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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

囚われ聖女は恋する人に命をあげた。

作者: 天ノ瀬

 透き通る青い空の下。一面に野花の咲く丘の上に、聖女が一人。


 聖女の名前は、ルピスという。


 長い黒髪に緑の目。顔半分に大きな火傷の痕が残る。


 聖女は二十年もの間、城に囚われ苦しんだ。

 長く、大いに苦しみ、ようやくこの天国へと至った身分である。


 花の咲く原っぱに横たわり、ぼんやりと空を仰ぐ聖女ルピス。その傍らに、神の使いのような白い小鳥が舞い降りた。


 何の気なしに、ルピスは小鳥に話しかける。時間潰しのお喋り相手にはちょうどいい。


「ねぇ、小鳥さん。ちょっとだけ昔話に付き合ってくださらない? 私が天国(ここ)にたどり着くまでのお話なんだけれどね――」


 小鳥はルピスの隣で羽を畳んだ。


 一人の聖女の、二十年分の人生の話が始まった。


 

 これは乙女の恋のお話だ――。









「喜べ、聖女ルピスよ。お前を夜伽にしてやろう。さぁ、服を脱ぎ落とし、僕の前で肌を晒してみせよ。命令だ」



 暗い寝室にて、ルピスは若い王に命じられた。


 王の年齢は十八歳。ルピスの年齢も十八歳。


 同い年の王は火のような赤毛の髪に、赤い目をしている。その目がギラリと光り、ルピスに魔法をかける。


 王は特別な魔法によって、人を意のままに操る。彼に命じられると、意思に反して体が勝手に動いてしまう。


 ルピスは恐怖に震え、涙を流した。


 ……嫌です……怖い……どうか、お助けください……っ


 そんな気持ちとは裏腹に、喉から勝手に声が出てきた。


「はい……アーシュ様。私の身は、あなた様のものでございます……」


 ボロボロと涙をこぼしながら、震える手でドレスを脱ぎ落としていく。

 王――アーシュはベッドに腰かけ、その様子をニヤニヤしながら見ていた。


「ははっ、実によい眺めだな。僕の相手となる聖女がお前でよかったよ。顔も体もなかなかそそる美しさだ」

「……っ」


 ルピスの体は魔法によって、アーシュの命令通りに動いていく。自らの手で裸を晒しながら、ぼんやりと、昔のことに思いを馳せた。


 我ながら、しょうもない現実逃避だ。


 ずっと昔、アーシュのことが大好きだった頃のことを思う。今となっては幻のような思い出だが……。


 ルピスはこの目の前の傲慢な王――アーシュに恋をしていたのだった。無邪気で純粋な、初めての恋だった。


 つい、昔の綺麗な思い出に慰めを求めてしまう。零れ落ちた涙が、下着のシュミーズを濡らしていった。






 ――七歳の頃のこと。


 王城の一角――『聖女の庭』の端っこで、ルピスとアーシュは出会った。


 聖女の庭は高い壁で囲われている、牢のような場所である。狭い箱庭の中に一つの建物と、木々や草花が詰められている。

 

 箱庭に囚われているのは聖女たちだ。


 幼かった当時はよくわかっていなかったが、どうやら王家が、聖女の力を持つ者たちを捕えて囲っていたそう。


 箱庭の中には、ルピスを含めて六人の聖女たちがいた。みんなルピスよりずっと年上だ。他の聖女たちのことを、姉や母のように慕いながら暮らしていた。


 聖女の庭へ出入りするのは世話係の女たちなど、一部の城の者のみである。毎日同じ時間に食事が運ばれ、下げられる。


 起きて、食べて、時間を潰して、寝て、また起きて――……。

 毎日毎日、変わらない暮らしをしていた。幼いルピスにとっては、酷く退屈な暮らしだ。



 そういうわけで、七歳のある日の夜、ちょっと冒険をしてみたのだった。


 生活をしている建物から抜け出して、夜の庭へ散歩に繰り出す。ルピスは草木の陰に隠れつつ、庭の端っこまで走ってみた。


「ふふっ、真っ暗! お日様がないと別世界だわ! お昼の庭にはもう飽きてしまったから、これからは夜にお散歩しましょう」


 ふんふん、と鼻歌を歌って、その辺で拾った木の棒を振り回す。

 夜には世話係は来ないし、他の聖女たちも眠っているので、一人きり。誰も注意する者はいない。


 その小さな自由が最高に楽しかった。


 そうして庭の端っこまで来て、石壁にペタリと手をついた。夜空の上まで高く伸びる壁。まじまじと見上げて、外の世界に思いを馳せる。


「この壁の向こうには王様のお城があるのよね。いいなぁ、行ってみたいなぁ。私も大きくなったら、王様に呼んでもらえるのかしら?」


 たまに、年上の聖女たちはどこかへ連れられて行く。聞くところによると、王城に呼ばれているらしい。


 呼ばれる聖女には二つのパターンがある。


 一つは、夜の間だけ若い聖女が呼ばれて、朝に帰ってくるパターン。あまり教えてもらえなかったけれど、なにやら王様と一緒に眠る役目があるそう。


 もう一つは、二度と帰ってこないパターン。こちらは年長の聖女から呼ばれる。


 聖女には特別な魔法が使える。

 聖なる魔法の口づけで、人に自分の命を捧げることができる。


 魔法の命を注がれた者は、重い病も深い傷もたちまちのうちに癒え、寿命をも超越する。


 帰ってこなかった聖女は、王様に命をあげる役目を果たしたのだろう。


 ルピスはこの役目を誇りに思っている。いつか自分も聖女として、立派に務めを果たしたいものだ。


 壁に手をつき、王様のことやお城のこと、外の世界のことをあれこれ想像する。



 ――すると、ふいに変な音が聞こえた。



(あら……? なんだろう……人の声?)


