56 落とし穴
「えっと、それは魔法陣のルーンにそって設置していってね。ああ、そっちは方陣の中心から三歩の所に突き刺しておいて」
「おうよ! 任せてくれ!」
現在、蜘蛛主導の下、時空魔法の大規模儀式を行うための準備が進んでいる。
地面に鎮座するのは、百足が召喚したゴーレム達によって描き込まれた、複雑で巨大な魔法陣。さらにはそれを装飾するように、魔獣の骨や角といった魔術の触媒が次々と設置されていく。
「コマチさん、魔力の残量はまだ大丈夫かしら?」
「勿論です。東洋魔術師の底力をお見せしますよ!」
こちらはその魔法陣へと魔力を注ぎ込んでいる蛇とコマチ。
大規模な儀式を行うとなると、術者の魔力だけではエネルギーが不足する。そのため、このように予め魔力を燃料として魔術式に注入しておくのだ。
すると次第に、魔法陣が淡い輝きを纏い始めた。
日が沈んだ後の樹海の宵闇に、美しい白光が浮かび上がっていく。
しかし忘れてはいけない。美しい薔薇には棘があると。
この魔法陣は、憎き密猟者どもへの反撃の狼煙となるのだ。
時間や時空、次元といった概念を統括する、時空属性の魔法。その大規模儀式によって、指名手配人ロバースのユニークスキル『次元の洞窟』によって構築された亜次元に干渉し、賊どもをそこから引き摺り出す。そしてそこを叩く。
今まで奴らは亜次元へと潜みながら、樹海の魔獣たちを我欲の為だけに殺めてきた。メルトの妻子もその犠牲となり、不遇の死を遂げている。
穢れた欲求によって罪無き命が踏み躙られる。それは命への冒涜であり、断じて許されない。
少なくとも、ここにいる一同はその理念の下に堅く団結していた。
「魔術式構築の最終段階だ! そろそろいけるぞ!」
蜘蛛があたりに響く大声で叫ぶ。それを聞いた一同は、其々の武器を携えて立ち上がった。
「ほれ、蛟に邅跡虎、久しい殺戮の時間じゃぞ」
式神の頭に腰掛けて、掌の上で火の玉を弄ぶ茶太郎。彼女は人型に変化しており、纏った桃色の友禅が月光によく映えている。
蛇との戦いで大量の魔力を消費したため、人型への変化に足りるだけの魔力を持ち合わせていないはずの彼女。
しかし彼女は少女から魔力を譲渡され、その力を全快させていた。全快どころか、いつもより身体がしなやかに動く気すらしているくらいだ。
「……外道は斬る、ただそれだけだ」
剣士の笠松もまた、戦闘による消耗から既に復活している。
魔力を纏って輝きを増した彼の刀は、まさに断罪の剣。準備は万端だ。
「メルト、落ち着いてる?」
「ああ、勿論だ」
そして、慌ただしく動く一同をじっと見詰める少女とメルト。
彼女たちは百鬼夜行と戦闘を行っていないため消耗しておらず、よって今回の強襲の主力となる。そのため体力と魔力の温存を優先し、儀式には参加しない。
「……主よ、感謝する。お前がいなければ、きっと妻子の仇には近づけなかっただろう」
「ううん、わたしは何もしてないよ。全部むかでたちのおかげだよ」
「いいや、それでもだ。それに、その百足殿たちに出会えたのだってお前のお陰ではないか」
その言葉を聞いた少女は、背伸びをしてメルトの角を撫でた。
螺旋に捩れた彼の角は、大理石のように白くて冷たい。そこから溢れ出す氷の魔力が、少女の掌に薄い霜を落とした。
「やっぱりメルトは冷たいね」
その霜をぱっぱと払うと、今度はメルトの顎の下に指を這わせる。こちらでは、ごわごわとした体毛の感触が伝わってきた。
少女の体温に触れたメルトも、ピリついた胸中が次第に穏やかになっていくのを感じている。
彼の脳裏では、妻と娘の笑顔が想起されていた。その笑顔は、メルトが最後に見た妻子の笑顔である。
あの日、彼女たちは狩りに出かけようとしたメルトに、その美しい笑顔を投げ掛けた。
しかし、大きな獲物を仕留めて帰ったメルトの眼に映ったのは、賊共に無惨に殺されて、皮を剥がれた妻子の遺骸だった。
その後、彼は自暴自棄になり暴れた。手当たり次第に破壊して、全てを凍らせた。山を削り、森を雪中へと沈めた。
その末に、人間の臭いがする賢猿の群れを襲って――
『貴方のことを、わたしに理解させてほしいんだ』
その報復にやって来た少女に、抱き締められて救われた。
彼女には『メルト』という名前も貰った。この言葉は『雪解け』という意味を持つらしい。本当にその通りだ。この名前を貰ってから、毎日心が溶かされていくような不思議な感覚を覚える。
そんな時、隣にはいつも少女がいた。
メルトの心には決意がある。妻のため、娘のため、そして主たる少女のために、賊共を必ず討ち滅ぼすと
「宙を割れ、時空を超越する魔の力よ。時を破れ、次元を跨ぐ魔の力よ……」
いよいよ儀式も終盤だ。
蜘蛛が詠唱を宙へと奏上している。唄のように空気に溶けていく彼の声を聴きながら、少女は最後にメルトの耳を触った。
そして彼女のもう片手には、紫涎がぎゅっと握られていた。
魔法陣がさらに輝きを増す。踊るように飛び出したルーンが、空中に新たな方陣を描き出していく。
何重にも積み重なったそれは、魔力を燃やして宙を穿つ。
「そろそろ行こっか、メルト」
魔法陣から空高く発射される光線を見上げながら、少女は歩み出した。
「そうだな」
メルトもそれに続いていく。
その頭上の暗い宵闇の空では、硝子にヒビが入るように、歪な亀裂が走り始めていた。
儀式は成功だ。
あと少し時間をかければ、次元の障壁を破って亜次元へと干渉できる。
その光景を眺める全員が、強襲の成功を確信していた。
「あのさぁ、勝手なことされるとこっちも困るんだわ」
「え?」
突如現れた空間の穴に、少女とメルトが吸い込まれていくのを見るまでは。
いよいよ第一章も佳境です。
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