悪役令嬢を辞めて静かに暮らすはずが、私の偽装死を見破った冷徹公爵の屋敷で過保護に監禁(?)されることになりました
「アイリス・ヴァルハイト! 貴様の数々の悪逆非道、もはや看過できん! 本日をもって貴様との婚約を破棄し、その身に処刑を言い渡す!」
絢爛豪華な学園の大広間に、王太子ギルバートの怒号が響き渡った。
今は卒業パーティの最中だった。
周囲の貴族たちは息を飲み、蔑みと哀れみの視線を私へと注ぎ込んでいる。
王太子の隣には、儚げな表情で涙を浮かべる男爵令嬢が守られるように寄り添っていた。
責め立てる声を聞きながら、私の心は静かだった。
震えも、恐れも、怒りすら湧いてこない。
ただ、胸の奥で重く冷たく溜まっていた何かが、ふっと軽くなるのを感じていた。
幼い頃からヴァイス公爵家の長女として育てられ、未来の王妃となるべく過酷な王妃教育を叩き込まれてきた。
実の両親からは一度も温かい言葉をかけられたことがなく、ただの政治的な道具として扱われる日々。
十歳で婚約を結ばされた王太子ギルバートは我儘で高慢で、私が血の滲むような思いで整えた書類や公務の成果を当然のように横取りした。
それどころか、私を可愛げのない鉄の女と嘲笑し、最近では男爵令嬢に夢中になって私を人前で理不尽に叱責するようになっていた。
私にはずっと、休息も心休まる居場所もなかった。
本当は、庭の隅で静かに咲く薬草の効能を調べたり、誰もいない図書室で静かに本を開くのが何より好きだった。
けれど、そんな自分の好みや痛みに気づいてくれる人など、世界に誰もいなかった。
だから、この断罪の瞬間が訪れた時、私が感じたのは解放感だった。
これで、終わる。
完璧な令嬢を演じ続ける日々も、あの愚かな男に都合よく搾取される毎日も、全部。
私は背筋を伸ばし、大広間の全員が見惚れるような、この上なく優雅で美しい微笑みを浮かべた。
「……承知いたしましたわ、ギルバート殿下。そこまでわたくしがお嫌いでしたら、この場でお命をお返しいたします」
「なっ……何……!?」
絶句する王太子の前で、私はドレスの隠しポケットから小さな硝子瓶を取り出した。
中に満ちているのは、私が密かに屋敷の薬草園で調合した秘薬——十二時間のあいだ心拍と呼吸を完全に停止させる、自作の擬死薬である。
こんな展開があるだろうと、密かに自作していたもの。
これで仮死して、埋葬された後にひっそりとこの国を抜け出す作戦だった。
もし仮に失敗して脱出できなくても、相当な騒ぎにはなるだろう。
身体が悪いとか言って、早々に隠居生活でも送らせてもらおう。
私は瓶の栓を抜き、躊躇いなく一気に飲み干した。
「あ、アイリス!? 貴様、何を——」
喉の奥がカッと熱くなり、視界が急速に暗転していく。
崩れ落ちる私の身体を誰かが抱き留めようとする気配と、大広間を包む悲鳴と怒号。
まさか本当に即死するとは思っていなかった王太子の青ざめた顔を最後に見ながら、私は心の中で静かに笑った。
さようなら、つまらない私の一生。
明日からは、社会的に死んだ一人の人間として、誰も私を知らない静かな田舎で、好きなだけ薬草を育てて生きていくから。
暗闇の中で目が覚めた。
全身を包む硬い感触と、締め切られた木と土の匂い。
薬の効果が切れ、体温と鼓動が戻ってきたのだ。
「ふう……計画通りね」
私は暗闇の中で指先を動かし、胸の前で印を結んだ。
事前に隠し持っていた小さな発光石を光らせると、案の定、私は頑丈な木箱——棺桶の中に収められていた。
私が大広間で急死したため、実家である公爵家は世間の目を恐れて手早く密葬を済ませたのだろう。
墓掘人の男には、生前に大金を握らせておいた。
土を浅く被せるだけに留め、内部の通気口を確保してもらうよう手配しておいたのだ。