 近くから、泣きじゃくる声が聞こえる。


 音を頼りに歩いてみると、壁の一部分に、亀裂が走っているのを見つけた。腕よりは大きく、体よりは小さな亀裂。


 その隙間を覗くと外が見えた。ルピスは思い切り目を輝かせた。


「わっ! 外が見える……!」


 つい大きな声を出してしまったが、思いがけず、その声と同じくらいの声が返ってきた。


「わぁっ!? 何!? 誰っ!?」

「え……!?」


 隙間の向こうには、同じくらいの背格好をした少年がいた。


 赤毛の髪に赤い目。ギラリと輝く瞳は、暗闇の中で燃える炎のよう。


 壁を挟んで、二人で固まってしまった。

 しばし沈黙が流れる。


 が、先に動きを取り戻したのは少年の方だった。


 彼は涙に濡れる目を、袖でごしごしと拭った。そしてなんとも情けない声を出した。


「ぼ、僕が泣いてたこと、内緒にして……! お願い!」

「う、うん……! わかった……! えっと、あなたは……?」

「僕は……」


 少年は口ごもった。けれど悩みながらも、おずおずと言葉を続けてくれた。


「……僕は、アーシュ。って、名乗れって言われてる……。君は……?」

「私はルピス。アーシュはもしかして、お城の人?」

「うん……一応、お城で暮らしてるけど……」

「すごい! ねぇ、お城ってどんなところ? ここよりずっと広いんでしょう? いいなぁ、楽しそう!」


 ついはしゃいでしまった。まさかこんな出会いがあるとは思わなかった。今日、思い切って冒険をしてみた自分を褒め称えたい気分だ。


 けれどルピスとは反対に、アーシュと名乗った少年は顔を歪めてしまった。彼の赤い目から、またポロリと涙がこぼれた。


「お城はそんなにいいところじゃないよ……広くて迷うし、父上は怖いし……」

「まぁ……アーシュは迷子になったから泣いてたの? それとも、お父さんに怒られちゃった?」

「……父上が……僕のこと、駄目な方だって……僕はいらないって……魔法が下手で、弱虫だから……っ」


 なにやらぐずぐずと言いながら、アーシュはまた泣いてしまった。


 ルピスは焦った。せっかく素敵なお喋り相手と出会ったというのに、泣かせてしまっては寝覚めが悪い。


 急いで近くの花を摘んで、壁の隙間にグイと手を突っ込んだ。


「嫌なこと聞いちゃってごめんね……! 泣かないで! これあげる……!」

「え……? ……あ、ありがとう……」


 アーシュも手を入れて、花を受け取った。

 

 彼はポカンとした顔で花を見つめた後、ルピスへと目を向けた。


「君……ルピスは、優しいね……。お城で泣いたら、(むち)をもらうのに……お花をもらったのは初めてだよ。……あの、お花のお礼に教えてあげる。お城には絶対に来ちゃ駄目だ。王様の魔法で、みんなおかしくなっちゃうから」

「おかしく……? どうなっちゃうの?」

「みんな、命令された通りに動いちゃう。体が勝手に動くんだ。嫌なことも、嫌と言えなくなっちゃうし、逃げられない……」


 くしゃりと顔を歪めて、アーシュは語る。


 けれど最後に、わずかに笑顔を見せた。泣きながらも悪戯っぽく言う。

 

「でも、僕はちょっとだけ平気なんだ。僕もほんのちょっと、同じ魔法が使えるの。だから、他の人よりは自由にできるんだけど……今も、実は王様から逃げてきちゃったところ。内緒だよ?」

「すごいわね! じゃあ、アーシュも私に魔法をかけられるの?」

「かけないよ……! 酷い魔法だもん! 僕、この魔法嫌いなんだ。どうせなら苺が甘くなる魔法とか、猫が寄ってくる魔法とかがよかったなぁって思う……」


 そんな魔法あるのだろうか。不思議な顔をしていると、アーシュがへにゃりと笑った。

 どうやら気分が落ち着いてきたらしい。やっと涙が乾いてきた。


「……なんてね。そんな魔法ないんだけどね」

「なんだ、ちょっと信じちゃったわ。外の世界にはそういう魔法があるのかな、って」

「あはは、あったらいいよね」


 アーシュはもう一度グイと顔を拭って、ルピスに言う。


「――でも、うん、もうちょっとだけ、苦手な魔法も頑張ってみようかな。僕はあんまり才能がなくて、ちょっとしか使えないけど……もし、大人になって魔法が上手くなったら、お城のみんなを自由にしてあげたいなぁ」

「自由に……? そしたら、私も外に出られるかしら?」

「うん、この壁も壊せるように頑張ってみるよ」

「ふふっ、それは大人になるのが楽しみだわ。外を歩けるようになったら、一緒に遊びましょうね」

「僕なんかと遊んでくれるの……? 僕、全然駄目だよ……? お絵描きも下手だし、駒取りゲームも弱くて……」

「手を繋いでお散歩するだけでいいわ。あなたとなら、きっと楽しいと思う。今もお喋りしててすごく楽しいもの」

「……ありがとう。僕も、人とこんなにお喋りしたの、初めてだよ。ルピスとお喋りしたら、なんかちょっとすっきりした。――壁がなくなったら、遊びに行こうね」

「うん、約束!」


 壁の隙間に手を入れて、ルピスとアーシュは握手を交わした。


 繋ぎ合った互いの手は、とてもあたたかく感じられた。






 ――こうして二人の交流は始まった。


 ルピスは夜な夜な建物を抜け出して、庭の端へと走った。


 花の咲く季節。強い日差しの照る季節。草花の枯れる季節。土が凍る季節。

 あっという間に、季節を数回繰り返した。


 単調で退屈だった日々は、時間を経るごとに深く色づいていく。


 壁を隔てて、二人で色々なことを話した。


 王城での暮らしのこと、聖女のお姉さんたちのこと。アーシュは苺が好きで、猫が好きで、ニンジンが嫌いだということ。

 真面目なことから、しょうもないことまで、色々なお喋りをした。


 喋っていると、たまに彼は不自然に口をつぐむ。彼にも王の魔法がかかっているそう。喋れないこともたくさんあるし、操られたように、突然帰ってしまうこともある。


 アーシュが来られない日も多くあった。けれど、それでも、数えきれないほどの逢瀬を重ねた。

 彼はお菓子を持ってきてくれて、ルピスは代わりに庭の花をあげた。


 お喋りをして、手を触れ合って、笑顔を交わして――……


 壁の向こうの秘密の友達は、いつしかルピスにとって一番大切な人になっていたのだった。



 もうすっかり、大好きになっていた。



 そんな大好きなアーシュに、一つ伝えたいことができた。でも、なんだか気恥ずかしくて、なかなか口にできない。……これが最近の悩みである。



 十二歳を迎えたルピスは、幼い頃よりもずっと長くなった腕を伸ばして、壁の向こうのアーシュに花を届ける。


 今日こそはと意気込んで、彼の目を見つめた。


「ねぇ、アーシュ。あのね、私ね……あなたに……その……ええと……やっぱりいいわ。なんでもない」


 やっぱり言えなかった。彼の赤く輝く目を前にすると、どうしても照れてしまう。

 

