89 神威開放『月輝黎明』
どこからだろう、声が響いてきた。
「力が欲しいですか?」
それは優しい女性の声だった。その声を何かに例えるならばそう、月だ。月のように優しい声だった。
そう感じ取った少女は、ふわふわとした不思議な気持ちに包まれていた。なんと言ったらいいのか、視界の端っこから段々と白い靄に包まれていくような、そんな不思議な感触だ。
しかしそんな不思議な感覚に包まれながらも、少女は頭の端でしっかりと思考を回転させていた。この『力が欲しいか』という問いに対して、どう答えればいいのかという議題をテーブルに乗せながら。
だが何というか、そんな思考は無駄であるような気がしてくるのだ。
この優しい声は自分の内側から聞こえてくるものであると。自分の内側にある白銀が、この声を発しているのだと。どうしてなのかは分からなかったが、少女にはそう確信できた。
だから少女は思った。この問いに対しては何の駆け引きも必要なく、ただ自分の思うがままに答えていいと。
ならばこう答えよう。
「力を頂戴、お月様!」
「ええ、与えましょう。我が半身を宿す者よ」
白銀、それは月の色。白銀、それは優しい守護の顕れ。白銀、それは不浄を祓う聖なる輝き。
月の輝く夜にだけ、紫から白銀へと発色を変える少女の魔力。それに、少女の持つ美しい銀髪。その白銀は少女のことを守ってくれる。
何故ならば、少女は月の女神に愛されているのだから。
「ああ……やっと目覚めたのですね、我が半身を宿す者よ。そして存分に振るいなさい、我が月の力を!」
「うん、分かったよ、お月様!」
「これは一体……何なのですか!?」
アーサーは叫んだ。目の前で現在進行形で起こっている意味不明な現象に対して、疑問と混乱を抱きながら。
放たれたドラゴンブレス熱光線を、少女がぶん殴ってぶっ飛ばしたところまではよかったのだ。だが問題はその後だ。
急に少女が奇妙な独り言を呟き始めたのだ。『力を頂戴、お月様!』、『うん、分かったよ、お月様!』と。
力とか月とか、意味不明な単語たっぷりの独り言だ。だがそれだけだったならば、少し奇妙な独り言として片付けられたのかもしれない。
「あの湧き上がる白銀は何なのですか!?」
しかし独り言では済まなかった。何故ならば、少女のその言葉に応える者がいたからだ。
その証拠に今、少女の全身から湧き上がっている。白銀の魔力がそれはもう大量に。しかもその白銀の魔力は意思を持っているかのように寄り集まり、一つの形を象っていた。
それは白銀の女性だ。白銀の光が作り出していたのは、ゆらゆらと揺蕩う衣を纏った美しい女性だった。もし少女がこのまま成長したならば、こうなるのだろうと思わせられる外見だった。とにかく美しかった。
その白銀の女性は、少女を背後から抱き締める形で佇んでいる。
「これは埒外エネルギー!? 神の力をどうしてご子女様が!?」
そしてそれを見たアーサーは察知していた。その白銀の女性が『神の力』の塊であるということを。
神が直々に練り上げた魔力のことを、神の力と呼ぶ。神の力は普通の魔力とは異なり、神の権能を多大に帯びている。
よって神の力で魔法を行使すれば、小石を生み出す平凡な魔法でさえも、泉のような勢いで宝石を生む魔法へと変貌するという。
「グゴオオオオオギャアアアアア!!」
その時、エリマキ砂竜の咆哮が激しく響く。
白銀の煌めきに包まれながら塀の上で佇む少女。それをエリマキ砂竜が見逃す筈がなかった。大気を激震させる咆哮と共に、ドラゴンブレス熱光線が放たれる。
空気さえ焼き焦がす光の刃が、少女の心臓を目掛けて一直線に突き進む。
「お月様、わたしに合わせてくれる?」
