106 思えば初めての人肌
「お姉ちゃん、誰?」
少女とオリエントが交わした最初の言葉は、オリエントの方から放たれたそんな疑問の一言で終わった。
確かにオリエントからすれば、目が覚めたら枕元に見知らぬ少女が立っていたという随分な状況だ。疑問を呈するのも致し方ないだろう。彼女はきょとんと不思議そうな表情を浮かべながら、少女のことを見つめてきていた。
しかし、よもや少女のことを『お姉ちゃん』と呼ぶとは。村長に聞いたところ、オリエントの年齢は少女よりも一つ幼い十二歳だという。そんな彼女が少女のことをお姉ちゃん呼びしたのは、偶然か必然か、果たしてどちらなのだろうか。
そして、オリエントにお姉ちゃんと呼ばれた少女はというと、満足そうな表情で花のように笑っている。今の少女の胸は不思議な感情で埋め尽くされていた。オリエントに見つめられると、心が不思議にざわめいて仕方がないのだ。でも、それが心地いいのだ。
「わたしは貴方と話すために来た。ねえオリエント、お話しよう?」
「……もしかして、お父さんが言ってた護衛の人?」
「そうだよ。お話しよう?」
「……うん」
オリエントは、初対面ながらもグイグイくる少女に少々困惑しているようだ。
垂れ目がちな目元も相まって、オリエントからは非常に弱々しい空気が感じられる。簡単に言えば、とても押しに弱そうなのである。死の樹海という大自然に育まれた少女という名の猛獣を前にして、果たして彼女は無事でいられるのだろうか。
しかしオリエントも少女が無害な相手だということは分かっているようで、ベットから体を起こすと、トテトテと小さな歩幅で部屋の中を歩き始めた。その行き先は部屋の壁面に設置されている本棚である。
そういえば、このオリエントの部屋は随分と変わった構造をしている。部屋自体は大きめの直方体というシンプルな形をしているのだが、その四つの壁面の全てに、天井まで届くような背の高い本棚が接合されているのだ。もちろん、その本棚は大量の本によって所狭しと埋め尽くされていた。これではまるで寝室ではなく書斎のようである。
「……この本がいい」
するとオリエントが、その本棚の一角から一冊の本を取り出した。一目見ただけで相当読み込んでいると分かる、古ぼけた童話集である。オリエントが呟いた言葉と照らし合わせるに、この童話集はきっと彼女のお気に入りなのだろう。
「お姉ちゃん、本は好き?」
オリエントは童話集を胸に抱えて、少女の下に戻ってきた。
呪いを背負うオリエントにとって、太陽の光に当たるということは即ち死を意味する。だからこうして彼女は部屋に引き篭もり、徹底的に陽光を避けているわけだ。
ただ、そんな生活を十二年も続けてきたオリエントに、友人と呼べるような存在が出来たことは一度もないだろう。この部屋を埋め尽くす大量の本と、父親である村長だけが、彼女に寄り添ってくれる存在だったはずだ。
だからオリエントは自分のお気に入りのこの童話集を、少女との架け橋として使おうとしているのではないだろうか。本を介することで、自分のことを知ってもらおうとしているのではないだろうか。友人という存在を知らない彼女なりの、不器用ではあるが最大限の心遣いというわけだ。
しかし残念なことに、少女はオリエントの差し出してくれたこの童話集を読むことが出来ない。文字が読めないからだ。
「ごめんね、わたしは文字が読めないから……」
そう断る少女の声には、隠し切れない苦々しさが浮かんでいた。文字が読めない少女に罪があるわけではない。けれども、オリエントが差し出してくれた彼女なりの気遣いを突き返さなければいけないという現状に、少女が苦い感情を覚えないはずがないのだ。
「……そっか」
オリエントの表情もどこか悲しげだ。彼女もきっと、初めて接する同年代の少女を前にして勇気を振り絞っていたのだろう。あまり分厚い方ではないこの童話集であっても、肉体の成長が不十分であるオリエントにとっては大荷物なはずである。実際、童話集を抱えている彼女の細腕は小刻みに震えていた。
少女とオリエントの間に、なんとも言えない気まずい空気が流れていく。ここからどうやって会話を展開させればいいのか分からない少女と、俯いて無言になってしまったオリエント。まさに膠着状態である。