 アーシュはキョトンとした顔をした。彼も七歳の頃に比べて、もうずいぶんと少年らしい精悍な顔をしている。


「え、なに? 何か言いにくい相談ごとなら、手紙でもいいよ? 城の人たちにバレないように、ここで読んで、すぐ燃やしてしまえば大丈夫だから」

「も、燃やされちゃうのは、ちょっと悲しいような……そのうち直接言うわ……言えたら」

「気になるなぁ……まぁ、ルピスがそう言うならいいけど。――でも、言いたいことがあるなら、できれば早めにお願いしたい。……あと数年のうちに、頼むよ」

「え……?」


 数年のうちに、何かあるのだろうか――。

 聞き返そうとしたけれど、言葉は引っ込んでしまった。


 アーシュが例えようのない、寂しげな顔で笑っていたので。


 彼は壁の亀裂から伸ばした手を、ルピスの指に絡めた。


「実は今、君にプレゼントを贈れるように頑張ってるんだ。まだ先の話だし、上手くいくかはわからないけれど……二十歳を迎えるまでに、形にできたらと思ってる。――あ、誰か来たかも……じゃあ、僕は行くよ。またね、ルピス」

「うん。気を付けてね」


 慌ただしく別れの言葉を交わして、この夜の逢瀬の時間は終わった。


 

 ……いや、この夜だけではない。


 

 正しく言うと、二人の壁越しの逢瀬はもうすべて終わりとなった。

 もう二度と、亀裂の向こうにアーシュは現れなかった。


 結局、彼に伝えたかったことは、口に出すことが叶わなかった。


『私の魔法は王様じゃなくて、特別に、あなたに使ってあげる。その時が来たなら、私の命、受け取ってね。アーシュ、あなたのことが大好きよ』


 そう、伝えたかったのに。






 ――最後に彼の姿を見てから、どれくらい経っただろう。


 繰り返し、繰り返し、季節が過ぎていく。

 

 過ぎ行く時間と共に、箱庭にいた聖女たちは一人ずつ消えていった。


 母のように慕っていた聖女は、穏やかな微笑みで庭を出ていき、帰らなかった。

 姉のように慕っていた聖女は、ホッとした様子で庭を出ていき、帰らなかった。

 

