94 さやぐれスパイダーと山盛り料理
「月の女神、あっさり帰っちゃったね」
血溜まりの中へと沈んで、そして消え去っていった月の女神。それを見送った蟲たちは、やっと肩から重荷が降りたとほっと息を吐いた。なにせ神という存在は、そこにいるだけでプレッシャーを放つものだ。
それにしても、月の女神は随分と意味深な言葉ばかりを残していってくれた。百足が造物神に狂った愛を向けられているとか、少女が樹海に捨てられたのは自分のせいであるとか。
説明責任を果たすという気があるならば、せめてもう少し具体的に語って欲しいものである。これだから神様はいけない。
蜘蛛だって、やれやれやってらんないねと首を振っている。神の気紛れに付き合い切れないといった様子だ。
まったく神というのは、どうしてこうも気紛れなのだろう。それに振り回される下界の下々のことも、少しは考えて欲しいものだ。
しかしそんな数々の不満たちは、次の瞬間には蜘蛛の頭の中からすっかり消え去っていた。先程月の女神が沈んでいった血溜まりの周辺で、いそいそと奇行を成す者の姿が目に入ったからだ。
「ねえ百足、君ってば一体何やってるんだい?」
小屋の床に溜まった月の女神の血液を、百足がえっさほいさと集めていたのである。彼はどこからか取り出した試験管のようなガラスの容器に、月の女神の血液を一生懸命に汲み取っていた。
彼の掌の中には既に、月の女神の血液で一杯になった試験管が五本も握られている。
「何って見りゃわかるだろ、素材収集だ。神様の血液だぜ、絶対良い素材になると思わないか?」
「……はあ、貴方ってのは本当にぶれないわね」
至って真面目な顔で答える百足に、辟易した様子で蛇が嘆息する。神様の血ですら、百足の眼には素材として映っているのだ。随分と冒涜的な行いである。
というか百足はついさっき、造物の神から狂愛を向けられているという衝撃的な事実を告げられたばかりだ。それなのによく平然としていられるものだ。
まあ、アーサーからの好意にすら気付いていない鈍感な百足のことだ。どうせそれほど重大には受け止めていないのだろう。
「……みんな、おはよう」
そうして蟲たちが月の女神との邂逅の余韻に浸っていると、ベットで寝ていた少女が目を覚ました。夜通し戦った疲労もすっかり消え失せたようで、彼女は伸びをしながら呑気にあくびをしている。
砂賊を殲滅し、エリマキ砂竜を束縛の鎖から解放したのが今朝の日の出の頃。それからずっと眠っていたのだから、半日以上も眠っていたことになるだろう。
元気そうで良かった。眠りから覚めた少女を見て、そう蟲たちが安心したのも束の間……彼らはゾッとした。
ニコニコと笑う少女の背後に一瞬、妖しく微笑む月の女神の顔が見えたのだ。その顔はすぐに消えたのだが、幻覚というにはあまりに明瞭すぎた。
どんな時でも神は見ている。そういうことだろう。
まったく面倒なことに巻き込まれてしまったものだ。神のお気に入りとなってしまった少女たちは、これからずっと月の女神の視界の端に捉えられ続ける。
つまり、神の瞳によって監視され続けるのだ。恐ろしい話である。
これからのことを案じながらも、蟲たちは無邪気に笑う少女のことを見ていた。どのみち蟲たちは、これからも少女のことを守り育てていくのみである。たとえその道筋の先に、神が待っているのだとしても。
と、そんな時であった。小屋の扉がトントンと叩かれ、それに続いて村人のこんな声が聞こえてきたのは。
「お待たせしました皆様、宴のご用意が出来ましたよ!」
「おやまあ、いつの間にすっかり暗くなってしまったようね」
小屋の外に出た蛇は、すっかり西に傾いてしまった太陽を見てそう呟いた。
砂賊との戦いの反省会をしたり、月の女神への質問コーナーをしたりと色々やっていたら、いつの間にか随分と時間が経っていたようだ。辺りはすっかり綺麗な夕焼け色に染まっている。
オアシスの水面が琥珀色に照らされて、まるで巨大な一個の宝石のように輝いていた。
「さあさあ皆様、広場の方へ! 宴の準備はもう出来ておりますよ!」
小屋から出た少女たちを、村人がそう言いながら先導していく。その声に反応した少女が村の広場の方を見やると、黄昏時の暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる光が見えた。それは宴の光だ。
光だけではない。香ばしい料理の匂いや、楽しげな会話の声も伝わってくる。その雰囲気に、少女はわくわくした気持ちに包まれた。
