107 私におやつを作りなさい
「ごめんお姉ちゃん、そろそろ眠くなってきちゃって……」
「そっか、じゃあ今日はここまでだね。ねえオリエント、明日も来ていい?」
「うん! また本、用意しておくね、お姉ちゃん」
少女とオリエントは宵闇に月が浮かぶ中、夜通し語り合った。
オリエントが用意してくれた童話集だが、これを少女は半分くらいまで読み進めることが出来ていた。童話の内容の方は、三千年前に大魔王を倒したという勇者アーサーの伝承を子供向けに噛み砕いたもの。ありふれた英雄譚であった。
その英雄譚の中で少女が読み進めることが出来たのは、勇者アーサーが村を襲った邪竜の首を必殺技で切り落とした場面まで。オリエントによれば、この童話の中でも屈指の名シーンなのだという。
しかしよくよく考えてみれば、全く文字を読めなかった少女が一夜でここまで本を読み進めるなど、少しおかしくはないだろうか。普通、それほど速く文字を覚えることなど不可能なはずだ。
しかし、そこは流石は少女である。彼女は常人離れした学習能力を発揮して、この一夜の内に簡単な文字をほとんど覚えてしまったのだ。
それに、オリエントの教え方が良かったというのもあるだろう。彼女自身は教えるのに自信がないと言ってはいたが、彼女の教え方は十二歳とは思えないほどに優秀だった。
オリエントは太陽を避けて部屋に引き篭もる生活を続けていたために、今まではまさに本が友達と言えるような生き方をしてきた。彼女の部屋の壁面を覆い尽くす巨大な本棚が、それを物語っているだろう。
そして、外に出掛けて遊ぶこともなく、延々と本だけを読んで生きてきたオリエントは、同年代の人間たちと比べても高い知能を持っているのだ。
現在の時刻は早朝、午前四時頃だろうか。太陽がもうすぐ地平線の向こうから昇ってくるという、いわゆる暁という頃合いである。
ただ、呪いの源である太陽の到来を察知したのか、オリエントが再び眠気に包まれ始めていた。今日の逢瀬はどうやらここまでのようである。少し名残惜しそうな顔をしながら、少女はオリエントの部屋を後にしようとした。
「あっ、待ってお姉ちゃん!」
しかしその時、少女の背後から彼女を引き留める声がした。振り向けば、オリエントが少しだけ頬を赤らめて立っている。
そんなところに突っ立って一体どうしたのだろうかと、少女が何気なくオリエントを眺めていたその時。オリエントが急に動き出した。
そして、ぽふっという柔らかい音がする。オリエントが少女の腰に抱き着いた音だ。
「オリエント?」
「あの、お姉ちゃん、その……ありがとうっ!」
少女の柔らかい体にうずめたまま、オリエントが恥ずかしそうに感謝を告げる。
抱き着かれて改めて分かったのだが、やはりオリエントの肉体は有り得ない程に華奢だ。細枝という形容では生温いくらいである。力も弱く、抱き締められる感触もほとんど感じない。
そんな弱々しいオリエントの抱擁に、少女も抱き返すことで応じた。自分の体温の暖かさを、少しだけでも分けてあげたくて。
「お姉ちゃん、明日も来て?」
「うん。来るよ。絶対に」
少女とオリエントが逢瀬を終えた暁の刻から、約半日が過ぎた頃。オアシスの傍に建てられた、少女たちの暮らしている小屋にて。
「あら? 何か作業中だったかしら?」
百足の部屋の扉を開け放った蛇が、作業台に向かって真剣そうな顔をしている百足を見つけてそう言った。
百足はいつもは掛けていないモノクルのような魔道具を身に着けて、作業台の上に置かれた糸のような物体を解析しているようだ。真剣に作業をしているためか、百足の周辺には張りつめた魔力が漂っている。
まるで、彼のいる辺りだけが聖域になったかのような光景だ。造物の神に魅入られた職人は伊達じゃないということだろう。
しかし百足は部屋に入ってきた蛇の気配を察知したようで、纏っていた真剣な空気を一瞬で霧散させると、いつも通りのにこやかな表情でこちらを振り向いた。
「蛇か。俺に何か用か?」
「ごめんなさい、作業の邪魔をしてしまったかしら」
「いや気にするな。丁度終わったところだったからな」
そう言って立ち上がった百足は、小さく唸りながら伸びをしている。どうやら長時間の作業をしていたために体が凝っているようで、百足が腕を伸ばしたり首を回したりする度に、コキコキという小気味のいい音が鳴っている。
そしてよく見てみれば、百足の左眼からは青色の光が僅かに漏れ出していた。確かこの光は、鑑定眼の能力を使った時に発生するものであったはずだ。そういえば、先程百足がモノクルを装着していたのも鑑定眼が宿っている左眼の方であった。
「何をしていたのかしら?」
何気なく蛇が作業台を覗いてみれば、そこには一本の真っ白な糸が置かれていた。これには見覚えがある。村長の娘であるオリエントの髪の毛だ。
「あらもしかして、呪いの解析?」
「その通りだ。まあ、ほとんど何も分からなかったがな」
「貴方の鑑定眼をもってしても? 珍しいこともあるものね」
どうやら百足はオリエントを蝕む呪詛について詳しく知ろうと、鑑定眼を用いて解析作業を行っていたらしい。ただしその結果、鑑定眼には何も映らなかったというが。普通、呪詛の表層には呪いを発動させるための術式があるはずなのだが、それすらも見当たらなかったらしい。
