78 こんなところに毒物が
蛇と蜘蛛が守衛の男とお喋りに興じていた頃。
オアシスのほとりに迷い込んでいた少女は、あてもなく泉の周辺を歩き回っていた。
「みんなどこ……?」
地の底からすいすいと湧き上がってくる清らかな湧き水。それが大きな砂のたらいの中に貯まり、出来上がるのがオアシスだ。不毛の砂漠の中にあって、ただ唯一緑を抱く土地である。
この村を支えるオアシスはだいぶ大きく、とぼとぼと歩く少女の足では、それを一周するのに三十分程かかってしまった。
今まで歩いてきた砂漠の赤褐色の景色とは違い、オアシスの周辺にはみずみずしい青緑色が繁茂している。風に波立つ水面も、足元の雑草すらも、新鮮で尊いものに思えてくるのだから不思議だ。
「みんなぁ……どこぉ?」
しかし、何だか少女がやさぐれている。
と言うのも少女は蟲たちのことが大好きなので、少しの間彼らに会えないだけでも、大幅に元気を失ってしまうのだ。
俯きながらもきょろきょろと辺りを見回し、蟲たちの姿を一生懸命に探している少女。しかしその瞳に彼らの影が映ることはなく、余計に彼女の顔に悲愴さが増すのみであった。
見知らぬ土地で、人生初めての迷子。いくら少女とはいえども、これには動揺を禁じ得ない。
「むむむ……」
いよいよ少女は歩みを止めて、地面に蹲ってしまった。オアシスの泉の水面をちゃぷちゃぷと掌でかき混ぜて、寂しさを紛らわせている。
するとそんな少女の顔に、するりと木の影が落ちた。オアシスの周囲に林立している、ヤシのような背の高い樹木の影だ。
樹海では見ない一風変わった葉と幹を持つその樹木は、熾烈な太陽の光から少女を守るように、優しい薄い影を落としていた。
「お水……つめたいな」
泉の水の冷ややかな温度に、少女は自身を慕ってくれていた狼のメルトのことを思い出した。
そのメルトが餞別にくれた溶けない氷――不溶氷を懐から取り出して、その冷たさに浸ってもみる。しかし寂しさを紛らわせることは出来なかった。
そうだ、やはり、この場でうじうじ停滞していることが正しいとは思えない。
探しに行こう、蟲たちのことを。
「……どこから探そうかな」
蹲っていた少女は立ち上がると、どの方角から探しに行こうかと辺りを見回した。
東西南北、どこから当たるのがいいだろうか。今は風が弱い上に、人が沢山いる村の中でもあるから、においを辿って蟲たちを探すことは難しいだろう。
「でもなんか……こっちにむかでがいる気がする」
しかし、少女にも第六感というものがある。十三年の間ずっと連れ添ってきた蟲たちの気配ならば、なんとなくだが察知できるのだ。
そしてその『なんとなく』でキャッチした百足の気配を伝って、彼のことを探そうとした少女であったが――
「嫌な空気……」
その時、ふっと風が吹くように、言葉に出来ない嫌な予感が少女の頬を撫でた。
例えるのならば、得体の知れない何かが隣を通り抜けていくような……そんな言葉に出来ない悪い予感だった。
そして続いて、彼女の第六感が脳裏で甲高く警鐘を打ち鳴らす。ここはやばい、ここには災いがやってくる。そう警告を発するかのように。
物心ついた頃から毎日のように、樹海の魔獣たちを相手に命のやり取りを繰り返してきた少女。
そんな中で培われた第六感、即ち勘はかなりの精度を誇る。
そんな危険探知機にも等しい勘が、やばいぞやばいぞと全開で危険をアピールしてきているのだ。
間違いなく、この村に危機が迫っている。
悪いが、蟲たちを探すのは後回しだ。
「行かなきゃ」
少女はまるで蜃気楼が空気に溶けるように、オアシスのほとりから姿を消した。
「はあ、まったくあの子ときたら……一生分泣くんじゃないかって勢いで夜泣きするんだから本当……」
砂漠の村のとある場所で、一人の女性が大きな大きな溜め息を吐いた。
彼女はこの砂漠の村の住民の一人で、サンドルフィンという名を持つ。そして最近初めての赤子を出産した新米の母親でもある。
そんな彼女が何故、これ程にも大きな溜め息を吐いたのか。それには訳がある。
それはずばり、育児疲れである。