 城の者に連れられて出ていく聖女たちは、みんな安らかな顔をしていた。ルピスはその表情を、恐ろしく感じるようになっていった。


 めぐる季節と共にルピスの背は伸び、少女はいつしか大人の女性へと姿を変える。その過程で、色々なことを知ってしまったのだ。


 王が自らの長寿のために、聖女たちの命を食い荒らしていること。彼はもう何百年も生きている化け物だということ。

 恐ろしい魔法を使って、人々を支配し続けていること。


 そして、歪な生を得ているためか、長年子供に恵まれなかったこと。その王が、十数年前に、ようやく王子をもうけたこと。


 その王子の名前が、『アーシュ』だということ――。



 ルピスは多くのことを知ってしまった。

 もう王家への忠誠心や聖女の誇りなど、これっぽっちもなくなってしまった。


 七歳の頃、アーシュは父が怖いと泣いていた。今なら、ルピスにもその気持ちがわかる。


 この国の王の魔法は、人の尊厳を踏みにじるものだ。そんな王に囚われていることが恐ろしくてたまらない。



 ……そうして大人になったルピスは、もう一つ、知ることになった。


 長年抱え続けていた、アーシュへのこの想いは、『恋心』というものなのだと。


 もうずっと前から、自分はアーシュに恋をしていたのだということを。



 気持ちに名前がついた頃、ルピスは十七歳を迎えていた。


 箱庭に囚われた聖女は、もうルピス一人になっていた。






 ――それから一年が経ち、ルピスはもう一つ歳を重ねた。


 十八歳を迎えたこの年には、大きな出来事が起こった。忘れもしない出来事が、たくさん起きた年だった。


 まず一つ目に、初めて聖女の庭を出ることができたのだ。本当に、突然のことだった。


 最近、壁の外側がやけに騒がしい日があった。確か、半月ほど前のこと。――これが、()の起きた日だったのだろう。



 王が崩御したらしい。


 そして、王子アーシュが即位したそう。



 それからほどなくして、ルピスの元にドレスが届けられたのだった。聖女の簡素なドレスとは違って、贅沢な意匠だ。


 世話係によってあれよあれよという間に着替えさせられ、ルピスは聖女の庭から連れ出された。


 二重の鉄扉をくぐり抜けて、初めて壁の外へ出る。


 連れられた先にはとんでもなく広い庭園と、煌びやかな王城があった。視界に広がった景色に、ルピスはただただ立ち尽くしてしまった。


 感動と、怯えと、高揚感と、少しの悲しさ。


 初めての外の世界を嬉しく思うと同時に、箱庭に囚われた聖女の暮らしを思って、ちょっと悲しくなった。


 複雑な表情を浮かべるルピスに、城の者が言う。


「聖女様、我らの新しき王がお呼びです」

「新しい王様……アーシュ、様……? 彼に、お目にかかることができるのですか……!?」


 城の者は何も言わず、ただ静かに頷いた。



 アーシュに会える。大好きな人に会うことができる――。



 ようやく、ルピスは表情を明るくした。胸にたまらない気持ちが込み上げてくる。

 会えなかった数年の間、胸の奥にしまい込んでいた恋心が大きく弾んだ。


 舞い上がる気持ちを代弁するかのように、ドレスのスカートがふわりと揺らめいた。




 彼らの案内を受けて、ルピスは謁見の間へと足を踏み入れた。目がチカチカするような豪奢な広間だ。


 磨き上げられた石床を歩いて、玉座の前に進む。


 数段上がった高い場所。彫刻で飾られた椅子に、新しい王は座っていた。


 さらりとした赤毛の髪に、火のような赤い目。華やかな装いに負けないくらい、麗しく整った容貌。

 背はずいぶんと大きく伸びて、すっかり大人の男の姿になった幼馴染。



 アーシュは立派な王の姿をして、玉座についていた。



 足を組み、肘置きに頬杖をついて、こちらを見下ろしている。燃え滾る炎の目がルピスを貫く。


 アーシュは目を細めて、ルピスに言い放った。


「聖女よ、挨拶くらいしたらどうだ。王を前にしているのだぞ。頭を垂れよ!」

「……っ!」


 命じられた瞬間、ルピスの膝がガクンと崩れた。両手両膝をつき、頭を床についた。――体が勝手に動いてしまった。


 ルピスは初めて王族の――アーシュの魔法をくらった。


 愕然として、血の気が引いていく。彼が何の躊躇もなく魔法を使ったことに、衝撃を受けた。

 ルピスの弾む気持ちは地に叩き落とされた。


 怖い――……

 と、そう思ってしまった。


 大好きな想い人に、恐ろしさを感じてしまった。

 胸がドクドクと変な音を立てている。青ざめた顔に冷や汗が流れた。


 膝と頭が石床に打ち付けられて、酷く痛む。……でも、体の痛みよりも何よりも、胸の奥が痛くてたまらない。


 床に這いつくばったルピスに、アーシュは独り言のように吐き捨てる。


「残る聖女は一人きり、か。まったく、我が父ながらなんと強欲な……一人で聖女を消費して、長寿を得るだなんて。もっと早くに殺しておけばよかったよ。あぁ、嘆かわしい……」


 ……先王はアーシュに殺されてしまったらしい。彼はずいぶんと、強い魔法使いになったようだ。

 成長に伴って、先王を上回るほどの魔法の才能を開花させたのだろう。


 周囲の者は皆、異様なほどに彼に従順だ。きっともう、城中の人間たちに魔法を使っているに違いない。


(昔は、苺を甘くする魔法や猫を寄せる魔法が欲しい、なんてことを言っていたのに……そんなあなたのことが、私は大好きだったのに)


 ルピスはうずくまったまま涙を落とした。声を漏らさないよう、静かに泣いた。



 時の流れというものは、酷く無慈悲なものらしい。


 かつての彼の面影は、もう消え去っていた。そのことが信じられず、叫び出したいくらいに苦しい……。


 大好きだったアーシュが、もうすっかり損なわれていたことが悲しかった。

 

 繋いだ手の温度も、肌のやわらかさも、あたたかな眼差しも、へにゃりとした笑顔も、何もかも覚えているというのに。

 目の前の彼とは何もかも食い違っているようで、ひたすら涙があふれてくる。


 ルピスの恋する人はもう、王家に毒され、おかしくなってしまった。目の前には顔かたちが一緒なだけの、別人がいる。


 死別よりもずっと残酷に感じられた。



 血がにじむほどに唇を強く噛む。――そうして泣き声を噛み殺していると、玉座の方から声がした。


「……アーシュ様、どうか魔法をお解きください。尊き聖女に負担をかけてはいけません。彼女は王城最後の聖女のご身分です。あなた様のためにも、どうか……」

「フン、まぁ、それもそうだな。聖女よ、顔を上げよ」


 声と同時に、体に自由が戻った。

 涙に濡れた顔を上げて、玉座を見る。


 玉座の後ろには数人の黒騎士たちが並ぶ。アーシュを守り側に仕える、王の親兵だ。皆、全身を覆う真っ黒のローブを着て、深くフードを被っている。

 

 黒騎士の一人がアーシュをいさめてくれたらしい。騎士は黒い布で顔を覆っていた。

 

 アーシュは不機嫌な顔を一変させて、ルピスをじろじろと眺めまわした。


「ほう。よく見ると、それなりの見目をしているじゃないか。聖女よ、これから存分に身を尽くすがよい。僕のために生き、僕のために命を捧げよ。ようやく邪魔な父王が消えたのだからな。共に、思い切り遊ぼうじゃないか」

「……はい、アーシュ様。あなた様にこの身を捧げられることを、嬉しく思います」


 口が勝手に動いて、勝手に言葉が紡がれた。


 返事とは裏腹に、ルピスはボロボロと泣き続けた。心が崩れていく心地がした。






 ――そうして数日が経ち。


 ルピスは夜に、聖女の庭から連れ出された。夜伽の役目が来たらしい。


 かつて母や姉と慕っていた聖女たちも、夜な夜な城へと連れ出されていた。

 王と夜を共にするということがどういうことなのか、もう今のルピスには正しく理解できる。


 これからルピスは欲のはけ口として、王に抱かれ、遊ばれる。

 口づけだけは交わさぬまま、体のみを重ねるのだろう。


 聖女は口づけによって、特別な魔法を使うことができる。自分の命を人に与える魔法を――。


 先王は聖女の命を食い荒らしていたようだが、もうそんな贅沢はできない。ルピスがこの王城最後の聖女なので。

 ルピスは王城でただ一人の、王の命の予備である。


 きっとアーシュは貴重な聖女の魔法を、大切に保管することだろう。いざという時――自身の命に危機が訪れた時に備えて。

 

 ……だから、口づけだけは交わさぬまま。


 虚しい営みに、ひたすら耐える時間がやってくる。


 

 迎えの城の者に連れられて、夜の王城を歩いていく。


 アーシュの寝室へと入り、ベッドの端に座る彼と向き合った。室内は薄暗く、彼の目だけがギラギラとしている。


 部屋の隅には闇に紛れるように、親兵の黒騎士たちが並んでいた。


 そうしてルピスが挨拶の声を出す前に、アーシュはさっさと命じたのだった。



「喜べ、聖女ルピスよ。お前を夜伽にしてやろう。さぁ、服を脱ぎ落とし、僕の前で肌を晒してみせよ。命令だ」

「はい……アーシュ様。私の身は、あなた様のものでございます……」



 ルピスは魔法で操られるままに返事を返した。

 