私は魔法で筋力を強化し、棺桶の蓋をぐっと押し上げた。
軋む音とともに蓋が開き、湿った夜風と月光が滑り込んでくる。
泥だらけになりながら墓穴から這い出し、私は深々と夜の空気を吸い込んだ。
肺の奥まで冷たい空気が満ちていく。
「はあ……! 生き返ったわ!」
ドレスの汚れを払い、私は夜空を見上げて感涙にむせんだ。
ついに自由だ。
ヴァイス公爵家の令嬢という重荷も、王太子妃という呪縛も、すべて過去のものとなった。
明日からは、買収しておいた偽名と身分証を使い、隣国の辺境の村で小さな畑を耕して暮らすのだ。
「ふふふ……!勝ち取ったわ、私の静かなスローライフ……!」
「……随分と威勢の良い死体だな、アイリス」
低く、耳の奥に響くような声が暗闇から降ってきた。
背筋に冷たいものが走り、私は弾かれたように振り向いた。
墓地の入り口、樹木の影から一人の男が歩み出てくるところだった。
漆黒の外套を羽織り、手に持ったランタンの火が、その鋭い顔立ちを照らし出している。
夜の海を切り取ったような深い紺色の瞳と、彫刻のように整った容姿。
アルスター公爵家当主、ルードヴィヒ・アルスター。
王国最強の軍人にして、政治の場でも容赦のない冷徹さから氷の公爵と恐れられている男だった。
「……っ!? な、なぜルードヴィヒ閣下がここに……!?」
声が裏返った。
なぜ彼がここにいるのか。公爵家の墓地に、他家の当主が真夜中に一人で佇んでいるなどあり得ない。
ルードヴィヒは泥だらけの私を見下ろし、口元に冷ややかな、けれどどこか凶暴な笑みを浮かべた。
「なぜ、だと? お前が生き返るのを待っていたに決まっているだろう」
「……はい?」
「お前のその規格外の薬調合の知識も、墓掘人に大金を握らせていた手回しも、すべてお見通しだ。お前がパーティ会場で倒れた瞬間、俺はすべてを悟ったよ。お前が自ら死を選んでまで、あの愚かな王太子から逃げたがっていたことをな」
ランタンの光が彼の瞳に妖しく揺れていた。
私はじりじりと後退りしたが、背後には掘り起こした墓穴があるだけだった。
「な、なぜそれを……。いいえ、だとしても閣下には関係のないことですわ! わたくしはもう社会的に死んだ人間です。どうか見逃して——」
「拒否する」
ルードヴィヒは一歩を踏み出し、逃げ場のない私との距離を詰めた。
圧倒的な威圧感が全身を押し潰しそうになる。
「社会的に死んだお前を、野に放つわけがないだろう。お前のような危険で稀有な才能を持つ女を外に逃がせば、他国や野心家に利用されるのは目に見えている」
「そんなことしませんわ!わたくしはただ、田舎で静かに薬草を育てて本を読みたいだけで——」
「匿ってやる」
ルードヴィヒは私の言葉を遮り、冷酷な声で言い放った。
「社会的に死んだお前には、俺に匿われる以外の選択肢はない。この場で本当に死体になるか、俺の屋敷に来るか……選べ」
「それ、選択肢になっていませんわ、 脅迫ですわ!」
「そうだ、脅迫だ」
彼は平然と言い捨てると、泥だらけの私の身体を軽々と腕の中に抱き上げた。
いわゆる姫抱っこの体勢になり、私は悲鳴を上げそうになる。
「か、閣下!? お下ろしください、服が汚れてしまいます!」
「構わん。お前を俺の手の中に収められるなら、衣服の汚れなど安いものだ」
ルードヴィヒは私を抱いたまま、墓地の外に待たせてあった馬車へと歩き出した。
冷たい鉄のような腕の力。逃れることなど到底不可能な圧倒的な力関係。
私の思い描いていた、静かな田舎でのスローライフ計画は、脱出からわずか五分で脆くも崩れ去ったのだった。
連れてこられたのは、王都の郊外にひっそりと佇むアルスター公爵家の隠れ屋敷だった。
