第5話 前夜祭と揺れる心
朝の光が町の石畳を染め始める頃、ヴェルトナ町は普段にも増して慌ただしくなっていた。
いよいよ明日に迫った豊穣神の祭り――通称「収穫祭」とも呼ばれ、秋に豊作を迎えるための感謝と祈願を込めた行事だ。飾り付けや屋台の準備で町中が活気に溢れ、人々の笑い声がそこかしこから聞こえてくる。
「ここに花を飾ったらどうかしら?」「屋台は広場の端に並べて」「こっちは果物のジャムが足りないぞ」
早朝から、そんな声が飛び交い、通りには様々な品が運び込まれていた。
アリーシャは宿の窓からその景色を眺め、ほんの少し微笑む。町全体が喜びに包まれているようだ――こんな暖かい雰囲気を、未来ではほとんど見られなかった。
「おはよう、アリーシャさん。今日はどうする? 祭りの準備でも手伝うの?」
食堂の入口に姿を現したのは、マルク。最近は毎朝のように挨拶を交わしているが、今日は妙にそわそわしているように見える。
「そうね。何かできることがあれば手伝おうかしら。私、そこまで手先は器用じゃないけど……」
アリーシャが苦笑いを浮かべると、マルクは「大丈夫だよ」と笑ってみせる。
「見たところ、人手はいつもより足りてそうだし、何より祭り前日は前夜祭的な催しもあって賑やかなんだ。兵舎からも数名が警備に回るけど、よかったらアリーシャさんも一緒に回らない?」
「警備を手伝うってこと?」
「うん、そんなにガチガチじゃないけど、露店とか踊りの練習に人が集まるから、もしトラブルが起きたら対応しなきゃいけないし」
確かに、つい最近も偽薬商人やゴブリンの話があったばかり。そうした小さな事件が祭りを台無しにしないためにも、注意は必要だ。
アリーシャは「わかったわ。少しは役に立てるかもしれないし」と答えると、マルクはほっとしたように笑顔を返した。
「じゃあ、お昼過ぎくらいから広場を回ろうか。祭りの本番は明日だけど、前夜祭は今日の夕方ごろから始まるし……それまでは自由にしていいと思う」
「了解。何かあったら声をかけるわ」
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午前中、アリーシャは町の露店や商店を手伝いながら、地元の人々と触れ合っていた。装飾用の花を配達したり、屋台で簡単な道具を運んだり――細々した作業でも意外と楽しいと感じる。
中でも新鮮な果物や焼き菓子を扱う屋台は香りが良く、つい食欲をそそられる。未来では合成食料が中心だった彼女にとって、この町の「手作りの味」は新鮮そのものだ。
「祭りの時はみんな大喜びなんですよ。子どもも大人も、踊りや歌を楽しみますし、それに……恋のチャンスだって言われてますからね!」
ニコニコと話す屋台の少女がそう囁き、アリーシャは思わず苦笑いを浮かべる。
「恋のチャンス……それは、どういう……?」
「恋人と一緒に踊ったり、勇気を出して告白したり――ほら、年頃の若者同士が盛り上がる時期でもあるんですよ。アリーシャさんなんか、たくさん誘われそう!」
確かに、アリーシャは目を引く容姿をしている。周囲から見れば、昨日今日で町に溶け込んだ不思議な美女、という認識なのかもしれない。
しかしアリーシャ自身は、“35年後に帰る使命”が頭から離れず、誰かと本気で結ばれるなどと考えられないでいた。まだこの時点では、マルクをはじめとした町の人々を好意的に思ってはいても、「いつか離れなければならない」という気持ちを強く意識してしまうのだ。
「そんな余裕は……今はまだ無さそうね」
曖昧に笑ってごまかし、屋台の少女と別れる。
さっきの会話がどこか胸に引っかかる。 “恋をしてはいけないわけじゃない”。頭ではそう思いながら、心の隅でストッパーがかかるのを感じるのだ。
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正午を過ぎ、広場の準備もいよいよ大詰め。特設ステージや踊りの輪のために空間が作られ、飾り紐があちこちに渡されている。
アリーシャは一度宿に戻り、簡単に昼食をとってからマルクと合流。兵舎からは彼のほかにもう一人、ランド軍曹も見回りに出るらしいが、軍曹は別ルートを回るようだ。
