57 逆さ鱗に触れたなら、死を覚悟して然るべし
「ここは……」
「主、警戒を。おそらく引き摺り込まれた」
何も無かった空中から、突如背後に現れた一本の腕。それに掴まれた少女は引き摺り込まれた。
この亜次元へと。
誰の仕業であるかなど、わかりきったことだ。指名手配人ロバース、奴の所業に違いない。
そう、ここは『次元の洞窟』によって構築された亜次元の洞穴の中。
ここに壁と言えるようなものは無く、絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたかのような汚い色が、空の代わりにどこまでも続いているだけだ。
濁った赤色や黄色、青色が、互いに混ざり合いながら空を流動している。そしてそれによって生まれた模様は、気分が悪くなる程に歪だ。
「すごく……いやなかんじがする」
趣味の悪い空間である。とはいえ、その悪性は亜次元自体に由来するものではない。
それらは全て、『次元の洞窟』の保持者である指名手配人ロバースの心象が反映された結果である。
汚物に触れた手は当然汚れるだろう。それと同じだ。
ロバースによって切り開かれたこの亜次元の洞穴は、奴の汚物の如き心象を、鏡のように映し出してしまったのである。
結果、この濁った歪な風景がある。
「あれぇ? おかしいなぁ。儀式を主導してたあの蜘蛛を狙ったのに。座標がずれたかなぁ?」
その汚れた風景の奥から、にやにやと笑う一人の男が歩み出て来た。
わざとらしくコツコツと革靴を鳴らしながら接近してくる奴こそ、諸悪の根源。この樹海を我欲によって掻き乱した張本人。
「自己紹介するよ。俺がロバースだ」
そう、指名手配人ロバースである。
思った以上に奴は若いようだ。光沢のない萎れた金髪が、肩に届くくらいにまで伸ばされている。
そして彼の肩に下げられたあるものを見た途端、少女たちの表情が強張った。
戦利品のようにぶら下げられているそれは、メルトと同じ雪色をした毛皮。
それは剥ぎ取られた、メルトの娘の毛皮であった。
「貴様ぁ……! 娘に触れるな!」
怒るメルトが咆哮する。それにより一陣の風が巻き起こり、ロバースを強烈に吹き付けた。
しかし奴は一層下卑た笑みを深めたのみで、それを意に介する様子はない。
「もしかしてさぁ、この毛皮に心当たりがあったりしてぇ?」
怒るメルトをさぞ面白そうに見詰めて、ロバースがにやにやと笑う。
さらに奴はメルトの神経を逆撫でするように、雪色の毛皮をガシガシと乱雑に触り始めた。
その最中にも、奴の顔面から気色の悪い笑みが消えることはない。
「貴様ァ!!」
「あ! 怒ったぁ? でもこの毛皮持ってた狼さぁ、不意打ちで簡単に死んじゃってつまらなかったんだよねぇ。いたぶり甲斐が無くて!」
笑うのを我慢出来ないといった様子で、ロバースは腹を抱えて楽しそうに話す。
全くもって、ゴミの掃き溜めのような性格をしている糞野郎だ。遺体を玩具のように振りかざして、さらには罵って、一体何が楽しいというのだ。理解に苦しむ。
「本当の狙いはあの蜘蛛だったんだけど、まあいっかぁ! 可愛い女の子もいるし、まずは君たちから殺すね!」
一通り笑って満足したのか、奴は腰から剣を引き抜き、それを高く掲げる。
するとそれを合図として、周りに控えていた密猟者たちが次々とこの場へと集結してきた。生ごみに集う羽虫のようにぞろぞろと……百人はいるだろうか。
皆一様に武器を携えて、ロバースと同じように下品に笑っている。勝利を確信している余裕の笑みだ。
相手は不意打ちで殺せる程度の狼と、幼い少女のみ。狩りに慣れた自分たちの敵ではない。すぐに殺してやる。なんならいたぶって殺してやる。そう舐め腐っているのだ。
その慢心のままに、密猟者たちは剣を抜く。弓を持つ者や、魔法の杖を持つ者もいた。
「頭ァ! どうせ殺すならあの娘、どう殺しても文句ないよなァ!」
「もちろん。でもパパッとやっちゃってぇ」
ロバースの許可を得た密猟者たちは、誰かが指示を出さずとも、少女とメルトをぐるりと取り囲んだ。
そして奴らは、じりじりとその包囲網を狭めていく。
