58 雪色のヴァージン・ロード
「おい……おいおいおい!? 何なんだあのガキぃ!?」
錯乱したロバースが叫ぶ。
奴の周辺には両腕を無くした部下たちが、虚ろな目をしてモノのように転がっていた。
一瞬だった。一瞬で部下の半数以上がやられた。混乱したロバースの脳は、未だその事実を処理できていない。
速すぎたのである。少女が詠唱を行ってから魔毒の矢が具現化されるまで、それに掛かった時間はほんの一秒足らずだった。
ロバースは少女を包囲した部下達を目視して、瞬きをした。しかしその瞼が再び開いた時、その部下達は矢に貫かれて倒れ伏していたのである。
ロバースは少女が嬲り殺される様を高みの見物しようと、彼女から一定の距離を取っていた。
そのお陰か、奴は少女の攻撃には巻き込まれていない。
だから腕や脚は無事に残っている。だがしかし、奴の顔にずっと張り付いていた薄ら笑いは、既にどこかへと消え去っていた。
「あ、ああ、逃げないと……逃げないとぉっ!」
思考を停止していたロバースの脳みそが、やっとのことで行うべき最適解を導き出す。
奴はそれに従って、少女の反対側へと走り出した。
無様だが、これもわかりきっていた結果である。
ロバースという小物が少女に敵うはずがないことなど、全くもってわかりきっていたことである。
それなのに、何故ロバースは少女の実力に気付かず、無謀にも彼女に挑んだのか。
その理由はいたって簡単である。単に、奴は他者の実力を見抜くだけの実力を持っていないのだ。
奴は今まで、ユニークスキルにばかり頼って生きてきた。そして用いる戦法はいつも、亜次元に潜んでからの不意打ちのみ。
つまり、ロバースは人生で一度も真っ向勝負を経験したことが無いのである。
ユニークスキルは非常に強力だが、それに頼り過ぎた結果、自分自身の能力はまるで成長していないのだ。
結論、奴はユニークスキルを持っただけの一般人に等しい。
「逃げる賊が、また一人」
背を向けて逃げるロバースを察知した少女。
しかし、彼女はいたって冷静だ。何故なら今彼女は、賊共を殲滅することしか考えていないのだから。
その瞬間、少女は残像ができる程の速度で走り出した。
「くるなくるなくるなぁ!」
それを見たロバースの顔がさらに引き攣っていく。
ついさっきまで、その顔には気色の悪い笑みばかりが浮かんでいたのだが……。今はただ、振り撒かれた涙によってぐしゃぐしゃに汚れた、酷く引き攣った顔がそこにある。
しかし、それに同情する者など何処にもいないだろう。全ては奴の自業自得なのだから。
そして、もう黙って破滅を受け入れるしかないというのに、ロバースは逃げる逃げる。
まさか、まだ助かる余地があるとか、奇跡が起こるかもしれないとか、そんな下らないことを考えているのだろうか。
ならば教えてやろうではないか。罪人を待つのは地獄のみであるということを。
「くるなくるなくるな――があっ!?」
その時、全速力で走り続けていたロバースの動きが突然停止した。
いや、『止められた』と言うべきだろうか。
「なんなんだよぉ!? 氷ぃ!?」
ロバースの脚には、大きな氷塊が枷のように纏わりついていた。
その重い氷塊によって、奴の足が止まる。
ロバースは『何なんだ』と喚いているが、これは当然魔法である。
奴に殺された妻子の無念を晴らす為、この場に立つ者――メルトが放った氷の魔法である。
「後は頼んだぞ、主」
そして、仕事は終えたと言わんばかりにメルトが呟いた。
既に彼からバトンは渡っている。
少女が彼を抱き締めて受け入れたあの時に、既に仇討ちのバトンは少女の掌へと渡っているのだ。
何故なら少女はメルトの主であり、全てを背負って立つ『樹海の主』であるのだから。
「懺悔の時間も与えない」
「やめっ――」
少女の握った毒の剣が、ロバースの四肢を斬り落とした。
ビシビシビシビシビシビシビシビシッ!!!
歪な模様を描いていた亜次元の空に、次々と走っていく亀裂。
蜘蛛たちの大規模儀式による干渉に加えて、亜次元の存在を維持していたロバースが意思能力を喪失したのだ。この亜次元の洞穴が崩壊するのに、これらの条件は十分過ぎる。
「メルト、戻ろうか」
「ああ、主」
亜次元の中には、まだ無事な密猟者たちもいる。
しかし、少女とメルトはそんなことは気にも留めていなかった。
何故なら彼女たちは知っているのだ。この亜次元の外にだって、優秀な狩人達が待ち構えていることを。
ビシビシビシビシビシ――パキィンッ!!