 ドレスを脱ぎ落として、下着のシュミーズ一枚になる。流れ落ちる涙で胸元が濡れていく。水を吸った布から肌の色が透けていた。


 その肌にアーシュが手を伸ばす。


 昔、壁の亀裂に腕を伸ばし、二人で何度も手を重ねた。


 指を絡めて、手のひらをくすぐって笑ったりして。無邪気で甘やかなじゃれ合いを、何度もしてきた。

 伸ばされた彼の手を、幸せな気持ちで受け止めていた。


 ……今はその手が、こんなにも恐ろしい。


 泣きじゃくりながら、ルピスはアーシュの手を受け入れた。



 ――が、指先がわずかに触れたところで、声がかかった。



 アーシュが舌打ちをして、そちらへ目を向ける。その瞬間、わずかに魔法が弱まった。ルピスも泣き濡れた顔を向けた。


 部屋の隅、暗闇の中で、一人の黒騎士が膝をついていた。騎士は魔法に抗いながら、苦しげな声で言う。


「アーシュ様、お願いでございます……! 貴重な聖女を慰み者としてお使いになることは、おやめくださいませ……! 万が一にも口づけを交わしてしまえば、あなた様のお命の予備がなくなります……どうか、慎重なご判断を……!」

「貴様、また僕に楯突くか!」


 アーシュは枕元のランプを掴むと、黒騎士に向かって投げつけた。騎士の肩にぶつかって、ランプは大きな音を立てて割れ落ちる。


 騎士は動かず、膝をついたまま懇願する。


「どうか……お願いいたします……!」

「クソッ、忌々しい……! ならば代わりに、お前が興を添えてみせよ! 聖女の裸より楽しめる見世物でも出してみろ! ――そうだ、道化の芸を見てみたいな。この剣を使って、己の顔に道化化粧を施してみせよ」


 アーシュは意地悪く笑うと、棚から短剣を取り出して騎士へと投げた。


「ははっ、どうだ、お前にできるか? 僕の魔法に頼らずに、自らの意志でやり遂げよ。道化師の涙化粧のように、己の目を切り裂いてみろ!」

「承知しました……っ」


 騎士は短剣を握り、命令通り、自分の顔を切り裂いた。

 暗い部屋の中に血しぶきが舞う。


 ルピスは反射的に目をつぶって、声にならない悲鳴を上げた。


 顔の片側を裂いた騎士は流れる血を隠すように、深く頭を垂れた。


 その光景を見て、アーシュはつまらなそうに吐き捨てる。


「……人の寝床を血で汚しやがって。冗談を真に受けるとは、真なる道化だな。まったく、馬鹿馬鹿しい! ……興が冷めたわ。もう今宵は遊ぶ気分ではない。下がれ!」


 そう言うと、アーシュは一人でベッドに横になった。こちらに背を向けて、さっさと眠ってしまった。


 ルピスは脱ぎ落としたドレスを抱えて、震えながら寝室から逃げ出した。



 送り迎えの城の者に囲まれて、下着姿のまま、聖女の庭へと引き返す。


 一人ぼっちの建物の中に入った途端、床に崩れ落ちてしまった。手足がぶるぶると震えて、力が入らない。


 男の欲を露わにしたアーシュの顔。寝室に舞う騎士の血しぶき。――先ほどの光景が頭の中に蘇り、たまらなくなってしまった。


 膝とドレスを抱え込んで、くしゃくしゃの顔で泣き声を上げてしまった。


「……ごめんなさい、ごめんなさい……っ、夜伽の役目を果たせなくてごめんなさい……! 騎士様の目を傷つけてしまってごめんなさい……っ!」


 暗闇の中、ルピスはしゃくりあげながら謝り続けた。もはや何に謝っているのか、自分でもよくわからない。


 黒騎士が顔を裂いたのは、アーシュをいさめるためだ。

 夜伽中の事故で、もし聖女を無駄に消費してしまったら王家の損害となりうる。だから王を止めたのだろう。


 でも、結果的にルピスは助かってしまった。騎士が顔を裂くことで、ルピスは恐ろしいことから逃げ出すことができた。


 それがとても申し訳なくて、ありがたくて――……気持ちがめちゃくちゃになってしまった。


 ルピスは夜を通して、わんわんと泣き続けた。

 


 そうして涙すら枯れ果て、目を腫らしきった頃、夜明けを迎えた。


 体を引きずるようにして、小さな給湯部屋へと歩いていく。

 火を焚いて湯を沸かし、カップに注いだ。


 白湯を飲み、未だ震えの止まらない体を落ち着けようと思ったのだけれど……ふと、湯に映る自分の顔に目が向いた。


 生気のない目で、ぼんやりとカップを覗く。


 あの騎士は顔を切り裂き目を潰してしまったというのに、自分はちょっと、まぶたを腫らしただけ。

 

 ……あまりにも軽すぎる代償のように感じられた。


 めちゃくちゃな気持ちで夜通し泣き続け、すっかり疲れ果てた心――……その荒んだ心が、ルピスの手を動かした。


 ルピスはカップの熱い湯を、そのまま顔へとかけてしまった。


 熱さに呻きながら、呟き声をこぼす。


「ごめんなさい……これでお許しください……。騎士様、感謝申し上げます……私はあなたに助けていただきました……ごめんなさい……」


 顔を切り裂いたあの人と、せめて同じ苦痛を。……なんて、何の意味もない、独りよがりの罪悪感の埋め合わせだ。

 