これから始まるのは宴。砂賊団から村を守ってくれた少女たちへの感謝を示すための、村をあげての盛大な宴だ。
広大なこの砂漠においては、人と人の出会いはすべからく一期一会である。そのため砂漠に生きる者たちは、人との出会いを大切にする人間性を持っている。それが村を救ってくれた恩人となれば尚更だ。
「せっかくだし、ご厚意に甘えるとしましょうか」
「うん! わたし美味しいものいっぱい食べる!」
少女は蛇と手を繋いで、楽しそうに笑いながら広場の方へと歩いていった。アーサーはさりげなく百足と腕を組んで、すっかりデート気分になっている。
ちなみに今のアーサーは、百足の仕立てた外行き用の洋服を着ている。薄手の白シャツと群青色のジーンズでボーイッシュなコーディネートだ。もちろん彼女の金髪はポニーテールに結われている。
アーサー曰く、この服を着ていると製作者である百足の温もりを感じられて幸せになれるらしい。
「あれ、ちょっと待って……僕だけぼっち……?」
そして一人残された蜘蛛は、少しだけしょんぼりとした様子で皆の後を追っていくのであった。
「お嬢ちゃん! こっちのも食べてってくれよ!」
「うん、食べる!」
「おっと、うちの串焼きも絶品だぜ! どうだい!」
「食べる!」
両手一杯に料理を抱えた少女が、楽しそうな顔をして広場を歩いていく。
オアシスのほとりに位置するこの円形の広場には今、沢山の屋台が設置されている。村人たちがそれぞれの食材を持ち合って、得意料理を振る舞っているのだ。
屋台に立つ村人たちから料理を勧められた少女は、言われるがままにその全てを食らっていた。
そんな少女のことを、ぼんやりとしたランタンの光が照らしている。広場の空中に張り巡らされたロープに、沢山のランタンが吊り下げられているのだ。
そして広場の中央の方では、村人たちが思うままに陽気に踊っている。その中には村の門で出会った守衛の男や、診療所にて蜘蛛と蛇が治療した患者たちもいた。みんな元気そうである。
それを見て、少女はほっとした。陽気な踊りに心を絆されたからというのが半分。そしてもう半分は、この広場に溢れている数々の笑顔を守ることが出来たという嬉しさであった。
そんなこんなで屋台を回っていると、少女は一つの屋台の前に辿り着いた。他の屋台と比べても、何やら随分と繁盛している屋台のようである。
その屋台では、どういうわけか百足が砂竜の尻尾ステーキを振る舞っていた。手拭いを頭に巻き付けた彼は、赤熱した鉄板の上で見事に肉を躍動させている。
「ねえ百足、どうして貴方は振る舞う側に回っているのかしら」
いつも通りの破天荒を披露してくれている百足に、本日二度目の嘆息を披露する蛇。しかしそんな蛇のことも意に介さず、百足は皿に盛り付けた尻尾ステーキを差し出してきた。中々に美味しそうである。香ばしい脂の匂いもする。
ちなみにこの屋台には、エプロンを着用したアーサーも一緒にいる。デート気分は台無しだが、鉄板で肉を焼く彼女はそれはそれで楽しそうである。
アーサーは百足の破天荒ですらも愛せてしまうのだろうか。そうだとすれば、彼女もまた大層な酔狂者である。
「造物主、そろそろ焼き上がりますよ」
「よし、じゃあ盛り付けと付け合わせの用意を頼んだ」
百足とアーサーが見事なコンビネーションで尻尾ステーキを焼き上げていく様からは、やはり尋常ならざる絆の深さを感じさせられる。曲芸人が披露する芸のように、磨かれた所作の数々が光っているのだ。
そんな二人の共同作業を、村人たちが初々しい恋人たちを見るかのような生温かい目で見守っていることを、百足とアーサーはまだ知らない。
「ねえへび、わたしあっちのテーブルに座って食べてるね」
「分かったわ。食べ過ぎないようにするのよ?」
「うん!」
両手一杯に料理を抱えた少女は、テーブルの上にそれらをずらりと並べ、満を持して食事を開始した。パンの間に肉と野菜を挟んだものや、肉と太陽トマトのミートソースに小麦の麺を絡めたもの、または魔獣肉の串焼きなど。それらの美味しそうな香りと鮮やかな彩りが少女の食欲をそそる。
砂漠緑化計画のために賢帝からの支援を受けているこの村には、定期的に食料をはじめとする生活必需品が運び込まれている。そんな食料たちを、村人たちは大盤振る舞いしてくれているのだ。
だがテーブルに置かれた大量の料理たちは、あっという間に少女の胃の中へと消えていく。まるで吸い込まれていくように。