サンドルフィンは数年前、所用で帝都に出かけた際に、現在の夫となる男性と意気投合した。
それから数年間の交際期間を経てから彼と籍を入れたのだが、住まいは夫の故郷である帝都ではなく、この砂漠の村に構えた。
一緒に帝都に住もう。夫には随分とそう主張されたのだが、子供を産み育てるならば慣れ親しんだ村がいいと、サンドルフィンは譲らなかったのである。
最終的には折れた夫と共に砂漠の村で新婚生活を始めて、そして第一子を出産したのだった。
オアシスの下に団結している村民たちは、新入りであった夫に対しても分け隔てなく接してくれたし、その上に妊婦となったサンドルフィンを度々支えてくれた。
ああやはり、この村を選んで良かった。そう心から思っていたサンドルフィンであったが……。
綻びは赤ん坊を出産した後から生じ始めたのだった。
子育てとはサンドルフィンの想像していたよりも、ずっと過酷な重労働であったのだ。
赤ん坊とは、世界で最も厄介な習性を持つ生き物と言って相違無い。
すぐに泣く、すぐに腹を減らす、すぐに漏らす。そしてその度に母親はいそいそと赤ん坊の元に駆け付けなければいけないときた。
それに加えて、帝都と比べて圧倒的に不便な村での生活に嫌気を抱え始めた夫との間には、次第に深い溝が開き始めていた。
子育ての負担に夫婦関係の悪化が重なり、サンドルフィンの心はどす黒い疲労感に押し潰されそうになっているのであった。
「本当、いつまで続くのかしら……」
サンドルフィンの足元には、清い水がこうこうと流れている水路がある。
やっと赤ん坊を寝かしつけることに成功した彼女は、おおよそ一日ぶりに家の外に出ていた。オアシスの水で喉を潤すためだ。
赤ん坊が泣き出す度に、彼女は延々と猫撫で声でそれを宥め続けていた。そのため喉はもう、砂漠のようにカラカラなのだ。
水路から分岐して、所々に設置されている水汲み場。そこに備え付けられている銀色のコップを手に取ると、サンドルフィンはそこにたっぷりと水を汲み入れた。
これまた、一日ぶりの水分である。
しかしよく見ると、コップを握るサンドルフィンの拳は小刻みに震えていた。
そうしてコップがぶるぶると揺らぐので、なみなみに汲まれた水が飛沫を立てて零れていってしまう。
産後鬱、もしくはマタニティブルーとでも言うのだろうか。彼女のそんな様子には、まさにそんな名前が付いて然るべきであった。
「……もういいわ。これを飲んで、さっさと戻りましょう……」
どうせ赤ん坊は近い内に目を覚まして、再び騒々しく泣き始めるのだろう。
だから早く家に戻らなければ。考え込んでいる内にいつの間にか、サンドルフィンは数十分も放心を続けていた。
そしてその内に温くなってしまったコップの水を、ぐっと彼女があおろうとしたその時。
「ねぇ貴方、それは飲まない方がいいよ」
その肩を、強い力で誰かに掴まれた。
「……え?」
疲れ果てたサンドルフィンでは、その感触を受け入れるのに数秒を要した。
そしてやっと肩を掴まれたということを自覚した彼女が、恐る恐る後ろを振り返る。
そこにいたのは、銀髪の少女だった。
まるで幻の中から出てきたような、月の如き儚さを纏っている少女だった。
髪の毛だけではない。睫毛や瞳までもが淡い銀色に染まっており、それが桜色の肌と相乗して強烈な儚さを印象に焼き付けてくる。
旅でこの村を訪れた者なのだろうか。サンドルフィンはそう考えた。なにせ、これ程までに美しい少女だ。一度でも出会ったことがあるのならば、記憶に深く刻まれているはずである。
「飲まない方がいいって……ど、どういうこと?」
それよりも、その少女の発した言葉の方が気にかかる。
掌の中のコップに満たされたこの清らかなるオアシスの恵みを、口にするなと彼女は言った。それは一体どういうことなのだろうか。
この少女は旅人、つまりは余所者だ。そんな彼女がそのような口を利いたということが、サンドルフィンには酷く奇妙に感じられた。
だからその少女に向かって、そう疑問を投げかけてみたのだが……。
少女は微風に銀髪を靡かせたままに、一切表情を変えずにこう答えた。
「だってそれ、毒だから」