102 隠し味は愛情です
「ただいま、今帰ったよ」
砂漠の地平線の向こう側へと太陽が姿を隠そうとする頃。夕焼けの琥珀色の空が段々と群青色の闇に塗り潰されていくこの黄昏時に、蜘蛛が小屋に帰ってきた。
村長の家に遊びに行っていた蜘蛛だが、きっと満足のいく魔法談義が出来たのだろう。ただいまと告げる彼の顔は、随分とほくほくしていた。
「ただいま。これ見て、村の人たちに貰ったの」
そして蜘蛛に続いて、散歩に出掛けていた少女も小屋へと帰宅してきた。しかもその手に野菜や芋などの、農地で採れたのであろう作物たちが入った籠を抱えて。
どうやら少女は村人たちに大変可愛がられているようで、頻繁にこうして食材のお裾分けを貰ってくるのだ。きっと村人たちは、少女が砂賊団の頭目である指名手配人アルバンスを一方的に追い詰めた実力者だということを知らないのだろう。
確かに少女は傍から見れば、大人しい年頃の女の子にしか見えない。だから大半の村人たちは砂賊たちを壊滅させたのは蟲たちで、少女はその連れであると考えているのだ。
まあ、村長や一部のベテランの衛兵たちは少女の実力に気付いているようではあるが。
「あら、おかえりなさい。もうすぐでお夕飯が出来上がるみたいよ」
帰宅した少女たちにそう言葉を掛けたのは蛇だ。彼女はリビングのソファに身を任せてごろんと寝転び、頬杖を突きながら本のページをゆっくりと捲っていた。だらしないとも取れてしまう光景だが、蛇がやると完璧に様になっている。その理由を言葉にするのならば、威厳と言えばしっくりくるだろう。
威厳というのはフェロモンと同じ。相応しい者の体から自然と発せられるものである。その点において蛇は完璧だ。ソファに寝転ぶ彼女の姿はまるで、寛ぐ女帝のようにも映るのだから。
「じゃあ夕飯まで僕も本読んでようかな」
そう言うと蜘蛛も蛇の反対側にあるソファに腰掛けて、村長から借りてきた分厚い魔導書を読み始めた。
文字を噛み締めるようにゆっくりと読む蛇とは対照的に、蜘蛛は速読派。この二人が並んでいると、ページを捲る音が異なる二つのリズムで聞こえてきて面白い。
しかし静かに本を読む二人とは違い、少女は真っ先にキッチンの方へと向かっていく。彼女にとっては文学よりも、料理の香ばしい匂いの方が魅力的なのである。
先程からふわりと漂ってきている、この芳ばしい肉が焼ける匂い。小屋の外にまで届いていたその匂いは、少女の空腹を存分に刺激していた。
「むかで〜、今日のごはんなぁに~?」
この肉のいい匂いを漂わせている料理の正体は一体何なのだろうと、少女はわくわくした気持ちでキッチンに顔を出す。
しかし次の瞬間に彼女の目に映ったのは、想像していたものとは全く違う光景であった。
「あ! おかえりなさいませ、あるじさま!」
少女の目に真っ先に飛び込んできたのは、可愛らしい桃色のエプロンを着込んで、額に汗を浮かべながらも鉄板で肉を焼き上げていくエリザベスの姿であった。
そう、キッチンに立って料理をしていたのは百足でもアーサーでもなく、エリザベスだったのである。彼女は木箱を足場にして足りない身長を補い、火にかけられた鉄板の上で分厚い一枚肉を焼いていた。しかもその肉は少女好みのよく焼きに仕上がっている。
「エリザベス……もしかして料理してるの?」
「はい! あるじさまのためにつくりました!」
少女の問いに返事をしながら、エリザベスは焼き上がったステーキを鉄板から皿へと盛り付けていく。
その何気ない動作を見た途端に、少女はどうしてかエリザベスのことが堪らなく愛おしくなった。自分よりも遥かに幼いエリザベスという一人の女の子が、長い髪を後ろで括って、立派にエプロンを着込んで、一生懸命に自分のために料理を作ってくれた。この事実が少女の心を突き動かしたのだ。
その情動にあえて名前をつけるとすれば、やはり母性だろうか。
「さあ、エリザベスの自信作だ。冷めない内にみんな食べようぜ」
百足がそう声をかけてくるまで、少女はエリザベスのことを見つめて呆然と立ち尽くしていた。嬉しさや驚きが脳裏で入り混じって、意識がふわふわと宙を舞っていたのだ。
そんな彼女のことを不思議に思ったのか、エリザベスが料理の配膳の手を止めて、少女のことを上目遣いで見上げている。その姿もまた可愛らしくて、気付けば少女はエリザベスの頭に掌を乗せていた。
「ありがとねエリザベス。味わって食べるよ」
「はわわ……こうえいです……!」
その後みんなで味わったエリザベス特製のステーキは、なんだかちょっぴりだけ、いつもとは違う味がした。それはきっと、隠し味にエリザベスの愛情が込められているからだろう。
「あるじさまが、あるじさまが、わたしのりょうりをたべてくれました……」
みんなで夕食を食べ終えた後、少女によって歯磨きを施されたエリザベスは、自室にて体を丸めて休まっていた。
エリザベスの部屋は小屋の地下にある。しかもその内部構造は自然の洞窟のような見た目をしていて、砂竜である彼女が最大限リラックスできる環境になっていた。これは百足とアーサーが砂竜であるエリザベスに最大限計らって部屋を設計してくれたおかげである。
そして、エリザベスはその部屋の中に備わっている砂場に体を半分くらい沈めて、蕩けた顔で寝転んでいた。
今のエリザベスの胸の中にあるのは、先程の夕食の際に目に焼き付けた、ステーキを頬張る少女の幸せそうな笑顔。その笑顔が自分の作った料理によって生じたものだと思うと、エリザベスは嬉しくて堪らなかった。
そんな至福の感情に包まれている彼女は随分とリラックスしているようで、人間への変身が少し緩んでいる。鋭い牙が口内に覗いていたり、褐色の肌に鱗が浮かび上がっていたり。所々に砂竜の身体的特徴が表に現れていた。
ドラゴンと幼女の良いとこ取りをしたような姿である。半人半竜モードと言えばいいのだろうか。中々に可愛らしいものである。
そう、可愛らしい姿ではあるのだが……どうしてだろうか、その姿に強い違和感を覚えてしまう。本当にどうしてだろう。こんなに可愛いドラゴン娘なのに、その姿に違和感を感じてしまうのだ。
その違和感の理由はきっと、牙も鱗も生えているのに、最も大切なあるものがエリザベスの体から欠けているのが原因だろう。
そう、今のエリザベスには尻尾が無かったのだ。以前少女と散歩をしていた時には、変身の魔法が緩んで真っ先に現れたのは尻尾であったというのに。
どうして尻尾が欠けているのだろう。確かに砂竜の尻尾は自切できるように出来ているため、何かの拍子にぽろっと取れてしまうこともあるのだが……。箪笥の角に足の指をぶつけるような出来事は、今日のエリザベスには起こっていないはずだ。
だとしたら、彼女の尻尾がない理由は一体何なのだろう。不思議だ。
そういえば、今日エリザベスが作ってくれたあのステーキ。少女はいつもと少し違う風味がすると評していたが、あれは一体何の肉を使っていたのだろうか。
隠し味は愛情。その愛情を、無意識の内に形のないものだと思い込んではいないだろうか。重い愛情というのは、時に形を持つものである。
「ふふふ……かくしあじはわたしのあいです、あるじさま」