93 月の女神と質問タイム
「はじめまして、我は月の女神。月と救済と貞潔を司る神です」
蟲たちと少女が体を休める小屋の中に、突如月の女神が出現した。
当然のように重力を無視して空中に浮遊している月の女神は、薄っすらと輝く白銀の衣を全身に纏って、白昼堂々悠然と顕現していた。しかもその全身からキラキラと光る結晶のようなものを振り撒いていて、それがなんとも美しい。
そしてその美しい姿を目にした三匹の蟲たちは、一瞬言葉を失ってしまった。何故ならば、月の女神の顔立ちに少女の面影を見てしまったからである。少女が二十歳くらいにまで成長すれば、彼女の立ち姿は完全に月の女神と重なることだろう。
まさに『半身』だ。少女と月の女神は片割れ同士、二つで一つなのだと、否が応でも納得させられてしまう。
「さて何の御用かしら、月の女神様?」
月の女神の帯びている神聖な気配に気圧されている一同の中で、一番に声を発したのは蛇であった。太陽の神の加護を宿す彼女には、多少なりとも神の気配への耐性が備わっているのだろう。
そして開口一番に言い放たれた蛇の言葉には、少しだけだが棘があった。それもそうだ。神様とはいえ、いきなり休憩中の小屋にカチこんでくる輩に対して払う礼など無いのである。せめてノックをしろ。
とはいえそれを実際に態度に出してしまうあたり、蛇は相当に肝が据わっているようだ。下手をすれば、神の力によって焼き払われていてもおかしくないのに。
「そうですね、突然現れてしまい申し訳ありません。我は説明責任を果たしに来たのです。我が半身の家族たる貴方たちに」
しかし蛇の鋭い視線も意に介さず、月の女神は飄々とそう言い放った。蛇睨み程度怖くないということだろう。
ただ、どうやら月の女神はわざわざ丁寧に説明責任とやらを果たしに来てくれたらしい。それならば大歓迎である。丁度少女の行使した神の力についてうんうんと頭を悩ましていたところだ。
ということならば遠慮無く、質問タイムといかせてもらおう。
「じゃあ僕からしつも〜ん」
最初に手を挙げたのは蜘蛛だ。月の女神に害意が無いと分かった途端、すっかりのほほんとした様子に様変わりである。
神様に何でも答えてもらえる機会なんてそうそう無い。彼はこの状況を最大限利用してやる腹積もりなのだろう。
「どうぞ、なんなりと」
「どうしてこの子に急に神の力が目覚めたのかな?」
蜘蛛はそう問うと、紅い瞳で月の女神の両目の底を覗いた。
その顔はニコニコと笑ってはいるが、勿論それは本心からの微笑みではない。その証拠に、彼は嘘を見抜く魔法を使って月の女神のことを見ている。神様を試す気満々だ。
随分と冒涜的で挑戦的な行為だが、それも当然。少女の今後に関わる話だ。最大限の警戒を持って臨んで然るべきである。
しかも相手は神様なのだ。世界中に散らばる神話を読み解けば分かる通り、神というのは存外碌でもない奴ばかりである。惚れた人間の女を攫ったり、些細なことで聖戦を引き起こしたりと、中には厄災同然の行いを平然とやってのける神もいる。
救済を司る月の神は比較的まともな部類に入るのだが、それでも警戒するに越したことはない。
「簡単に言えば、追いついたからですよ。我の力に値するだけの覚悟を彼女が示したのです。故に、我の力を扱う資格が与えられた」
月の女神のその答えに嘘は無かった。しかし、いかんせん抽象的すぎる。もう少し親切な回答を求めたい。
「つまり?」
「元よりこの子には我の半身を預けていました。そしてその力に彼女の心が追いついた結果、我の神威を引き出せるようになったのですよ」
つまりはこういうことだ。
生まれつき少女には月の女神の半身が宿っていた。しかし、その力は眠ったままでついぞ発揮されることはなかった。強大な月神の半身の力を扱うだけの精神の強度、つまりは覚悟が足りていなかったからだ。
だが、最近少女は大きな決断をした。自分とは何かを知るために、樹海から外の世界へと踏み出すというという決断だ。それに伴って少女が抱いた覚悟が、眠れる神の力を呼び覚ますに至ったというわけである。
そしてエリマキ砂竜のことを救いたいと望んだ少女に応えて、ついに月神の半身はついに表に現れたのだ。
神の力を扱うために最も重要な事柄は、覚悟ただ一つ。
大いなる力には、それと同等の責任と重圧が伴う。だから神々は待っている。加護を持つ者達が覚悟の花を咲かせるその時を。
その時になって初めて、その者たちの中に眠る神の力は産声を上げるのだ。
「へ~え、まあ納得だね。でも月の寵愛があるならさ、この子には光の魔法への適正があるはずなんじゃないの? それがどうして毒の魔法に?」
月の女神の説明に一応は納得した様子の蜘蛛。しかしそれでも疑問は残る。