 ルピスはこの日、自ら肌を傷つけてしまった。あの黒騎士と同じように、顔の半分を――。



 顔に大きな火傷を負うことになった。けれど、その火傷のおかげで、もうルピスが夜伽に呼ばれることはなくなったのだった。


 ルピスの顔はアーシュの好みではなくなってしまったらしい。


 彼のことが怖くて仕方がなかったのに、どういうわけか悲しくて、また泣いてしまった。

 嫌われてしまったことが、心の底から悲しかった。






 ――こうしてルピスの恋は失われた。


 この箱庭の生活の中で、アーシュへの恋心だけが唯一の宝物だったのに。何もかも、失くしてしまった。


 もう後は、荒廃した心に散らかった、(ちり)の残り火が消えるのを待つだけ……。



 空虚な日々が始まった。


 いつ終わるかもわからない、果てのない空虚だ。



 他の聖女たちがこの庭を出る時に見せた、安らかな笑顔の意味を知ってしまった。


 彼女たちはもう、人生が嫌になっていたのだろう。みんな、早く終わりにしたかったのだと思う。


 絶望と空虚の日々から逃れるためには、死を迎えるしかないのだ。死んでしまえば、安らぎに満ちた天国へと行ける。


 この庭の聖女たちは、みんなそういう気持ちで、王に命を捧げる魔法を使ったのだろう。


 魔法を使った聖女は光の中で眠りにつき、穏やかに息を引き取るのだそう。

 今のルピスにとっては、それがとても羨ましく、素晴らしいものに思えた。



 ルピスは建物の中から、聖女の庭をぼんやりと眺める。


「天国かぁ……。どんなところかしらね。青く澄んだ空に、一面に野花が咲いていて……真っ白な小鳥が飛んでいたりして。きっと幸せに満ちたところなのでしょうね」


 いいなぁ、行ってみたいなぁ――……。


 心の中で、そう呟いた。

 七歳の頃、壁に手をつきしみじみと思ったことと、同じ言葉を。



 ルピスはもう、壁には近づかなかった。色々なことを思い出してしまいそうで、辛かったから。


 季節の移り変わりを、ぼうっと建物の中から眺めていた。






 ――空っぽの日々を過ごして、二年が経った。ルピスは二十歳を迎えた。


 この年は、また大きな出来事が起きた。


 ……いや、『また』なんて言葉では収まらない。未だかつてない大きな事件が起きたのだった。


 この数百年の間、一度も上がることのなかった火の手が上がったのだ。


 ある日の夜のこと。

 王城に大軍が押し寄せて、瞬く間に攻め落としたのだった。



 聖女の庭の高い壁の上に、立ち上る炎と煙が見えた。この方向だと、燃えているのは王城だろう。


 辺り一帯に、地響きのような声がこだましている。この勇ましい雄叫びを上げているのは、軍人だろうか。

 他には、ガシャガシャという金属の音。鎧の音か、剣の音か。


 異様な状況の中、ルピスは一人、聖女の庭に立っていた。


 燃え盛る炎の欠片が飛んできて、庭の木々に移り始める。

 その様子を他人事のように眺めていた。


 火がつき、燃え落ちていく草木を見て、自分もこうやって尽きるのか、なんてことを思う。

 聖女の庭の壁は高く、鉄の扉は自分では開けられない。火が迫ろうと逃げられない。


 ……それに、例え自由があっても、自分はもう逃げはしないだろうと思う。

 

 逃げたところでルピスにはもう何もない。

 早く天国に行きたい。その思いだけだ。


 火の舞う中を歩き、ルピスは死に向かっていく庭へと別れを告げる。


「……二十年間、ありがとうね。綺麗なお花に、みずみずしい草木。愛らしい虫たちに、ベリーの実。……あなたたちは囚われの聖女たちの、心の慰みでした」


 落ちていた木の棒を拾い上げて、手に握る。こういう棒ですら、かつてのルピスにとっては素敵なおもちゃだった。


 そういえばアーシュと初めて出会った七歳の夜にも、棒を拾って振り回して、遊んでいたのだっけ。


 ふと遠い昔のことを思い出した。


 昔と同じように、棒をプラプラと振ってみる。胸に込み上げた懐かしさに任せて、ルピスは最後に、亀裂の壁へと寄ることにした。


 火の粉をくぐり抜けて、壁に近づく。壁沿いを歩きながら、あの場所を目指す。


 毎晩、何度も、数えきれないほど通った場所。

 ルピスの人生での唯一の宝物。恋した人との思い出の場所。


 さぁ、次の草木をかき分けたら、亀裂が見える――……。


 そう思った時。


 ほど近くから、人の呻き声が聞こえた。


「……せ……聖女よ…………よかった……無事であったか…………」


 壁に手をつきながら、血濡れの男が歩いてきた。


 ぐしゃぐしゃに乱れた赤毛の髪に、赤い目。

 その人はアーシュだった。


 扉は固く閉ざされているというのに、どこから入ってきたのだろう。聖女の庭には、ルピスの知らない通路でもあったのだろうか。


 ……今更知ったところで、もうどうでもよいことなのだけれど。


 アーシュはルピスの姿を見た直後、その場に崩れ落ちた。

 背中には無数の矢が刺さっていた。深い傷からはおびただしい量の血が流れ出ている。

 

 矢の傷だけではない。彼の背中は大きく切り裂かれている。……ルピスの目には、死に至る傷に見えた。


 アーシュは地面に両手両膝をつき、血を吐きながらルピスに言い放った。


「……聖女よ……命令だ……! 僕に、口づけを捧げよ……っ!」


 赤い目がギラリと光った。


「はい、アーシュ様。あなた様の望むままに」


 魔法に従い、ルピスは歩み寄った。

 目の前に膝をつき、彼の血濡れの頬に両手を添える。


「私の口づけを、あなた様に捧げます」



 静かに顔を近づけ、そっと唇を重ねた。


 アーシュとの口づけは、ただ血の味だけを感じた。




 しばらく熱を分け合い、そしてゆるやかに離れていく。


 アーシュは目を見開き、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔をしていた。口からゴボゴボと血が流れ出す。


 彼はむせながら、呆然と呻いた。


「……っ……な、なぜ……傷が……癒えない……? ……ま……魔法は……? 聖女の魔法は……どうしたと、いうのだ……? く、苦しい……ままだ……どうして……っ」


 呻きながら、アーシュは地面に倒れ伏した。

 無様に転がって、ガクガクと震えだす。

 

「そ……そんな……っ……お前、は……聖女では……なかった、のか……? ……う、嘘だ……嫌だ……し、死にたく……な…………僕に……どうか……命を…………」

 

 声は小さくなっていき、最後にはもう血と息を吐き出すだけになった。


 ルピスは座り込んだまま、死にゆくアーシュを見下ろす。目に涙がたまって視界が揺らぐ。


 もう彼のことで泣くのはやめようと思っていたのに……やはり、どうしても堪えきれなかった。


 涙をこぼしながら、ルピスはアーシュに最後の言葉をかける。


「……私は、真なる聖女ですよ。最後に一つ、聖女の秘密をお教えします。私たちの魔法は、心で使う魔法です。命令で体は操れようとも、心まで操ることはできません。私の心は、私だけが自由にできるものです」