「よし、それじゃ、オレたちで商店街のあたりを見て回ろうか」
「ええ、今日のところは大変な事件が起こらないといいけど」
歩き始めた二人の周囲では、すでに楽器の音や歌声が聞こえ始めている。夕方から本格化する前夜祭に向け、練習や打ち合わせをする人が多いのだろう。
そんな華やかな雰囲気の一角で、誰かが転んだような騒ぎが起きた。
「きゃあっ!」
「大丈夫ですか!?」
声のほうに目をやると、年配の女性が荷物を落として倒れ込み、周囲の人が集まっている。行商人らしき男性が慌てて手を貸しているが、どうにも人だかりで状況が混乱していた。
「行ってみましょう」
アリーシャはマルクとともに駆け寄る。
どうやら女性は足を挫いただけのようだが、重たい荷物を落とした衝撃で痛みが増したらしい。
アリーシャはすかさず膝をついて声をかける。
「すみません、足、見せてもらえますか? 少しなら治療できます」
女性がうっすら涙目で頷いたので、アリーシャはそっと「癒しの火種」を発動し、小型の炎のような光を足首に当てて治癒魔法をかけた。
周囲で見守る人たちは「おお……!」と驚嘆の声を上げる。
「は、はぁ……なんだか痛みが和らいだような……」
「無理に歩かないでくださいね。しばらく休めば良くなると思います」
痛みが緩和された女性は、アリーシャに頭を下げ、傍にいた行商人が手荷物を持って支えてくれた。その光景を目にした町の人々は、「あの魔法使いさんだ」「また助けてくれたのか」と噂し合う。
「いやあ、アリーシャさんがいてくれて助かったよ。本当にありがとう」
マルクも素直に感謝する。
アリーシャは周囲の注目を浴びながら「大したことはしてないわ」と笑うが、内心、まだ慣れない感覚にくすぐったさを覚えた。
(私が魔法を使うたびに、こうやって注目を集めるのかしら……。いつか正体を深く追及されないといいけど)
そう思う一方で、こうして目の前の人を助けられたのは素直に嬉しい。未来では、こんな穏やかな“感謝”の場面は少なかったのだから。
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やがて、日が傾き始める。町のあちこちから灯りや音楽が漏れ出し、祭りの“前夜祭”へ向けて準備が整いつつあるのが見て取れた。
広場では、小さな舞台で楽団がリハーサルをしており、踊り子たちも鮮やかな衣装を着て腕や腰を動かす練習をしている。露店には早くもお祭り気分のお客が訪れ、賑わいを見せている。
「すごい、もう始まってるのね」
「正式にはまだだけど、こうやって夕方から盛り上がっちゃうのが、うちの町流なんだよ」
マルクが苦笑しながら言う。兵舎からも「前夜祭のうちはそこまで厳戒にしない」という通達が出ているそうだ。
ただ、ラフな雰囲気だからこそ、万が一トラブルが起これば対応が遅れがち――そこが警戒ポイントというわけだ。
しばらく露店を回り、お酒や軽食を扱う屋台の状況をチェックする。
「おや、兵士さん……そっちのお嬢さんは彼女かい? いやあ、美人だこと」
屋台の親父が茶化すように言うと、マルクは慌てて「ち、違います!」と声を上げ、アリーシャは思わず苦笑する。
(まるで恋人同士みたいな言われ方ね。でも、そんな関係にはなれない……)
そんな寂しさを心の奥に閉じ込め、アリーシャは笑顔を作る。
一方でマルクも顔を赤らめて口ごもりつつ、「ホ、ホントに違うんだからな!」と強調して屋台から離れていく。その姿は少し可愛らしくもある。
「ごめんね、変なからかい方されて」
「あ、いや、オレは別に……」
マルクは困惑しながらも、視線をそらせない。一瞬、アリーシャと目が合うと、なぜか息が詰まるように感じる。
彼女の瞳の奥には、何か計り知れない憂いが浮かんでいるように見えたからだ。
「……あの、もし迷惑じゃなかったら、祭り本番の明日、少しだけ一緒に回ってみないか? オレの任務が落ち着いたらでいいし……」
マルクが意を決したように誘ってくる。
それは半ばデートに等しい提案だ。仕事の合間とはいえ、兵士の彼が誘うとは勇気が必要だったのだろう。