「今日からここがお前の居場所だ。勝手に外へ出ようとするな。屋敷の周囲には俺の私兵を配置してある。脱走を試みれば、即座に捕獲する」
初日、ルードヴィヒは冷ややかにそう命じた。
言葉通り、私は完全に隔離されたのだ。
けれど、数日が経過するうちに、私は奇妙な違和感を抱き始めていた。
「閣下、お気遣いはありがたいのですがわたくしは死人なのですから、そんな豪奢な部屋やドレスは必要ありませんわ」
「黙って着ろ。俺の屋敷にボロ布を着た女を置くわけにはいかん」
「……この大量の薬学書と古文書は……?」
「ついでだ。部屋の飾りにでもしておけ」
ルードヴィヒが運ばせてきたのは、かつて私が王宮の図書室で「いつか読んでみたい」と熱望していた、入手困難な貴重な薬学書の数々だった。
それだけではない。
私が隠遁先でやろうとしていたことを察したのか、広大な屋敷の敷地内には、真新しい薬草園まで用意されていたのだ。
「……隠居生活を邪魔されたのは腹が立ちますけれど、環境としては完璧すぎるわね……」
私は呆れつつも、誘惑には勝てなかった。
日中は庭に出て泥だらけになりながら珍しい薬草を植え替え、夜はふかふかのベッドで貴重な薬学書を貪るように読む。
幼い頃からずっと憧れていた、誰にも邪魔されない時間。
厳しかった王妃教育も、ギルバートの理不尽な怒声もない。
ルードヴィヒは毎夜、仕事が終わると必ずこの離れへとやってきた。
「……おい、アイリス。手を出せ」
泥で汚れた私の手を指さし、ルードヴィヒは舌打ちを漏らす。
「っ、申し訳ありません、すぐ洗ってきます」
「そうではない」
彼は私の手首を掴むと、手巾を水に濡らし、驚くほど丁寧な手つきで私の指先や爪の間の泥を拭い取り始めた。
口元にはいつもの冷徹なシワが寄っているが、その触れ方は少しも乱暴ではない。
「公爵令嬢のくせに、相変わらず泥仕事が好きだな」
「……相変わらず、とはどういう意味ですか?」
首を傾げる私に、ルードヴィヒは答えない。
ただ、彼の膝の上に強引に座らされ、そのまま書類の整理に付き合わされるのが毎夜のルーティンとなっていた。
上から目線で威圧的な態度は変わらない。
だが、彼が差し出してくるお茶はいつも私の好みのハーブティーであり、部屋の温度は私に合わせて心地よく保たれていた。
危険な監禁生活のはずなのに、私の心は、かつてないほど穏やかに満たされていなかった。
転機は、匿われて一ヶ月が過ぎた頃に訪れた。
庭で新しい薬草の根を切り分けていた際、研ぎ澄まされた刃物で誤って人差し指を深く切ってしまったのだ。
「痛……っ」
鮮血が滴り、地面を赤く染める。
血の匂いに気づいたのか、屋敷のテラスで書類を読んでいたルードヴィヒが、風のような速さで駆け寄ってきた。
「アイリス! 何をやっている!」
「大したことはありませんわ、少し指を滑らせて——」
ルードヴィヒは私の手首を強く掴むと、素早くポケットから小瓶を取り出した。
慣れた手つきで薬草の粉末を傷口に塗ると、さらにハンカチを細く割いて、指に巻き付けていく。
その一連の動作を見た瞬間、私の頭の中で、古い記憶の破片が弾けた。
薬草を傷口に直接擦り込み、布を独特の結び目で固く止める手法。
普通の手当てとは違う、その特殊な結び方。
あの日——今から十年前、私がまだ八歳だった頃。
ヴァイス公爵家の広大な庭の隅、人目につかない木陰で、血まみれになって倒れていた一人の少年がいた。
刺客に襲われ、腕に酷い傷を負っていた少年。
私は夢中で薬草を探し、傷口に擦り込んで、自分のリボンを解いて同じ結び目で傷を縛ったのだ。
名も告げず、ただ「痛いの飛んでいけ」と笑って去ったあの日の記憶。
身分を隠していた少年は、自分を「ルー」と名乗っていた。
「……あっ」
声が漏れた。
目の前で私の指に包帯を巻いている男の横顔。