眠っていたとはいえ月の女神の寵愛があるのならば、少女には光聖魔法への適正があるはずなのだ。実際、少女が月の女神の力を使って放った一撃『ルナティアーズ』は光の魔法だった。
だが今まで少女に目覚めていたのは光ではなく毒の魔法の才能。その毒の魔法の才の出所は一体何処なのであろうか。
「ああ、それは単純に彼女が天才だっただけですよ」
「あ、はい」
しかし月の女神は蜘蛛の問いを、至って簡単な答えで切り捨ててしまった。それは単純に少女が天才だっただけであると。
そう言われてしまえば蜘蛛も納得せざるを得ない。彼は少女の辿ってきた十三年間を知っている。毎日のように毒竜ヒドラの社に通い、教えを受け、日が経つごとに強くなっていく少女の軌跡を知っている。
その才能と努力は、理由として十分足りるだろう。
「本題が済んだなら、俺からも一ついいか?」
そんな時、今まで静かに話を聞いていただけだった百足が声を上げた。実は彼にも、月の女神に聞いておきたいことがあるのだ。
「さっき俺のことを『造物の神のお気に入り』って呼んだよな、それはどうしてだ? 俺は加護とか貰った覚えはないぞ」
百足の疑問とは、先程月の女神が自分のことを指して言った『造物の神のお気に入り』という言葉について。
造物の神といえば、発明や鍛冶、建築などを司る神だ。月の女神の言葉をそのまま飲み込めば、百足はそんな神のお気に入りということになる。
となると、何やらここにも厄介事の香りがする。神という単語がある所、すべからく厄介事ありだ。月の女神が目の前にいる今の内に、それについてもはっきりさせておきたい。
「おや、貴方は気が付いていなかったのですか? もうそんなに愛されているのに」
「……は?」
しかし、またもや月の女神はあっさりと返答してきた。それも心底ゾッとする言葉と共に。
神に愛されている? 冗談じゃない。厄介事どころか厄災そのものではないか。
「愛されているって……どういうことだ」
「貴方は授かっているのでしょう? 造物神の力の一端を既に。……これほどの鈍感では彼女も報われませんね」
やれやれといった様子で月の女神が言う。そして身を乗り出しそうになった百足に、月の女神は人差し指を突き付けた。いや正確に言えば、百足の眼に、だろうか。
そう、百足の持つ鑑定眼。それは職人として一線を画す次元にまで到達した百足に、造物の神が与えた褒美なのだ。
この世界の伝承によれば、造物神の右眼には万物を黄金に変えるミダスの呪いが、左眼には神羅万象の真理を見抜く神通力が宿っているという。
その左眼こそが鑑定眼だ。造物神は自身の左眼を抉り取り、百足に与えたのだ。
その所業は紛れもなく、狂愛の賜物である。
天界の神々の間では今めっぽうの話題だ。あの堅物の造物の神が、加護すらも与えていない一介の魔獣ごときに熱を上げていると。
さらにはその懸想の果てに、造物神は自らの権能である鑑定眼を抉り出し、あろうことかその魔獣――百足へと下賜してしまった。この乱心ぶりには、不動で知られるあの大地の神すらも目を見開いて驚愕したという。
「月の女神様、どうか私の造物主からお離れ下さい」
その時、アーサーが月の女神の顔にエクスカリバーを突き付けた。彼女は般若の如き形相を浮かべている。
アーサーの絶対防衛対象は造物主である百足ただ一人。百足のいる位置から半径一メートル以内の範囲に警戒対象が接近した時点で、アーサーは自動的に戦闘形態へと移行する。
しかし、膨大な殺気を解き放ったアーサーを前にしても、月の女神の顔から微笑みが失われることはなかった。
「ふふ、感情を持つ機械アーサー、貴方にも期待していますよ。貴方ならばきっと、この世界のパラダイムを押し上げることが出来ます」
一等愛おしそうにそう呟くと、月の女神は突き付けられたエクスカリバーの刃を撫でた。すると傷付いた月の女神の指から、とくとくと赤い血が溢れ出してくる。それは小屋の床に次々と零れ落ち、大きな血溜まりを作り上げた。
貞潔を司る月の女神の血液、滅多に見ることの出来ない代物だろう。もはや禁忌に近しいものであるかもしれない。
「それでは皆様、さようなら。今日この日まで我が半身を守り育ててくれたことに、月の神の名の下に心から感謝を……」
その血溜まりの中に、月の女神はゆっくりと沈んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。非常に緩慢とした動きであるのに、月の女神が沈んでいくその間、蟲たちは一言も発することが出来なかった。空を流れていく雲を何人たりとも止められないように、沈んでいく月の女神に手を出してはいけないような気がしたのだ。
そして、月の女神は最後にこう言った。
「……我が半身が樹海へと捨てられたのは、我のせいでもあるのですから」
ヤンデレ造物神……百足は大丈夫なんですかね。