67 少女
十三年前の暗い雨の日だった。蟲たちが少女に出会ったのは。
その日は珍しいことに、雨雲が死海山脈を越えて樹海にまで辿り着き、長雨を降らせていた。
雨竜の吠え声が頭上から響く中で、狩りを終えた蟲たちは住処へと帰投している最中であった。
その頃には、もうすっかり板についていた三匹の連携。その甲斐あってその日仕留めることが出来たのは、大きな大きな蛮猪。
焼いて食うか、それとも煮て食うか。楽しげに晩飯の相談をしながら帰路を辿る蟲たちであったが、しかしその反面、彼らの敏感な感覚は一つの異変を感じ取っていた。
しとしと降り続く雨に紛れて漂う、感じたことのない謎の気配が一つ。
雨が苔を濡らすしっとりとした樹海の中を、初めて感じる妙な気配が漂っていたのだ。
しかし、今まで出会ったどの魔獣とも合致しないその気配は、何故かどうして蟲たちを強く引き付けた。
「思えばあの時……」
「どうしてでしょうね。貴方の気配に強く惹かれたのは」
誰が何と言うこともなく、蟲たちは自ずからその気配の元へと歩み出していた。
打ち付ける雨によって打ち消されそうになっている微かな気配。魔法で強化した身体感覚でなければ捉えられないそれを、蟲たちは慎重に辿っていく。
そして、漂ってくる気配を辿って行き着いた先にいたもの。
それは一匹の人間の赤ん坊であった。
粗雑に編まれた枯れ草の籠の中に収められた、女の赤ん坊。
己の長い長い銀髪に小さな体を包んだその赤ん坊は、雨に晒され続けた結果なのか酷く衰弱していた。
見たことのない、猿のような恰好をした奇妙な生物。それが蟲たちがその赤ん坊に対して抱いた第一印象である。
なにせ蟲たちにとって、樹海に生息していない人間という生物は未知そのものに他ならなかったのだ。
しかし、蟲たちがとった行動は傍観でも、はたまたその赤ん坊を捕って食らうことでもなかった。
まずは赤ん坊の体温がこれ以上低下してしまわないように、魔法によって体を保護。さらには、雨で地面がぬかるんでいたことを利用して、百足がゴーレムの魔法の応用で雨を遮る泥の小屋を構築した。
そう、蟲たちのとった行動は他でもない、救出だったのである。
「あの時の貴方は他でもない、昔の私たちと同じだった」
「弱くて、折れそうで、消えてしまいそうな……」
「うん、だから助けた。君のことを」
蟲たちの眼には重なって見えてしまったのだ。
かつての踏み躙られるばかりであった弱い自分たちと、目の前の死にかけの赤ん坊が、紙一重に重なって見えてしまったのだ。
そう、だから助けた。というよりも放って置くことができなかった。
かつて弱さに苦しんだ蟲たちには、目の前にいる赤ん坊を見捨てることなどできなかったのである。
蟲にそのような憐憫の感情があるものか。そう思うかもしれない。
しかし、人間ですら他者を慈しむ心を持ち合わせているのだ。蟲たちにだけそれが無いなどと、一体どうして言い切ることができるのだろうか。
「じゃあ……わたしは、すてられていたってこと?」
すると、今までだんまりと蟲たちの話を聞いていた少女がぽつりと零した。
少女だって、十三年も生きていれば自然と察する。
鹿は鹿の腹からしか、猪は猪の腹からしか、そして人間は人間の腹からしか生まれないということを。
そして、蟲たちの口から語られた自分の過去。それらを全て総括して考えた末に出た結論は、自分が捨て子であるという事実を、ただ毅然として告げている。
それは、幼い少女の心を抉る残酷な事実であった。
「うん、恐らくそうだろうね。残されていた魔力の残滓からして、時空魔法による転送だと思う。君はどこか遠くの人間の世界から、この死の樹海へと捨てられたんだ」
しかし、蜘蛛は敢えてぴしゃりとそう言い放つ。
蜘蛛もまた、少女の覚悟を試しているのだ。そして信じているのだ。瞳に覚悟を湛えた今の少女ならば、残酷な過去だろうと何だろうと、全てを飲み込んで前に進んで行ける筈だと。
少女は俯いている。最近、少女は俯くことばかりだ。
心の暗い所から湧いてくる、寒風のような悩み。それに吹きさらされてばかりだ。
だが、それを凌ぐための覚悟が、今の少女の瞳にはあるのだ。
「……じゃあ、なおさらだね」
「何が尚更なんだ?」
「なおさら、自分を知らなきゃいけないって思ったの」
そう、今の少女ならば、たとえ俯いたとしてもすぐに前に向き直ることができる。
「やっぱりわたしの決意は変わらない。わたしは人間を知るために、そして自分を知るために、樹海を出て外の世界へ行く」
改めて決意を口にする少女。
悩みも過去も、確かにそれらは寒々しく少女を吹き付けている。凍える風だ。それに変わりはない。
しかしその風は今や、少女の背中を押す追い風だ。