そして両者、この気まずい空気を打開できないままに時間は過ぎていく。ついにオリエントは踵を返して、童話集を本棚に戻そうと少女に背を向けて歩き始めてしまった。
「あ、あぁ……」
駄目だ、このままでは駄目だ。少女の脳裏にそんな声が木霊する。このままオリエントが本棚に童話集を戻してしまえば、終わってはいけない何かが終わってしまう。少女の第六感はそう告げていた。
しかし正直言って、この気まずい空気をどうすればいいかなんて少女には分からない。もしも目の前にいたのが牙を剥き出しにした魔獣であれば、毒の魔法を撃ち込んでしまえばいい。しかし少女の目の前にいるのはオリエント、一人のか弱い女の子である。
か弱い女の子との接し方なんてものを、少女が知っているはずもない。少女は死を育む樹海という魔境の中の、弱肉強食の世界を今まで生きてきたのだから。
しかし、だとしても踏み出さなければいけないのだ。オリエントを悲しませたままにしておくのは、少女は嫌だった。
「まって!」
だから少女は一歩踏み込んで、自分に背を向けているオリエントの腕を掴んだ。オリエントのびくりとした驚きが、彼女の腕を介して少女の掌にまで伝わってくる。その驚きのあまり、オリエントは童話集をぽとりと床に落としていた。
恐る恐るといった様子でオリエントが振り向いてくる。彼女の表情は困惑というか、恐怖というか、期待というか、色々な感情が入り混じった複雑な様相を呈していた。きっと他人に肌を触られたのは、彼女にとってこれが初めてであったのだろう。
「いっ、今はまだ読めないけどっ!」
少女は小さく叫ぶ。彼女にしては珍しく、ほんの少しだけ言い淀みながら。
細枝のようにか弱いオリエントの腕を、少女は強く握ることは出来ない。出来たとしても、そっと掌を添える程度だ。
それでもオリエントには分かったことだろう。今の少女の手が酷く震えているということが。いつもは紫涎を握って立ち塞がる敵を叩きのめしている少女の腕が、産み落とされたばかりの子鹿のように震えていた。
「けど、わたしはその本、貴方と一緒に読んでみたいの……。だからっ!」
語気を強めてそう叫んだ少女には、揺らいでいるオリエントの空色の瞳が見えた。その瞳を揺らしているのは、困惑の感情なのか、はたまた期待なのか。後者であることを少女も期待して、彼女は言葉を続ける。
「だからお願い、わたしに文字を教えて欲しいの! そしたら一緒に本、読めるからっ!」
少女がそう言い切った後、少しの間だけ静寂が二人の周りに満ちた。
オリエントは相変わらず動かない。動かずに、少女とオリエントはじっと見つめ合っている。再びの無言の時間である。しかし先程とは違って、二人の間にはもう気まずさは無かった。
「……お姉ちゃん、わたし、上手く教えられないかもしれないよ?」
「うん、それでもいい。オリエントに教えてもらうのが大事だから。その本、一緒に読もう?」
すると、オリエントの腕を掴んでいた少女の掌に、いきなり冷たい感触が重なった。見てみれば、少女の掌にオリエントの掌が重ねられているではないか。この氷のような冷たさは、オリエントの体温であるようだ。生物の宿す温度であるとは到底思えない。
しかしその冷たいオリエントの皮膚に、ちょっとずつではあるが、少女の暖かな体温が染み込んでいく。
「じゃ、じゃあお姉ちゃん、まずはこの本の最初の行から……」
「うん。教えて、オリエント!」
二人はベットに腰掛けると、深緑色をした童話集の表紙を開き、最初の一ページの最初の一行目を指でなぞった。
少女には、そこに書かれた文字たちが奇妙な形をした記号にしか見えない。しかし、オリエントはそこに宿った意味を、優しく手解きするように少女に教えていってくれる。
なんだか二人は似た者同士のようだ。少女もオリエントも、他者との関わりに慣れていない者同士なのである。言ってみれば不器用なのだ。
そんな二人がここで出会ったことには、やはり何か意味があるのだろうか。惹かれ合う二人に理由や意味を問うのは無粋かもしれないが、それでも。
今の彼女たちはまるで、月と太陽のようである。