62 死の樹海の深淵へ
一夜が明けて、遠くに見える死海山脈の向こうから朝日が昇る。
各々が朝のルーティーンをこなす中で、ヒッタイトもそれに漏れず、いつも通りに冷水で顔をすすいでいた。
コマチに魔法で出してもらったばかりの、キンキンに冷えた水。寝起きのぼんやりとした頭にはこれがきく。
桶に溜めた冷水をパシャパシャと掌で掬っては、顔にぶっかけて冷たさを味わっていく。
これをすると、いつも一日が始まるのを感じるのだ。
しかし、そうしてヒッタイトが行水に興じていると、彼女の背後から何やら迫ってくる気配が一つ。
何だろうと思っていると、続いて彼女の背中がトントンと叩かれた。
「誰だい?」
しかし、後ろを振り返ったヒッタイトの目には何も映らなかった。
「……ヒッタイト、背高すぎ」
いや、少し下を向いて見れば、気配の主の可愛らしい姿が目に入った。
そこにいたのは、頬を膨らませてむすっとした表情を浮かべた少女。
きっと彼女はヒッタイトに気付いてもらうために、その肩を叩こうとしたのだろう。しかしヒッタイトの長身を前にして自身の腕はそこまで届かず、こうして敗北感に包まれた少女がここにいる。
少女はヒッタイトに、林檎に似た紅い果実を差し出した。
「これ、くもがヒッタイトにって。おいしいから食べて」
「おうよ、ありがとさん」
蜘蛛が早朝に採ってきた新鮮なその果実に、ヒッタイトは躊躇なくがぶりと齧り付く。
途端に甘酸っぱい果汁が口一杯に広がった。流石は死の樹海。果実のレベルも段違いである。何というか、味の深みが明らかにそこらのモノとは異なっているだ。
急に降って来た極上の味覚に、舌の上で眠っていた味蕾が一斉に飛び起きていく。
「こりゃ名品だな! 滅多に食えるもんじゃないぜ」
「ふふふ、気に入ったならよかった」
果実の美味に舌鼓を打つヒッタイトを見て満足したのか、少女は次なる話題を切り出した。
「あのね、ヒッタイトに会ってほしい人がいるの」
「会ってほしい人? アタシにか?」
「うん」
食べかけの果実を掌の上に置きながら、ヒッタイトは心底驚いたといった顔をする。
なにせ彼女は百足・蜘蛛・蛇の三銃士とメルトやウィズダム達だけが少女の知り合いであると思っていたのだから。
しかし、わざわざ会ってほしいとは一体どういうことなのだろうか。つまりは、こちらから出向かなければいけないほどに格の高い相手だということか。
そんなことを考えていたヒッタイトを他所に、少女は言葉を続けた。
ただし、それはヒッタイトの寝起きの頭を強烈に揺さぶることになるのだが。
「でね、その人は山脈のてっぺんにいるんだ」
「……へ?」
ヒッタイトの掌から、食べ終わった果実の芯がぽろりと落っこちていった。
そういうわけで、ヒッタイトはその謎の人物に会うために、少女と共に死海山脈の山頂を目指して登山をする羽目になってしまったのであった。
死海山脈。それは死の樹海の外周をぐるりと囲み、あらゆる者の侵入を阻んでいる巨大な山脈である。具体的には、連なっているほとんどの山が五千メートル級。世界の天井として名高い超弩級山脈だ。
現在、少女とヒッタイトは死海山脈の最高峰であるモングリラ山の中腹辺りにいる。
「しっかし、寒くないのか? 結界の中に入ってくれてもいいんだぜ?」
「ううん、へいき」
辺りに広がる景色はひたすらに真っ白。雪と氷と岩しか目に入らない。
そんな極寒の山地を進むヒッタイトは、魔導具・即席魔法缶によって温室を作り出す結界を展開している。
しかし驚くべきことに、少女はその結界の外側、吹雪が猛烈に吹き付ける極寒の世界をすたすたと歩んでいた。しかも裸足で。
ここまでくると頑丈というレベルではない。もはやギャグである。あのヒッタイトですら、これには辟易してしまっている程である。
それともう一つ気になることが。百鬼夜行の皆を引き連れて山脈越えに挑んだ時とは異なり、今回の登山では一度も翼竜に遭遇していないのだ。
これには戦闘準備を万端にしてきたヒッタイトも拍子抜けであった。
翼竜は『死海山脈名物』と呼ばれる程にうじゃうじゃ生息している魔獣。あまりにも大量に生息し過ぎているために、頻繁に山脈を降って人間の街に襲来する厄介者でもある。
そんな翼竜たちを一度も見ていない。これははっきり言って異常なのだが……。
お察しの通り、これも少女の仕業である。
正確には、少女から無意識の内に放たれている魔力のオーラの仕業。翼竜は竜種の中で最も下等な、脳足りんの種族である。かといって、生存本能が欠落しているわけではない。翼竜たちは異常な少女の魔力を感じ取り、無意識に強者である彼女を避けていたのであった。