そして止めのように、一際大きな音を立てて亀裂が走る。それを合図に亜次元は完全に崩壊した。
硝子の破片のように飛び散ったその残骸は、やがて魔力の粒子となって大気へと霧散していく。
ぱらぱらと舞う破片と魔力の粒子の中で、少女の眼に映ったのは遥か遠くにある地面であった。
……どうして地面が遥か下方に見えているのだ?
「……あれ?」
「主、どうやら我々は空を落下してします」
周囲を見回してみれば、暗い宵闇の空と、雲と、遠くに浮かぶ月が見えた。
そう、亜次元の崩壊に伴って何か異常が起こったのか、彼女たちは上空に転送されてしまったのである。
密猟者たちも同様だ。百人を超える密猟者たちは、傷口を風に逆撫でられながら落下していっている。
「最近はよく落ちるね」
まさかこんな短期間の内に、二度も空中落下を経験することになるとは思わなかった。よし、今回は着地で地面にクレーターを作らないように気を付けないと。
その時、安全な着地の方法について逡巡しながら落下する少女の眼が、一つの人影を捉えた。
「あれは……コマチって人だ」
それは、地上にて賊共を待ち構える狩人の姿であった。
遠い地上からこちらを眺めているのは、百鬼夜行の東洋魔術師であるミノ・コマチ。
彼女の周辺に蟲たちやヒッタイトたちの姿は無い。彼女は何故だか一人で佇んでいるのだ。
しかし、それを見て少女は直感した。
「何か、ものすごい事をするみたい」
そう、人払いが必要な程の大技。彼女はそれを今から放つつもりなのだろう。おそらくは、空から降ってくる密猟者たちを一網打尽にするために。
そして、少女のそんな考えが伝心したのか、地上のコマチがにこりと笑った。
月下に咲いたその笑顔は、まるで夜桜のようであった。少女ですら、それを見て心が洗われていく感覚を覚えた程である。
少女もまた、遥か高き上空から小さく笑い返した。
「メルト、離脱するよ。頑張って空飛んで」
「あいも変わらず無茶を言う……」
コマチの邪魔にならぬよう、少女は早急に離脱することに決めた。
しかし『空を飛べ』とは、地上を生きる狼にとっては少し無理難題ではないだろうか。
案の定ぶつぶつと文句を呟いているメルト。しかし、その顔は晴れやかだ。
仇討ちを果たして心の枷を捨て去った彼には、広い広いこの大空がよく似合うのである。
そんな彼ならば、空くらい飛べるだろう。
「『ヴァージン・ロード』」
最後に溜め息を一つ吐くと、メルトは魔法を詠唱した。
すると、空中にぱらぱらと雪の粒が生成されていく。次第にそれらは雪玉へと成長していき、さらには互いにくっついて一つの形を造り出した。
少女の目の前に広がったのは、地上へと続く真っ白な雪の道。
あっという間に、雪の空中回廊が出来上がってしまった。
「おお〜、すごい」
少女を背に乗せたメルトは、空中回廊を辿ってゆっくりと空を降りていく。
それは凱旋であり、彼にとっての一つの決別であり、そして門出であった。
一方、賊共を待つのは地上の地獄である。
美しく佇む月下美人には、薔薇の棘をも凌ぐ恐ろしい牙が備わっているのだ。
そして、これよりその牙を振るうのがミノ・コマチである。
「さあ、死屍累々の芥川を生み出しましょうか」
コマチの美しい黒髪から魔力が立ち昇る。月明かりに照らされたそれは、まるで天へと昇る煙のようであった。
髪の毛とは、人間という生物に与えられた唯一の魔術の触媒である。そして、美しく磨かれたコマチの黒髪は本当に魔力をよく通す。
まるで、水面が飛び込んでくる何者をも拒まないように。
コマチは右の掌の上に、親指を折り曲げた左の掌を重ねた。
その手印は魔力を魔術式へと媒介し、そして此岸と彼岸を分つ結界を紡ぎ出していく。
檻のような形を持って広がっていく魔力。
そして彼女は賊共へと、本日二度目となる死刑宣告を告げた。
「『結界・九葬薄原』」
メルト……幸せになってね……。