数時間も神経を擦り減らして解析をしたのに、成果ナシというわけである。椅子に座って休んでいる百足は、やっていられないと首を振っている。
「造物主、作業は終わりましたか?」
するとその時、部屋にアーサーがやって来た。どうやら百足の作業が終わるのを見計らっていたようで、彼女は紅茶の乗ったお盆を持っている。その紅茶は、疲労回復効果のあるアーサーの特製ブレンドだ。
「蛇様もどうぞ。お口に合いましたら幸いです」
どういうわけか、アーサーは蛇の分まで紅茶を用意してくれていたらしい。しかしどうしてアーサーは、百足の部屋に蛇がいることを察知できたのだろうか。まさかに密かに百足の部屋を覗いているのだろうか。……そんなわけないか。
すると紅茶を飲み干した百足が、おもむろに部屋の隅にあったチェストの蓋を開けた。その横長のチェストの中に保管されていたのは、敷き詰められた真っ赤なクッションの上に鎮座する一振りの戦杖であった。
一目で分かる上等なつくり。杖の磨き上げられた表面が光を反射して輝いている。しかも杖の下端には白い皮のようなものがグリップとして巻かれており、そこにはよく使い込まれた痕跡なのだろう、所々に擦り切れが出来ていた。
しかし、この戦杖には一つだけ異様な点がある。人間の腕の長さ程あるこの杖の真ん中あたりには、一筋の亀裂が入っていたのだ。きっと一度折れたのを金継ぎのようにして繋ぎ合わせた痕跡なのだろう。その亀裂は、白銀のような物質によって埋められていた。
「あら、それ紫涎じゃない。あの子の杖ね」
「ああ。そろそろメンテナンスが必要だからな」
そう、この杖は少女の愛武器、紫涎である。一週間前のエリマキ砂竜との戦いの際に真っ二つに折れ、その後、月の女神の力によって修復されたあの紫涎である。
月の女神によって手が加えられた後から、なんだか神の力を放出するようになった紫涎。そのメンテナンスを百足は開始しようとしているらしい。
「紫涎はもはや神具と化してるからな。神の力の器として足りるように、定期的にメンテしなきゃいけないんだ」
そう呟くと、百足は何処からか赤い液体で満たされたガラス管を取り出した。百足がそれに掌を翳して軽く呪文を唱えると、中の赤い液体から神の気配が放たれていく。
この赤い液体は、以前採取した月の女神の血液から作ったもの。紫涎と月の女神の力を馴染ませるために使うものだ。
そのうち、ガラス管から溢れ出した赤い液体が、自律しているかのように宙を舞い始める。まるで何本もの赤い糸が空中を動いているかのようだ。
それらの赤い糸は紫涎に絡みつくと、次第にその表面に染み込んでいった。
「汝の力は宿るもの。我が拵えしこの杖こそ、汝の力の宿木なり……」
目を閉じた百足が呪文を紡いでいる。作業を行う彼の表情は真剣そのものだ。普段は破天荒で自由気ままな百足ではあるが、今のような作業の時には、こういう職人としての顔を見せてくれる。
その顔にはアーサーはもちろん、蛇ですらも見入ってしまう程だ。なにせ百足ほどの美丈夫が、唇を横一文字にきゅっと結んで厳粛な表情をしているのである。もし初心な人間が今の百足を目にすれば、きっと鼻血を垂らしてしまうことだろう。
そして、空中をゆらゆらと舞う血の糸が、全て紫涎に吸い込まれた後。百足は閉じていた瞳を開き、座っていた椅子の背もたれに体を預けて額の汗を拭った。どうやら作業は終了したようである。
「そういえば、蛇はなんで俺の部屋に来たんだ?」
そんな時、ふと百足は思い出した。先程ごく自然な流れで百足の部屋に入ってきた蛇ではあるが、そもそも彼女は一体何の用があって自分を訪ねてきたのだろうか、と。蛇のことだから、単純に冷やかしをしに来たという可能性もある。しかし百足の勘はそうではないと告げていた。
「あらいけない、貴方の腕前に見惚れてすっかり忘れていたわ。頼み事があったの」
どうやら蛇の方も、百足に言われて初めて用件を思い出したようである。彼女もまた、百足の神懸かりな腕前を目の前にして思考が釘付けにされていたらしい。
「俺に頼み事か?」
「そうだけれど、別にそう大したことではないわよ?」
そう言うと、蛇は何気なく窓の外へと視線を移した。百足もそれに釣られて窓の外を見る。そうすると丁度、西の地平線を目指して降下を開始した午後の太陽が見えたのだが……。
百足はそれだけで納得した。今は丁度おやつ時だと。そして蛇の顔色を窺ってみれば、物欲しげな瞳が目に映る。つまり蛇は、小腹が空いたからおやつを作って欲しいと、そう言外に告げているのだ。
それならそうと、もっと正直に言えばいいのに。蛇には昔からこういうところがあった。遠回しな言い方を好んで使うというか、つまるところ素直じゃないのだ。
そういうところが彼女らしいのだが。
「何が食べたい?」
「……スコーン。生クリームがたっぷり添えてあるのがいいわ」
「了解だ。ちゃっちゃと作るから、紅茶でも淹れて待っていてくれ」
信頼感がたっぷり乗った短い会話の応酬を繰り返しながら、百足はキッチン、蛇はリビングに、それぞれ向かっていった。