはちょっと違う。運動神経にしても、すばしっこい以外には特に秀でた何かを見せるということでもない。それでも、子供っぽく見える容姿にいつも人懐っこい笑みを浮かべてにこにことしている様は、十中八九が『可愛い』と称するであろうタイプである。それゆえに、女子生徒からはそれなりの人気があった。

「ちょ、ちょっと待て! この集中攻撃は……っ、卑怯だ……っ!」

 集中攻撃の的になりながらも、西野は狭いコートの中を所狭しと逃げ回っている。そんな状況に陥りながらもボールからは確実に逃げきれているのだから、彼も元気があり余っている筆頭の一人なのだろう。とうに諦めたのか、同じチームの生徒たちは既に西野のことなど相手にしてない。

 何しろ、西野が要るチームは、既に全員が外野に出されているのだ。コートに残っているのは、西野一人。たいして、相手チームは半分ほどが残っている。その時点で、西野のチームの負けは確定であるはずなのだが、なかなか試合は終わる様子がない。最後の一人を討ち取るまでは、と、妙な方向に盛り上がりが向かっているらしい。

「昼休みが終了するまで、西野が逃げきる方に学食のA定食一回分」

「じゃ、逃げきれずに終わる方に二回」

 必死になっている本人を完璧に無視して、違う話題に花を咲かせる薄情なチームメイトたち。しかも、勝敗とは関係のないことが賭けのネタにまでなっている。

「頑張れ西野! 負けたら殴るからな」

「何だそれは!」

 いつもと変わらない、クラスメイトたちの呑気な会話。それは、桜にとっての日常の風景だった。


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