 聖女の魔法は、口づけだけで発動するものではない。心で強く想うことで、初めて魔法が使えるのだ。


 かつてこの庭にいた聖女たちは、皆、天国への旅立ちを強く願っていた。それゆえ、望んで王に命を捧げたのだ。

 彼女たちは死ぬために、望んで魔法を使った。


 けれど、ルピスは今、それをしなかった。これは自身の恋心へのけじめだ。


 ……ルピスの心には、未だどうしても消えずにくすぶるアーシュへの想いがあった。でもこの時をもって、残り火のような気持ちにとどめを刺すことにした。


 ルピスは震える声で、言い切った。

 

「あなたには、聖女の魔法は使わないわ。私の命はあなたにあげない。ごめんね……アーシュ」


 アーシュはごぼりと血を吐いて、それからもう、動かなくなった。


 幼馴染で、想い人で、恐ろしき王。そして昔、大好きだった人。



 彼は、二十歳でその命を終えた。




 そしてルピスもまた、この後命を終えるのだと思う。燃える庭の中で、ぼんやりとその時を待つことにしよう。


 かつて恋した人の亡骸と、かつての恋の思い出と共に――……






 ――そう思って、ぼうっと座り込んでいた。


 けれど思いがけず、ルピスの天国への旅立ちは、ずれ込むことになったのだった。

 

 すぐ近くから大きな音と土煙が上がった。突然、亀裂部分の壁がガツンと崩され、大穴が開けられた。


 その穴から、わらわらと兵士たちが入ってくる。


 知らない紋章の鎧をまとい、知らない軍旗を持った人たち。この城の者ではないようだ。


 彼らはルピスの姿を見つけると、走り寄って膝をついた。


「牢の庭の乙女……あなた様が、聖女様で間違いありませんか?」

「……え……? ……はい、聖女ルピスと申します」


 突然現れた集団に驚きながら答える。すると、彼らは苦し気な顔をした。


「ご無事でよかった……! 遅くなってしまい申し訳ございません! あなた様を救いに参りました」

「こんな狭い庭の中でお過ごしになられていたとは……おいたわしい……」

「さぁ、火の粉が飛びますから、早くこちらへ」


 兵士たちは手を差し出して、ルピスを立ち上がらせる。

 そして足元に転がる男に目を向けた。


 アーシュの顔を見て、兵士たちはギョッとした声を上げた。


「なっ……! この男は……!?」

「なぜ王がここにいる! 玉座で討ち取ったはずだろう……!」


 兵士たちはアーシュの亡骸を転がして、まじまじと顔を見る。血を拭って確認し、低い声を出した。


「赤髪に赤目……確かに、国王だ」 

「いや、顔に傷が無い。玉座で討った王とは別の男じゃないか?」

「替え身か……? どちらが本物だ?」

「にしてもよく似ている。分かれ子だろうか……」


 兵士たちの言葉を聞くうちに、ルピスの胸にざわざわとした気持ちがせり上がってきた。



 ――分かれ子。双子。


 一緒に生まれてきた子のことを、そう呼ぶ。分かれ子として生まれてきた者たちは、時にうり二つの姿をしていることがあるとか――。



 ルピスの体が大きく震えた。


 近くの兵士に縋りついて、王の話を求めた。


「あの……っ! 王はもう一人いるのですか……!? 同じお顔をしているの!? その方は、今どこに……っ!」

「えっ? っと、落ちついてください、聖女様。ご安心ください、忌まわしき魔法の王は、我々連合軍が討ち取りました。もう魔王に怯えずともよいのですよ。玉座に刺し固め、火の刑に処しております」

「……っ! 玉座に……!」

  

 ルピスは兵士たちを押しのけて、壁の穴から走り出た。


 驚く兵士たちには目もくれず、ドレスをたくし上げて全力で走り出す。


 足を晒すのも構わず、火の粉や煙で肌が焼けるのも構わず。王城へと力一杯に走った。


 

 王城前の庭園は軍の兵たちであふれかえっていた。数多の軍旗が夜の風にはためく。


 軍旗の意匠は色々だった。それぞれ、どこかの国のものなのだろう。兵士たちは連合軍と名乗っていた。他の国の軍が一緒になって攻めてきたらしい。


 長い黒髪をなびかせて、兵士であふれる庭を走り抜けていく。


 途中、彼らの話し声が耳に届いた。



『玉座にいたのは片目の王』

『傲慢な魔王だと聞いていたが、最期の言葉は謝罪と礼であった』

『何の抵抗もなく、正面から刃を受け入れた』

『剣も抜かず、魔法も使わず、誰一人殺さぬ王だった』

『なんとも場違いに気の抜けた、へにゃりとした笑みを浮かべていた』


 