「勿論です。なにせ貴方は我の半分なのですから」
少女は迫る死の熱光線から目を逸らさぬままに、再び拳を握った。さらには少女の腕に、白銀の女性の腕が重なった。
そしてその拳から放たれるは、竜の名を冠する拳。
かつて少女がまだ樹海にいた頃。師匠である毒竜ヒドラから毒の魔法を教授されている最中の彼女には、一つの憧れがあった。
その憧れとは、ヒドラの放つ咆哮である。
ヒドラは稀に、気紛れに、咆哮を放つ時があった。少女が難しい魔法を習得した時や、社の花畑に開花の時期が訪れた時など、それはもう本当に気紛れに、ヒドラは咆哮した。恐らくそれには祝砲のような意味合いがあったのだろう。
幼い少女はその咆哮に焦がれていた。何故ならば、それが単純に格好良かったから。そう、とても格好良かったから。
空気をビリビリと震撼させる、覇者にのみ許された威風堂々たる咆哮。それを少女は我が物にしたいと強く望んだ。
そしてその末に、少女は一つの拳技を完成させる。魔力を纏わせた拳でぶん殴り、その衝撃で大気を激震させるその技に、少女はこう名付けた。
「いくよ、お月様! 『竜咆』!」
全力全開で放たれた少女の拳は熱光線と衝突し、それを弾くどころか、跡形も無く霧散させてしまった。
それと同時に空気が揺れる。稲妻のように魔力が迸る。そして竜の咆哮にそっくりな、裂けるような轟音が辺りに響いた。
「お月様、あの大きい砂竜を何とかしたいの」
遠くに構えるエリマキ砂竜を見据えて、少女はそう呟いた。
エリマキ砂竜の全身に絡み付いた魔力の鎖。あれをどうにか破壊して、彼のことを解放する。それが今すべきことだ。
魔力の鎖の源であるアルバンスの杖は、既にエリマキ砂竜が飲み込んでしまった。だからそれを破壊するという手っ取り早い手段はもうとれない。
しかし少女は何とか出来ると強く確信していた。何故なら今の彼女には、月の女神の力があるのだから。
暗い暗い宵闇を照らす唯一の道標、それが月である。一寸先は闇である夜の世界で、迷い惑う子羊を救済する導き手、それが月である。
そんな月を司る月の女神の権能とは、すなわち救済。
「それならば簡単ですよ。我が力を宿す者」
エリマキ砂竜を解放したいという少女の願いに、白銀の女性――月の女神はそう答えた。
そう、少女には月の女神の半身が宿っている。いうなれば『月神の半身』。それは加護なんていう生半可なものではなく、まさに寵愛。少女は月の女神に愛されている。
「そう……今夜は三日月が綺麗なのですね。ならばあれを顕現させることが出来るでしょう」
月の女神がそう言うのと同時に、少女の眼前にとある物が浮かび上がってきた。
それはついさっき熱光線によって真っ二つにへし折られた筈の、少女の愛武器である戦杖、紫涎であった。それも折れた断面が金継ぎのように繋ぎ合わされた状態の。
「貴方の杖に我の力を注いで、神具へと昇華させました」
「直してくれたの? ありがとう、お月様!」
元の姿を取り戻した紫涎を掌の中に収めて、少女は心底嬉しそうにそう言った。
それを見た月の女神は、初めて掴まり立ちを成功させた我が子を見るような歓喜に満ちた目をしている。なにせ神々にとって、自らの半身を預けた者たちは愛し子同然。愛し子の喜びは神々の喜びである。
「して、我が半身よ。弓と鎌、どちらがいいですか?」
そして、月の女神は不思議な問いを投げ掛けてきた。それも少女の頬を愛おしそうに撫でながら。
そう、今宵は三日月が輝く夜。ならば顕現させることが出来る。その三日月を象った神の武器を。
「なら弓がいいな、お月様」
少女はそう答えた。月の女神へと微笑みかけながら。
そして月の神もまた、少女へと優しく微笑み返すのだった。