第3話 「浅野ちょっとこい」
「あったまくる」
鞄を強く握り締め、薄暗い廊下を駆け足で通り抜けた。黒澤の憎たらしい顔が、何度もフラッシュバックする。
黒澤と言う教師はいったい何者なのだ。あいつといると今まで保ってきた何かが、音を立てて崩れ去って行くような感覚に陥る。黒澤とはこれ以上関わってはいけない。なんだかそんな警告音が頭の中で鳴り響いていた。
ちょうど校門を出ようとしたとき、握り締めていた鞄から、苦しそうに着信が鳴った。あたしは慌てて携帯を取り出した。
「もしもし、啓太?」
電話は同じクラスの啓太からだった。
「今日も授業サボっただろ」
啓太の少し怒ったような声が頭に響く。乱れた心の波が、音も無く静かに引いていくような感じがした。
カラオケにでも行っているのだろうか、ざわざわとした話し声と、軽快な音楽が微かに聞こえてくる。
「おい浅野、聞いてんのかよ」
「聞いてる。そんなこと言う為に電話したの?」
あたしってほんと可愛くない。啓太と喋れて嬉しいはずなのに、心はいつも天邪鬼。
啓太とは高校に入ってから知り合った。オレンジ色の髪に、耳にはたくさんのピアス。一見イマドキの高校生な啓太だが、とても友達思いで情に脆い。あたしとは正反対で、あたしには無い部分をたくさん持っている。そんな啓太を好きになるのに多くの時間はいらなかった。
「そんなことじゃないだろ。てか、ちゃんとご飯食べてんの」
「食べてるよ」
啓太は一人暮らしのあたしをいつも心配している。あたしだけじゃない、啓太はいろんな人を心配して気遣っている。だから啓太の周りにはいつも人が集まるのだ。
「あんま無理すんなよ」
啓太の優しさが痛いほど伝わってくる。
「分かってる」
それじゃまたね、そう言ってあたしは携帯を切った。
啓太とはいい友達でいたい。
本当の気持ちを言うのが怖い。友達でいられなくなる時が来るのが怖い。傷つくのが怖い。
自分が弱い人間だというのは分かっていた。でも、今はこのままがいい。
あたしは携帯を鞄にしまい、校舎を振りかえった。4階の教室の窓から黒澤がこちらを見て、ゆらゆらと手を振っていた。
あたしはふざけた態度の黒澤を睨みつけ、誰もいないアパートへと急いだ。
「ただいま」
真っ暗な部屋に一人帰る生活に、あたしはもう慣れ切っていた。一人で暮らすにはこの部屋は大きすぎる。
両親は今、アメリカにいる。もともと父は仕事の関係で、日本を離れ転々としていた。それが今年に入り、アメリカに長期滞在することが決定したのだ。
結婚してもう何十年も立つ両親だが、会えない時間が多かったせいか、未だに新婚のような仲の良さだ。母はすぐにアメリカに行くことを決め、あたしはここに残る事を決めた。
全く寂しくないとは言えないが、今の生活には満足している。仕送りを貰えるため、お金が無くて困ることはまずない。
一人暮らしを始めたばかりの頃は、両親からアメリカに来ないかと毎日のように電話がきた。しかし、二人ともあたしの気が変わることは無いと悟ったのだろう。今では、下らない近況報告か、心配して電話をよこす程度だ。
こんな生活も別に悪くは無い。
そうして、あたしは吸い込まれるようにベットに横になった。
次の日。
しつこくなり続ける目覚ましに気づいた時にはもう遅かった。
「やばっ。寝過ごした」
無常にも過ぎていく時間を感じながら、あたしは学校を目指して走った。外はもう息が白くなるくらいに寒い。
それからやっとのことで、教室に辿り着いたものの、もうとっくに始業のチャイムはなっていた。
あたしは意を決して、目の前の扉を開けた。
「浅野、遅い」
黒澤の鋭い視線が、あたしを貫いた。あたしはその端正な顔立ちにうんざりし、啓太の席に目を向けた。
啓太は心配そうにこちらを見ている。
「黒ちゃん、見逃してやってよ。浅野、一人暮らしだから」
啓太がそう言うと、黒澤は神妙な顔つきで言った。
「浅野ちょっとこい」
「なんですか」
あたしは警戒心を剥き出しにして、黒澤の前に立つ。
「お前、ここ寝癖ついてるから」
黒澤はあたしの髪を掴み、整った顔をくしゃくしゃにして笑った。
「寝癖じゃないし」
「じゃあなんだよ」
可笑しそうに髪を弄る黒澤は、相変わらず馬鹿にした態度だ。
「こういう髪型なんです」
「今時の女子高生ではこう言う髪型流行ってるのか。へぇ参考になったよ」
朝から腹が立つ。黒澤と喋っているだけで、随分とカロリーを消費できそうだ。
「いい勉強になったから今回は見逃してやる」
そう言ってワザとらしく笑った黒澤を、クラスの皆はさすがだと言う目でみている。
あたしはぎろりと黒澤を睨むと、自分の席についた。
「黒澤先生と話してるとき、浅野さん、とっても楽しそうだね」
星野さんはあたしの耳元でそっと囁くと、天使のように可愛らしい顔で笑った。
「いや、違うって」
あたしは慌てて否定をする。
楽しそう?あたしが?そんなわけない。
ただ黒澤と話していると自分が自分で居られなくなる。それが、周りには楽しそうに見えるのだろうか。
……わからない。ついにあたしは考えるのが面倒になって、机に顔を伏せ、静かに目を閉じた。
「浅野、遅刻してきた分際で寝るな」
クラスの笑い声と黒澤の声が、疲れた頭に響いた。
「嫌です」
あたしは机に体を委ねたまま言った。そんなあたしを黒澤は無理やり引き上げる。
「ちょっ、なにすんの」
黒澤に引っ張られた体は、机に伏せることを許されるわけも無く、強引に前を向かせられる。
「はいはい。構って欲しいのは分かったから、起きろ」
「はぁ?ばかじゃな……」
「やっぱり、浅野さん、黒澤先生といると楽しそうだね」
星野さんは、可愛らしく口元を手で押さえ、微笑んでいた。
絶対にありえない。あたしは急に痛み出した頭を抑え、ため息をついた。