シャープになった顎のライン、深い紺色の瞳。
成長して雰囲気はまるで変わってしまったけれど、この結び目。
「……閣下。……もしかして……『ルー』……なのですか……?」
ルードヴィヒのの手が、ピタリと止まった。
静寂が庭に満ちる。
ゆっくりと顔を上げたルードヴィヒの瞳には、今まで見たこともないような、深く熱い感情が渦巻いていた。
「……ふん、やっと気づいたか、鈍感なアイリス」
彼の声から、いつもの冷徹な仮面が落ちていた。
「……え? あ、あの時の少年が……なぜアルスター公爵閣下に……?」
「当時は公爵家の分家に隠されていたからな。刺客に追われ、死にかけていた俺を助けたのがお前だ。……あの日から、俺の心はお前に奪われたままだ」
ルードヴィヒは立ち上がろうとする私を許さず、そのまま地面に押し倒すようにして、私の頭の横に手を突いた。
いわゆる壁ドンならぬ、草むらでの押し倒しである。
至近距離で見つめ合う。
彼の熱い吐息が肌に触れ、心臓が破裂しそうなほど跳ね上がった。
「な、何を……」
「お前がギルバートの婚約者になったと知った時、俺がどれほど絶望したか分かるか?」
ルードヴィヒの低い声が、耳元で響く。
「あんな愚かな男のために、お前が笑顔を失い、鉄の女と嘲笑されながら擦り減っていくのを見ているのが、どれほど吐き気がしたか……! 俺の手で今すぐ奪い去りたかった。だが、王家の婚約者である以上、お前を巻き込むわけにはいかなかった」
彼の指先が、私の頬を優しく辿る。
その触れ方は、壊れ物を扱うように愛おしげだった。
「だから……お前がパーティ会場で擬死薬を飲み、自ら死人となって立場を捨てた瞬間、俺は歓喜したよ。……これで、ようやく俺の手の中に落ちてきた、とな」
「っ……!」
「逃がすと思うか? 三年前……いや、十年前からずっとお前だけを望んでいた俺が、お前をそのまま田舎へ逃がしてやると思うか?」
ルードヴィヒは私の唇の目と鼻の先まで顔を近づけ、高圧的で、けれど途方もなく甘い笑みを浮かべた。
「お前には選択肢などないと言ったはずだ。社会的に死んだお前は、一生、俺の目の届く場所で、俺だけに甘やかされて暮らせ。……拒否権はやらん」
強引な言葉。けれど、その裏にあるのは十年間育まれ続けた、途方もなく深い愛だった。
今まで誰からも必要とされず、道具として扱われてきた私の心に、温かい熱が溢れていく。
冷酷な公爵の腕の中で、私はようやく気づいたのだ。
自分が本当に欲しかったのは、静かな隠居生活などではなく——私という人間を、そのまま愛してくれる誰かだったのだと。
私は泥のついた手で、彼の胸元をぎゅっと掴んだ。
「……上から目線すぎますわ、ルードヴィヒ閣下」
「フン。嫌なら逃げてみろ。地球の果てまで追いかけて捕まえてやる」
「もちろん、逃げませんわ……ここに、居てあげます」
私がフッと微笑むと、ルードヴィヒは目を見開き、それから崩れるように笑って、私の唇に深く、愛おしい口づけを落とした。
数ヶ月後。
王都では、アイリス・ヴァルハイトを失った王宮が公務の停滞と財政難で大混乱に陥り、王太子ギルバートが廃嫡されたという噂が聞こえてきた。
けれど、そんな世間の喧騒など、今の私には関係のないことだ。
「アイリス。庭仕事はそれくらいにして、茶にしないか。お前の好きなハーブを淹れた」
隠れ屋敷のテラスで、極上の外套を羽織ったルードヴィヒが私を呼んでいる。
その膝の上には、私が読むための新しい本が用意されていた。
「今行きますわ、ルードヴィヒ」
私はスカートの裾を払い、彼のもとへと駆け寄る。
相変わらず高圧的で過保護な冷徹公爵様に、一生抗えない甘い手縄をかけられながら。
私の本当の幸せな生活は、ここから始まっていくのだった。
【完】




