90 我は願い我は欲する
「なら弓がいいな、お月様」
弓か鎌か。月の女神が投げ掛けてきたそんな問いに対して、少女は弓を望んだ。その答えに理由は特に無い。いうなれば直感である。
「ああ、いと素晴らしき選択です、我が半身よ!」
少女の答えを聞き届けた月の女神は、彼女の瞳を見つめながら微笑んでいる。とてもとても優しげに。
月の女神にとって、己の半身を預けた少女は我が子のようなもの。だから望まれれば、月の女神は無際限に少女に力を与えてくれる。
「ならばこの祝詞を口にするのです」
月の女神がそう囁くのと同時に、少女の頭の中に複数の文字列が溢れ出してきた。その言葉は祝詞。月の女神の力を顕現させるためにある、特別な魔法の呪文だ。
さらにはそれに続いて、月の女神によって修復されたばかりの紫涎が白銀の光を放ち出した。特に断面を繋ぎ合わせている金継ぎの部分からは、より一層強い光が発せられている。
その光は紫涎を中心に寄り集まり、一つの形を創り上げた。一振りの白銀の弓を。
三日月のように大きく反った弓だ。白銀が形作るその弓幹には、幾何学的な模様が細やかに刻まれている。それはクレーターだらけの月面と同じように、不思議な魅力を放っていた。
少女はゆっくりと、その白銀の弓を引き絞る。その弓には引くべき弦が備わっていないのにも関わらず。少女はそこに無いはずの弦を指で摘まみ、引き絞っているのだ。
この白銀の弓には、無いけれども在る弦が組み込まれている。そしてそれに触れることが出来るのは、月に愛された者だけ。
さらには弦だけではない、なんとここには矢も無いようである。弓とは矢を放つための道具である筈だ。それなのに、ここには矢すらも無い。
しかししかししかし、それでも少女の持つ白銀の弓には、確かに矢が番えられているのだ。矢が無いのに、そこには矢が番えられているのだ。
理解が追い付かない、本能が拒絶する光景だが……その不可思議こそ、不条理こそ、神の力の本領なのである。
「我は月の寵愛を受けし者。地上にありて、天上の輝きを放つ者。そして、悪しき穢れに怒る者――」
そして、きりきりと弓を引き絞る少女の視線の先にはエリマキ砂竜がいる。エリマキを開いて、大口を開いて、膨大な魔力を研ぎ澄まして、今にもドラゴンブレス熱光線を放たんとするエリマキ砂竜がそこにいる。
「我は願い、我は欲する! 月の女神の神威を今ここに!」
そのエリマキ砂竜こそ、少女の弓の標準が定められている先。少女はエリマキ砂竜のことを射貫こうとしているのだ。月の力が宿ったこの救済の矢で。
「悪しき穢れを射抜け『ルナティア―ズ』!」
その詠唱が少女の口から紡がれると同時に、白銀の弓から矢が放たれる。今まで不可視だったその矢は、月光に照らされた瞬間にその姿を顕現させた。
「グゴギャゴオオオオオオオオオオ!!」
しかしその時、飛来する矢を迎撃するように、光速のドラゴンブレス熱光線が放たれる。大気すら切り裂く光の刃が、あっという間に飛翔する矢を包み込んでしまった。
「……あれでは!」
いくら神の力が込められた矢とはいえ、このような超弩級の熱光線と真正面から衝突してしまえば――少女の脳裏を、そんな一抹の不安がよぎる。
「いいえ、安心して下さい我が半身よ」
しかしそれは無用な心配であった。何故ならば、次の瞬間にドラゴンブレス熱光線は、まるで元から存在していなかったかのように消失したのだから。
一度放たれた月の矢は、何があろうとも対象を射抜く。それは絶対に絶対なのだ。それを邪魔する障害物は、神の力によって無かったことにされる。
そして矢がエリマキ砂竜の脳天を貫いたその時、何かが弾け飛んだ。
「グギャァ!?」
