第二話
『ああ、エドが好き。
今日、やっとエドと私の婚約が決まったわ。嬉しい。お父様に一年かけておねだりした甲斐があった。
これからはエドと二人で生きるのね。エド、大好き』
日記の一ページ目がこれだったので、僕はなんと言っていいのかわからなかった。
そこに幼い文字で書かれていたのは、僕への愛だったから。
エドというのは僕の愛称であり、かつてアナベルが僕を呼ぶ時の呼び名だった。
一体いつから『エド』ではなく『あなた』や『殿下』と他人行儀で呼ばれるようになったのだろう? 昔はあれほど愛しげにエドと呼んでくれていたはずなのに。
たまらなくなって次のページをめくる。
『これからエドと私は婚約者。
婚約者ってどんなことをするのかしら。
お母様に聞いたら気持ちのこもった贈り物をあげたら喜ぶんだって言ってたからクッキーを作ってあげた。
口の周りを汚しながら笑顔で食べるエドが可愛かった。
エド、大好き』
『今日、エドと会ったら髪型を褒めてもらえた。
これからはいつも縦ロールにするわ。
もっともっとエドに好きになってもらいたいもの』
『王妃教育が始まるみたい。
魔法の勉強と王妃様になるためのマナーを学ぶらしいけど、よくわからない。
エドと会えなくなる。寂しい。
そう言って泣いたら、将来エドを支えるために大事なお勉強だってお父様が言うから、私、我慢するわ。エドの力になりたいから』
『エドが好き』と連呼され、胸が苦しくなる。
僕は公爵夫妻にねだり、他の日記帳を読んだ。一冊目はまだ七歳だった頃のもので、それから十年以上に渡って日記が続いている。三十冊以上はあった。
それを夢中になって読み耽る。
『王妃教育が進んでいるからと褒められた。きっと氷の魔法が使えるようになったおかげね。
エドに言ったら「良かったね」って言ってもらえて嬉しい。
今までみたいに一緒には遊べないけど、エドの言葉があれば充分』
『エド。エドエドエドエド。
エドが病気になった。どうしよう。忙しくてお見舞いにも行けない。無理矢理屋敷を抜け出したらお母様に怒られた。
エド、早く治って』
『エドが治った。良かった。
でも私は婚約者の見舞いもしない薄情な女って言われて悲しそうな顔をされた。エドにそんな顔させたくないのに。
ごめんなさい』
僕は思い出す。
そうだ――アナベルとの心の距離ができ始めたのはこの頃だ。
いつでもどこでも一緒だったアナベルが僕の前に姿を見せなくなって、寂しくて、つい八つ当たりをして。
その間にアナベルが僕のために頑張っているだなんて思いもせずに。
『最近エドが冷たい。
私が一緒にいられないから怒ってるのよね。ごめんなさい。
今度、久々にクッキーを作って渡して、ちゃんと謝らないと』
『エドに怒られた。
クッキーを作っている時間があったら僕の話し相手になれって。
せっかく作ったのに。悲しかったけど涙は見せなかった』
『王妃教育が厳しくて、エドに会う時間がない。
エドが足りない。エドといたい』
『やっとエドに会えた。
この前のこともきちんと謝ったけど許してくれなかった。私のことなんて大嫌いなんだって。
あなたのことをエドって呼べないなんて悲し過ぎる。どうしてなの、エド』
涙に濡れているページがあった。
そして蘇る記憶。そうだった。僕は九歳の時、つまらないことでアナベルと言い争いになったことをようやく思い出した。
それからだ。彼女がエドと呼ばなくなったのは……。
『最近殿下が冷たい。悲しい』
『お勉強に困ってるって聞いて手伝ってあげたら殿下を怒らせた。私の教え方が悪いみたい。
私は殿下に相応しくないのかも知れないわ』
『誕生日パーティーに来てもらえなかった。
いつも遊べないのは私の方だから、当然よね。
だから泣いたらいけないのに、涙が溢れて来た。
お父様が婚約解消の話をしたけど、私は断った。
殿下のお嫁さんになれないなんて絶対嫌』