アリーシャは迷うが、断る理由もない。
「……ありがとう。もし余裕があったら、ね」
そう柔らかく答えると、マルクは「ああ、うん」と嬉しそうな笑みを浮かべた。
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そうこうしているうちに、すっかり陽が落ちた。
広場では前夜祭が本格始動し、賑やかな楽曲が奏でられ、踊り手たちが華やかな衣装で躍動する。見物客も増え、輪になって手拍子を打つ人々の笑い声が町に響きわたった。
アリーシャとマルクは、時折声をかけられながらも、警護の視点で周囲を見回っている。
「いまのところ、変な人影やトラブルは見当たらないね」
「ええ、偽薬商人の影もないし、森の魔物が攻めてくる気配もなさそう」
ホッとする反面、アリーシャの胸には微かな不安が宿っていた。
――この平和な光景はとても素敵だけど、今までの経験からすると「何も起こらない」とは考えにくい。もし明日、本番の祭りで大きなトラブルが起きたら……。
そんな思案に耽っていたとき、突然ステージ上の楽団が切れのある演奏を始め、観客たちが拍手喝采で応える。
「わあ……」
思わずアリーシャも、その迫力に目を奪われる。太鼓のような打楽器と弦楽器が組み合わさり、身体の芯に響くリズムが生まれる。
「はは、すごいだろ? この町じゃ年に一度くらいしか見れない本格的な演奏なんだ。普段は近隣の都市で活躍してる芸人や楽師が集まるんだってさ」
マルクが得意げに解説する。
アリーシャはしばしその音色に聴き入り、気づけば微かに体がリズムを刻んでいた。魂が揺さぶられるような感覚――こうした祭りのエネルギーを感じるのは初めてかもしれない。
自然と笑みがこぼれる。こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
(でも、それは無理なのよね……私はいずれ、この世界を去らなければならないんだから)
そう心の中で呟き、切なくなる。だが、今だけは余計なことを考えず、この一瞬を楽しんでも罰は当たらないはず。
「……うん、いい演奏」
アリーシャが素直に言葉を漏らすと、マルクも嬉しそうに「だろ?」と笑う。二人の間に、なんとも言えない空気が流れた。
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前夜祭は夜が更けるにつれ、さらに熱を帯びていった。
しかし本番はあくまでも“明日”だ。遅い時間になる前に人々も休みに入り、屋台の一部は片付けを始める。踊りや演奏も、翌日に備えてほどほどで切り上げる習慣らしい。
アリーシャとマルクは、日付が変わる前に一旦退散しようということになった。警護隊員も交代が来るためだ。
「今日はお疲れさま。明日こそ本番だけど、アリーシャさんは祭りを楽しんでね。もし何かあればすぐ呼んで」
「ありがとう。あなたも夜更かししすぎないように」
そんな軽い冗談を交わしつつ、二人は町の中心部で別れる。
マルクは兵舎方面へ、アリーシャは宿へ戻る道を進む。
夜風が心地よい。アリーシャは宿の近くまで来たところで、小さく伸びをした。
この町で過ごす時間が、こんなにも穏やかで温かいものだなんて――未来の荒廃した世界しか知らなかった自分には、まるで夢のようでもある。
「……明日、何も起こらなければいいけれど」
月明かりを見上げながら、アリーシャはぽつりと呟く。
この土地で芽生えた人々への愛着。それを壊さないためにも、そして自分が成すべき使命のためにも、大きな混乱は避けたい。
しかし、未来を変えるということは、いずれは大きな歪みと向き合うことに他ならない。怯んではいけない……そう言い聞かせながら、アリーシャは静かに宿の扉を開けた。
――こうして、にぎやかな前夜祭の夜が更けていく。
明日行われる豊穣神の祭りが、果たして平和に終わるのか、それとも新たな波乱が待っているのか――誰もまだ知らない。
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