4 檻の中の悪魔2
「今日も、同じように黒いのが笑っていたのか?」
宰相の問いに、エレンは小さく頷いた。
「母親は元気になったのだろう? そのことに気がつけば…」
「母は、私の言葉を許して、くれません、でした。…その後、使用人の寮でも黒いもやもやがあちこちに広がっていて、どんどん大きくなって、みんな寝込むようになって。…その時も、…消えてってお願いしても消えてくれなくて、怖くて走って逃げました。…でも、その間に黒いもやもやは広がって、もう人の姿が見えないくらい真っ黒な人もいて、怖くて、みんなが黒いもやもやに食べられてしまうのが嫌で、『死んじゃえ』って、…言っちゃったんです」
後悔の混ざる言葉。それは黒いもやもやを消したことではなく、かつて親に責められる原因となったあの言葉を再び口にしてしまったことに対してだ。
「みんな、よくなったんだな?」
エレンは頷くよりも先に目に涙をためて、それがとめどなく頬を伝った。
「く、黒いもやもやは、なくなったけど、…死にそうな人に『死ね』って言うなんて、ひどい子だ、やはり悪魔が憑いているに違いないって。危篤だと言われた兄も、起き上がって最初に言った言葉は『悪魔は出て行け』でした。そして私は家を追い出されました。
初めは教会に預けられて、でもそこにも黒いもやもやがあって、見ないふりをしていても街中真っ黒になるほど広がっていって、もやもやが私を見て笑ってるんです。時々私にもまとわりつこうとして、怖くて、消えてほしい、いなくなってほしいっていっぱいお祈りして、でもだめで、『死んじゃえ』って言ったら、消えてしまいました。だけどシスターは病気の人にそんなことを言うのは悪魔が取り憑いたせいだって鞭で打たれて、物置部屋に閉じ込められました。
司祭様が知り合いの悪魔払いの人を呼んで、それがあの人です。『珍しい悪魔だから買い取る、これでもう悪魔を怖がる必要はない』と言うと、父は喜んでお金を受け取りました。教会も寄付金をもらってました。みんな私がいなくなって嬉しそうでした。誰からもさよならを言われませんでした。それから私は人ではなくなって、ずっとあの人と暮らしてます」
奇蹟の力に気がついたのは、あの自称「悪魔使い」の男だけだったのだろうか。
目の前であれほどまでの回復を見せられてなお、「死ね」という言葉だけを責め立て、子供を売るものだろうか。病で弱った心と体に追い打ちをかけた言葉に敏感に反応してしまうのはわからないでもないが…。
一度「悪魔」のせいにしてしまえば、全ての不幸はその「悪魔」に負わせればいい。最も楽な解決法に便乗したのだろう。「悪魔」さえいなくなれば幸せになれる。そう自分に信じ込ませて…。
エレンがいなくなって本当に幸せになったかは、誰にもわからないが。
「その腕の黒い羽根の痣は、生まれつきのものなのか?」
「刺青を、されました。悪魔の証拠を作るって。目に見えるものがあると、みんな信じるから…」
押さえつけられ、刺青を入れられた時の痛みと悲しみを思い出し、エレンはマントの上から自分の左腕をさすった。
宰相は衛兵を呼び、檻を開けさせた。衛兵に柵から離れて立つよう指示し、
「腕を見せてもらえるか」
と声をかけると、エレンは頷いた。
宰相一人が檻の中に入り、差し出した手をとり、怖がらせないようゆっくりとマントをめくった。
洗った痕跡もないあちこち穴のあいた粗末なマントから出された手は黒ずんでいて、やせ細った腕は折れそうなほどだった。そこに描かれた黒い羽根の刺青は痣というには模様がくっきりとしすぎていた。
よく見ると腕にはいくつも傷があり、鬱血痕も見られた。今日だって何度も首につながった鎖を引っ張られ、蹴られていた。それなのに「こいつは悪魔だ」と前置きされたために、誰もがエレンを人として見ず、目の前で虐待を受けていても悪魔だから当然だと止めようともしなかった。
思い込みというのは恐ろしいものだ。
悪魔でも、罪人でもなく、特別な力で人々を病魔から救ってきたこの子は誰からも評価されず、認められるどころかその力故に人として生きることさえ許されないとは。
「おまえに頼みがある。うまくいけばおまえを人に戻せるかもしれない」
エレンの目の前にいるこの人はこの日初めて会った人だ。しかしこの人は男の言葉に惑わされず、エレンが悪魔ではなく人だと見抜いてくれた。エレンが死んでほしいと願ったものが何かを察し、エレンにはそれを消す力があると気付いてくれた。「死ね」という言葉に惑わされ、誰も信じてはくれなかったのに…。
この人のことを、エレンは信じたくなった。頼まれた内容に、エレンは迷うことなく
「はい」
と答えた。
宰相は汚れて臭うエレンを気にも留めず抱えあげ、檻の外に連れ出した。