例外的には、『少女単独死海山脈踏破事件』の際に少女によってボコボコにされた者達が、即座に踵を返して逃げ去っていった、なんてこともあったのだが……。
そんなことを知る由もない少女とヒッタイトは、ずんずんと雪中を進んでいくのであった。
どれだけの時間、雪と氷を踏み締め続けていただろうか。ついに山頂の寸前にまで辿り着くことができた。
ふう、と額の汗を拭うヒッタイト。するとその時、今まで猛烈に吹き付けて来ていた吹雪が、急にぴたりと止んだ。
「こりゃ驚いた……」
そして吹雪のヴェールが捲られて、その中から隠されていた秘密が姿を現す。
少女とヒッタイトの眼前に現れたもの。それは山頂の周辺一帯をすっぽりと包む、巨大な結界であった。
「ここが『社』だよ。樹海の主が住んでるところ」
その結界の中に広がっていた光景は、極寒の不毛の大地にあるとは思えない程に色鮮やかである。結界に足を踏み入れたヒッタイトは、その美しい景色に思わず溜め息を吐いてしまった。
辺り一面に広がる高山植物の花畑。そしてその上を羽ばたいていく極彩色の蝶々たち。薄っすらとした霧のような雲が、風にあおられて山肌を這い登っている。
その様相はまさに秘密の花園。この世の楽園であった。
なるほど、これならば樹海の主が住まう社として相応しい。
「お嬢様、御久しぶりで御座います」
突然背後から声が響く。
即座に振り返ったヒッタイトの目に映ったのは、黒と白を身に纏った執事のような壮年の男性。その瞳には金色の縦線が刻まれており、まるで爬虫類のよう。とんがった爪は黒色で、その白髪の頭からは二本の角が生えていた。
竜だ。間違いない。
その男から発せられる覇気を感じ取ったヒッタイトは一瞬でそう察した。一切の気配を感じさせずに、いとも容易く背後に現れたこの男。言うまでもなく強い。
「うん、ひさしぶり」
しかし、少女はその執事風の男に気安く声をかけた。
男の方もそれを咎めることはなく、それどころか深く慇懃に腰を折る。極度の個人主義を採る生物、それが竜だ。そんな竜の一人であるこの男が、まさか人間である少女を相手にお辞儀をするとは。
「おばばに会いたいんだ。案内してくれる?」
「勿論で御座います」
少女の言葉を聞いた竜の男は、花畑の中の道を辿って道案内を始めた。その道の先にあるのはこの山の頂。槍のように尖った岩塊である。そしてその下にある大きな洞窟、そこに少女がおばばと呼ぶ謎の人物がいる。
ヒッタイトも黙ってそれに従って付いて行った。この意味不明な状況で彼女がとれる選択肢など、それぐらいしかないのだから。
しかし、彼女は密かにこの状況を楽しんでもいるのだ。死海山脈の山頂にこんな美しい花園が広がっているなんて、しかもそこが樹海の主の御殿であるなんて……。一体誰が予想できたことであろうか。コマチ達の元に戻ればこの話は共有することになるが、少なくとも今この瞬間だけは自分だけの秘密である。
「ふふふ……あっはっは! これだから冒険者はやめられない!」
「おや戦士の方、どうやらこの花園がお気に召したようで」
「ああ! この樹海の全てが気に入ったさ!」
愉快そうなヒッタイトを目にして、執事の竜の男は目を細めて笑った。彼は丹精込めて育て上げてきた花園を褒められたことが嬉しいのだ。
竜の男はこの花園を管理する任を与えられた、樹海の主の配下の中の一頭。少女がおばばと呼ぶ人物に仕えており、竜であるため当然強い。そして強大である分、執事として振る舞うに足りる余裕を心に持っている。
「到着いたしました」
そしてついに、花園を抜けた先にある大きな洞窟の入り口に到着した。
この洞窟のある場所こそ、正真正銘の山頂である。山脈の中で最も高い場所にある洞窟、それはまさに樹海の主の寝所として相応なロケーションであるのだ。
そして、その時であった。
「これは……!」
その洞窟の暗闇の向こうから、異様な魔力の波動が伝わってきたのは。
そのあまりに異様な魔力に、思わず四肢に纏わり付く数百の蟲を幻視する。しかしその感覚にヒッタイトは覚えがあった。そう、それは少女や蟲たちの魔力の持つ波動にそっくりであったのである。
「はじめまして、人間の戦士よ」
そして、その魔力の主が暗い洞窟の奥から姿を現す。光に晒されて露になったその姿を、ヒッタイトは知っていた。
猛毒を思わせる紫色の鱗、吐息として漏れ出す毒の瘴気、そして九つもある竜の頭。
それは二百年前に人間の前から姿をくらました先代の樹海の主。九つの頭を持つ毒竜――九頭毒竜その人であった。
少女もまだまだ成長期……。
身長は120くらいかもしれません(適当)。