これは、密猟者たちが弱い獲物をいたぶり殺す時に用いる手法である。
強い獲物は不意打ちでなければ狩れないが、弱ければその限りではない。
よって奴らは、弱い獲物を見つけ次第こうして亜次元へと引き摺り込み、ゆっくりと恐怖を与えながら殺すことにしているのだ。鬱憤晴らしとして。
そして、獲物に最も効率良く恐怖を与える方法というのが、こうして円形に相手を囲んで、じわじわと追い詰めていくことなのである。
「ほらほらお嬢ちゃん! 樹海で迷子かい?」
「おっと危ない! ちゃんと避けなきゃ矢が刺さっちゃうよ?」
さらには、わざと出鱈目な軌道の矢や魔法を放って、脅迫の真似事をしている者もいた。
矢が風を切るヒュンヒュンという音が、少女たちの耳元を掠っていく。
もはや無言となった少女とメルトを見て、これは効果抜群だと、賊たちは愉快そうに笑った。
「お嬢ちゃんは矢が怖いらしい!」
「それは可哀想だ! もっとプレゼントしてやれよ!」
気を良くした密猟者たちは、次々と矢をつがえて放っていく。興奮のあまりその手元は狂い、放たれた矢は時々少女の皮膚を切り裂いていった。
「さあお嬢ちゃん! お次は魔法だよ! 避けないと熱いよォ!」
そんな中、調子に乗った魔法使いの一人が、少女の胴体を狙って魔法を放った。
だが、密猟者たちは誰一人として、その勝手な行動を責めはしない。
ちょうど矢攻めに飽きてきていた所だ。ここらで生きたまま火炙りにしてやるのも一興だろう。その程度にしか考えていないのだ。
ボオオオオオッウ!!
そして放たれた魔法の火球が、少女の体に直撃しそうになったその時。
「……五月蝿い」
今までずっと俯いていた少女が急に顔を上げて――
ぐしゃり。
その火球を、片手で握り潰した。
「……は?」
続いて、密猟者たちが素っ頓狂な声を上げる。
ただ、それは火球を握り潰すという少女の離れ業を目にしたからではない。
「……え? 俺の腕は?」
自分たちの腕が、いつの間にか無くなっていたからである。
「え? え? ……ああああああああああ!?」
そして一瞬遅れて、密猟者たちを灼熱のような激痛が襲う。
肩から下の腕が、一秒前までは確かにくっ付いていた腕が、どこにも無い!
あるのは、どろどろした肉片が蠢く断面だけだ。
何故!? 誰がやった!? どうやってやった!?
密猟者たちの脳内を駆け回る無数の問いの答え合わせをするように、手を挙げたのは少女であった。
「貴様らの腕を今、毒で溶かした」
しかし、彼女は異様な空気に包まれていた。普段の天真爛漫な、少女然とした柔らかな雰囲気は彼方へと消え去り、その代わりに――
「そして、次は脚だ」
剣を掲げた死刑執行人のような、家畜の頸動脈を掻き切る屠畜人のような、そして全てを見下す女王のような、ひたすらに冷たい瞳だけがあった。
少女はもう、我慢の限界なのだ。
目の前で下卑た笑みを浮かべる外道たちを、これ以上視界に入れたくなかった。メルトのことを蔑み笑う下種たちを、これ以上生かしておくことはできなかった。
毒というものが象徴するのは、苛烈で残酷な二面性。時に癒し、そして時に殺す。溶かして、侵して、全てを無に帰す。
毒の魔法使いである少女は、仲間を傷付ける者を、命を弄ぶ外道を、決して許さない。
そしてその絶対零度の瞳は、罪人を一人たりとも帰さない。
少女は掲げた腕はそのままに、発狂する賊たちへと死刑を宣言した。
「賊共が。完膚が残ると思うなよ」
彼女の掌から、漆黒に変色した魔力が溢れ出していく。あまりの怒りが、全てを滅ぼし塗り潰さんと魔力を黒く染めてしまったのだ。
さらに、溢れ出す魔力の流れにつられて、次第に少女の銀髪が逆立っていく。
ゆらゆらと揺れる彼女の長髪は天を指していた。まるで、こんな外道共を蔓延らせた天を強く責め立てるように。
怒髪が天を衝くとは、まさにこのことである。
人の形をした『怒り』が、そこにいた。
その刹那、詠唱が紡がれる。
「『ポイズンバレット・サウザンド』」
千を超える魔毒の矢が天より降り注ぎ、賊共を一人残らず貫いた。