弾け飛んだのは血液ではなく黒い鎖。禍々しい漆黒の魔力の鎖だ。それは粉々に砕けて、魔力の粒子となって、砂漠の乾いた大気の中へと溶けていった。
そう、エリマキ砂竜を縛っていた魔力の鎖が今、消滅したのだ。綺麗さっぱりと。
少女の放った魔法『ルナティア―ズ』は月の涙。外道の手に堕ちたエリマキ砂竜、そんな彼のことを救いたいと望んだ少女の、心の深海より抽出された救済の結晶である。
そんな救済の力が込められた矢は、エリマキ砂竜に纏わり付いた魔力の鎖を、内側から跡形も無く消滅させたのだ。穢れを祓う白銀の力を持ってして。
「力をありがとう、お月様」
「どういたしまして、我が半身よ」
鎖から解放されたエリマキ砂竜は、急激に脱力して地面に倒れ伏した。とても安らかに瞳を閉じて。
エリマキ砂竜は眠っているのだ。束縛の鎖から解放され、やっと巡ってきた安寧に体を預けて。
そしてその時、ぱっと夜が明けた。
東の地平線から太陽が顔を出したのだ。天から差す陽光を浴びた少女は、眩しそうにぱちぱちと瞬きを繰り返している。
すると、少女のことを抱き締めていた月の女神の腕の感触が薄っすらと消えていく。月の支配する夜が終わり、同時に月の女神の顕現の限界が来たのだ。
月の女神の口からは、最後にこんな言葉が零れた。
「我は汝らを照らす者……。また逢いましょう、我が半身よ……」
太陽が昇ってからのしばらくの時間、少女は東の地平線を眺めながらじっと立ちすくんでいた。神の力を掌に握ったという事実を、ただ粛々と受け入れているのだ。いくばくかの感動と共に。
「あ、ああ、あぁ……」
しかししばらくすると、少女は急に腑抜けた声を出してどさりと崩れ落ちてしまった。夜通し戦っていた上に、幼い肉体に膨大な神の力を抱えてしまったのだ。致し方無いだろう。
だがここは塀の上。もし頭から落下してしまうと少しばかり不味い。
「ご子女様!」
とはいえ幸いなことに、今の少女の傍にはアーサーがついている。アーサーは少女が塀から落下する前に、しっかりと彼女のことを抱きとめてくれた。
アーサーの腕の中で、少女は安らかに寝息を立てている。そんな少女の寝顔は、アーサーでさえも思わず見惚れてしまう程に可愛らしい。
銀色の髪と睫毛に、桜色の柔肌……月神の半身が宿るだけあって、呼吸を忘れさせる美しさだ。
「アーサー! この子に一体何があった!」
続いて、エリマキ砂竜を足止めしていた百足が塀の上に戻ってきた。少女が神の力を解き放つ場面を見ていた百足は、珍しいことに随分と慌てている。
先刻、少女の背後に佇む白銀の女性――月の女神を目にした時、百足は思わずそれに向かって鑑定眼を発動させた。
だが、何も見えなかった。鑑定眼には何の情報も映らなかったのだ。
それだけで百足は察した。アレは触れてはいけない存在なのだと。そしてそれに抱き締められている少女は、たぶん何やら訳ありなのだろうと。
「造物主、それが私にも分かりません! ご子女様が突然神の力をその身に纏い始めたのです! もう本当に意味不明ですよ!」
そして百足の問いに対して、アーサーは不本意ながらも『何もかもが意味不明』という返答をした。なにせ本当に何も分からないのだから。
百足の方もそれを責めることはしなかった。なにせ何も分からないのは自分だって同じなのだから。
しかし、ただ唯一分かる今するべきこと。それはアーサーの腕の中で眠っているこの少女を、この戦いの一番の功労者を、柔らかいベットの上に寝かしてやることだろう。
「……まあ、取り敢えず村に戻るか」
困り顔で前髪をかき上げながらも、百足はそう呟いた。アーサーも静かに頷いてそれに同意している。
そんなこんなで百足とアーサー、そして彼女に抱えられた少女は、村民たちが待つ村の広場に向かって歩き出したのであった。