それから数冊、だんだん素気なくなる僕との関係にアナベルが胸を痛める日々が続く。
僕はそれを読んで目の奥が熱くなるのを感じた。『氷の公爵令嬢』アナベル・メリーエはそこにはいなかった。日記の中の彼女は、僕のよく知るかつてのアナベルだったから。
アナベルを『氷の公爵令嬢』にしたのは、彼女に過度の王妃教育を強いた僕自身だったのだ。
アナベルは何も悪くない。悪いのは全部僕だ。
だが僕はそれを認めたくなくて、さらにページをめくっていく。
すでに日記の中の彼女は十六歳になっていた。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
大事な夜会だったのに休んでしまって、殿下を困らせた。
最近王妃教育を詰め込み過ぎたのがいけなかった。倒れるだなんて情けないわ』
『お医者様に診てもらったけど問題はなかった。
けれどあれから殿下とのお茶会がなくなってしまったわ。
「夜会にも出て来ない薄情者には会いたくない」って。
そうよね。本当にごめんなさい。
でももう少し、あと半年で王妃教育が終わるの。
だからそれまで待っていて』
『十七歳の誕生日も殿下が来なかった。
大丈夫、もう慣れっこだもの』
そして僕は最後の一冊を取る。
手が震え、涙で視界が歪み、息は荒く苦しくなっていた。
わかっていた。もうすでに、わかってしまったのだ。
――アナベルが浮気なんてしていなかったということを。
『久々にパーティーに出たら私が浮気したという根も葉もない話が広まっていて驚いた。
あの男が噂を流したんだわ。私に勝手に欲情して、フラれたからって妙な噂話を吹聴するだなんて許せない。
お父様に頼んで潰してもらおう』
『殿下に会ってもらえない。会いたい。
会わないとおかしくなりそうなの』
『なんでこんなことに』
『婚約破棄されるかも知れない。
嫌よ、エド』
『ねえ殿下。いいえ、エド。
最後にちょっとだけ意地悪してもいい?
あなたと別れる選択肢なんて、私は選べないの。だってあなたのためにずっと頑張って来たのよ。
あなたを恨んだりはしない。でも最後くらいちょっとわがままを言ってもいいでしょ?
エドとずっと一緒にいたいの。
お母様とお父様には悪いと思っている。でも婚約破棄されるくらいだったら、氷になった方がマシ。
魔法は完璧なものを用意しているわ。失敗するはずがない。これで私は名実共に『氷の公爵令嬢』になるのね。
さようなら、お母様。私を産んでくれてありがとう。
さようなら、お父様。エドと婚約させてくれてありがとう。
さようなら、エド。大好きでした』
ここで日記は終わっていた。
膝から崩れ落ちた僕は、もはや声を上げて泣き喚く気力さえ残っていなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
アナベルの氷像は、僕の部屋へと運び入れられた。
これはメリーエ公爵夫妻の要望だ。僕に罪の意識を感じさせ続けようというつもりなのだろう。
一体何度アナベルに向かって謝ったかわからない。
誤解だったんだ、とか、悪かったよ、とか。
でもそんな言葉は彼女には届かない。目を閉じてまるで人形のように氷の中で眠る彼女は、ただただそこに佇んでいるだけだ。
日記を読み返す度、アナベルのことが懐かしくなる。
会いたい。目の前にアナベルがいるというのに、僕はそんな風に思ってしまう。
会って、抱きしめたかった。そしてもう一度やり直したい。そう心から願ったが、叶うわけがなかった。
後悔したって過去は変わらない。ずっと頑張ってくれていたアナベルを蔑ろにし続けたのは僕だ。
やり直す権利など僕にはない。大好きと言ってくれたアナベルは、どうやっても目覚めてくれないのだから。
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