死の樹海での生活で鍛え上げられた少女の肉体は特別製。よって少女は一秒間に三十回ほど、口に入れた物体を噛むことが出来る。樹木を突くキツツキのような速度で顎が動くのだ。見ているとかなり面白い。
そんな強靭な顎が、少女の常人離れした食事速度を実現しているのである。
それに加えて、少女の胃の容量はまさに底なし沼。恐ろしい食事速度と底なしの胃、この二つを併せ持った少女がいるのだ。この村の食料の備蓄は今日、間違いなく底をつく。
「あの子もよく食べるものね。成長期かしら」
空っぽになった皿を山のように積み上げていく少女を見ながら、蛇はくすくすと笑っている。食らい尽くされるこの村の食糧庫のことを気の毒に思いながら。
そして自分も何か口にしようかと、蛇が辺りを見回していたところ、彼女はとあるものを見つけた。広場の端っこのテーブルで一人寂しく、ちびちびとお酒を啜る蜘蛛を。
「な~にやってるのよ貴方はここで」
珍しいものを見た時のような、または揶揄うような声色でそう言いながら、蛇は蜘蛛のいるテーブルに相席した。蜘蛛は珍しく落ち込んだ表情をして、陶器のコップに注がれた果実酒をゆっくりと啜っている。酒の肴も何も無しに。
「何って、一人反省会だよ。サンディサーペントの口封じをみすみす許しちゃった僕に、宴を楽しむ資格なんて無いでしょ」
どうやら蜘蛛はやさぐれているらしい。貴重な情報源であった間者の男をサンディサーペントによって口封じされるというミス。それを犯してしまった自分に失望しているのだろう。
蜘蛛はその少年じみた外見に反してかなりの完璧主義だ。やると決めたことはやると、そう自身に課しているいる性質なのである。
それは他でもなく、家族である百足と蛇、そして少女のことを守るための自戒だ。
「しょんぼりしてる貴方なんてらしくないわよ。もっとシャキッとしなさいな」
「……なんだよ年上ぶっちゃって」
「実際私は貴方より年上よ。そもそも私が後先構わず全部燃やしちゃったのが悪かったんだし、貴方が気に病む必要はないわ」
しょぼくれた蜘蛛を慰めるように、蛇は彼の頭をごしごしと掻き回している。いつもの蜘蛛ならばそれを迷惑がるのだろうが、今の彼に限ってはそんな元気も無いようだ。
蛇の慰めの言葉の甲斐も無く、蜘蛛は未だに俯いたまま。やはり彼のショックは相当に大きなものだったのだろう。それにお酒の酔いが相乗することで、蜘蛛のネガティブは加速してしまっているのだ。
そんなどんよりとした蜘蛛を見かねた蛇は、彼に向けてすっと一皿の料理を差し出した。百足&アーサー特製の尻尾ステーキである。
「これは……」
尻尾ステーキの芳醇な香りに、蜘蛛がやっとその顔を上げた。
もしやこのステーキ、蛇が自分のことを気遣ってわざわざ持ってきてくれたのか。蜘蛛の心にそんな温かい希望が湧き出してくる。
目の前で頬杖をついている蛇のことが、途端に輝いて見えてきた。目尻から感涙が溢れてきそうになる。
「蛇……君ってやつは」
優しいじゃないか。感動に身を任せて、蜘蛛はそう言葉を続けようとした。
しかし、即座に彼の口はつぐまれてしまう。何故ならば尻尾ステーキに続いて、肉と野菜を挟んだパンにミートソースの小麦麺、串焼き肉などの数々の料理が、次々と蜘蛛の目の前に並べられていったのだから。
大量の料理が、あっという間に彼の眼前に揃い踏みしてしまった。
「村の人から貰ったのだけれど食べ切れないから、これ全部貴方が食べて頂戴。ほら、私って食が細いから」
そう、蛇は別に蜘蛛を励ますために料理を持ってきたわけではないのだ。彼女は食べ切れなかった料理を蜘蛛に押し付けに来ただけなのである。
蜘蛛は非難するような視線を蛇に向けるが、彼女は至って平然とした顔でニコニコと微笑み続けている。
「……君ってそういうとこあるよね」
蜘蛛はそう言って大きな溜め息を吐くと、黙々と料理に手を付け始めた。どうやら色々と諦めたようである。
蛇の鬼のような所業を見た後だと、落ち込んでいる自分自身ことが馬鹿らしくなってくるのだろう。だから落ち込むのはもうやめというわけだ。
そして、大量の料理を相手に四苦八苦する蜘蛛のことを、蛇は見世物を楽しむかのような眼で眺め続けているのであった。
気位の高い蛇に我儘をふっかけられるということは、それだけ彼女に信頼されているということです。
それはそうとしても、普通に蜘蛛は不憫ですけどね。