 ルピスは走り、王城を前にした。煌びやかだった城は大きな炎をまとっている。


 闇を照らして赤く浮かび上がる城――その中に、迷わず飛び込んでいった。


 兵士たちが何かを叫んでいたが、もう聞こえなかった。炎の音と、大きく鳴り響く自分の胸の音と、苦しい呼吸の音しか聞こえない。



 火の廊下をひたすらに走って、謁見の間へとたどり着く。


 燃える広間の中、王は玉座に座っていた。



 ルピスは彼の元へと歩み寄った。


 王の体はいくつもの剣で貫かれていた。体を貫通し、玉座にまで突き刺さっている。固定され、座った姿勢を保ったまま人形のように動かない。


 もう、命を終えてしまったのだろうか。



 ――そう思ったが、目の前に立った時。ゆるりと、王の片目が開かれた。



 火のような赤い瞳がのぞく。もう片方の目は、顔に走る大きな傷によって潰れていた。


 震える手を伸ばして、ルピスは王の頬に触れた。そして彼の名前を呼んだ。


「……アーシュ……?」


 彼は口から血を流しながら、答えてくれた。


「……ルピス……。……いや、幻かな……」

「幻なんかじゃないわ……! 私よ……! あなたに会いにきたの……っ!」


 ルピスはアーシュの頬を両手で包み込んだ。


 彼は苦しそうに、けれども、どこかやわらかさを感じる笑顔を作った。血と息をこぼしながら、彼は言葉を紡いだ。


「……ここにいてはいけない……お逃げなさい。あなたはもう、自由なのだから……。僕のプレゼント……受け取っておくれ」

「プレゼント……?」

「いつか、約束しただろう……? 壁を、壊してあげるって……遅くなってしまって、すまなかった。……力を集めるのに……時間がかかってしまった……」


 アーシュは唯一自由の効く左手を持ち上げて、ルピスの手に添えた。

 無理やり動かされた手は、痙攣し、震えている。それでも、力強くルピスの手を包んだ。


「……その間に、片割れが王位についてしまった……僕は……あまりに、無力で……あなたに、辛い思いをさせてしまったね……ごめんね……」


 分かれ子の王子は争いの元だ。

 厄介事を避けるために優劣を決めて、劣っている方はないものとして扱われる。そのため、王子の名前は『アーシュ』一つしか用意されなかったそう。


 片割れのアーシュ――魔王は死に、魔法は解かれた。


 目の前のアーシュは制限のなくなった体で、今まで喋れなかったことを話してくれた。


 自身が分かれ子だったこと。もう一人のアーシュは魔法に長けていたこと。強まる彼の魔法と父の魔法の中で自由が効かず、ルピスの元へ行けなくなってしまったこと。


 それでもわずかな隙をみて、王家を倒す戦力を集めていたこと。

 そして、王家の血と魔法を継ぐ自分自身も、討たれて命を散らす覚悟をしていたこと。


 命が尽きるまで、残り少ない時間を使って、アーシュはポツポツと語ってくれた。



 そうして最後に、彼はルピスに伝えてくれた。力を振り絞り、まっすぐな声で。


「ずっと、あなたのことが大好きだったよ。花をもらったあの日から、ずっと、今この時も、ルピスのことが大好きだ。……――さぁ、もう、お行きなさい。裏の壁に、通路がある。そこから外へ。あなたの望んだ、自由な外の世界へ……。……またね、ルピス。いつか天国で会ったら……僕と、手を繋いで、散歩を……して、おくれ。……愛しているよ…………」


 添えられていた手がだらりと落ちて、赤い目が揺らいでいく。

 血でむせながらも、アーシュは最後まで想いを喋りきった――……。

 


 ルピスの頬を、涙が伝い落ちた。


 次から次へとあふれてくる涙を放ったまま、ルピスはくしゃくしゃの笑顔を浮かべた。


「ねぇ、アーシュ。私もあなたに伝えたいことがあるの。どうか、聞いてちょうだい」



 目の前のアーシュの優しい声音。眼差しのあたたかさ。添えられた手のぬくもり。

 全部、思い出の中の大好きなアーシュと一緒だった。


 大好きな人と、初めて何の障壁もなくお喋りをした。頬に触れ、身を寄せ合って。

 ここにきて、こんな幸せを得られるなんて思わなかった。


 終わったはずのルピスの恋物語は、思いがけず、続きを紡ぐことを許された。



 ルピスは安らかな笑顔と共に、アーシュへと想いを告げた。


 もうずいぶんと昔から、伝えたくて仕方がなかった想いを――。


「私もアーシュのことが大好きよ。聖女の魔法はあなたに使ってあげる。もうずっとずっと昔から、そう決めていたの。私の命を、あなたにあげる」


 そっと顔を寄せて、最後の言葉を伝える。



「素敵なプレゼントのお礼に、私からも贈り物を――……あなたに、未来をあげるね。愛してるわ、アーシュ」


 ルピスはアーシュへと、聖女の口づけを贈った。

 愛し合う二人の、あたたかな唇が重なった――。



 魔法の光が舞い、広間は聖なる輝きに満たされる。


 夢のように美しい景色の中、ルピスの意識は薄れていった。



 最後に感じたのは、大きく逞しい腕の感触だった。

 思い切り強く抱きしめられて、痛いほどだったのを覚えている。


 アーシュは涙をこぼしながら、何か叫んでいたように思う。けれど、その声も聞こえなくなっていく。




 ルピスは想い人の腕の中で、ただただ、たまらなく幸せな心地を感じていた。










 そうして、聖女ルピスは天国へとたどり着いた。


 透き通る青い空の下。一面に野花の咲く丘の上。傍らには、真っ白な小鳥。


 ルピスは時間潰しに、小鳥に話しかけていた。ちょうど今、自身の二十年分の人生を語り終えたところだ。


「そういうわけで、生まれて初めて魔法を使ってみたのだけれど。上手く使えてよかったわ。それでね――……あら、もう行ってしまうの?」


 続きを喋ろうとしたところで、小鳥が羽ばたいた。そのまま空へとのぼっていってしまった。



 けれど、入れ替わるようにして、別の話し相手が来た。


 ルピスが待っていた人だ。時間潰しはもう終わりのよう。


 歩み寄ってきた相手を仰ぎ見る。顔をほころばせて、名前を呼んだ。



「アーシュ、思ったより早かったわね。もっと長く待つかと思っていたわ」

「そんなに待たせないよ。ルピスは退屈が苦手なんでしょう? 全力で走ってきたよ」



 彼は息を弾ませながら言う。


 赤毛の髪に、赤い目。片目は黒い眼帯に覆われ、その下から大きな傷がのぞいている。


 なかなかに近寄りがたい見た目をしている男だけれど、へにゃりとした笑顔が、雰囲気を優しいものにしている。


 アーシュは手に下げたカゴを見せてきた。


「見て、これ。店でパンをおまけしてもらったんだ。一緒に食べよう?」


 返事を返す前に、彼はルピスの隣に腰を下ろした。






 聖女は恋する人に、命を半分だけあげた。




 聖女の魔法は、自身の命を自在に人へと与えるもの。

 命を食い荒らしてきた王家は、なにやら聖女の魔法について思い違いをしているようだったけれど。


 自由な心で、自由に自分の命を使う。それが、聖女の特別な魔法――。


 

 ルピスはアーシュと命を分け合って、同じだけ生きられるようにした。

 いつかの未来、二人は同じ時に命が尽きる。そういう風に魔法を使った。


 秘密を話していなかったので、アーシュをめしゃめしゃに泣かせることになってしまったのだけれど……。


 すっかり男前に成長したというのに、彼の泣き顔は、七歳の頃の出会った夜と一緒だった。泣くアーシュとは反対に、ルピスは少し笑ってしまった。



 そうして火の上がる城から逃れ、遠くの国へと渡り歩き――。


 今は花のあふれる、のどかな街で暮らしている。

 愛する人との幸せな暮らし。つい一年前までは考えられなかった生活だ。


 今年、ルピスとアーシュは二十一歳を迎えた。


 街の端の小さな家で、二人仲良く暮らしている。ファミリーネームを新たに作って、指には同じ指輪が輝く。そして、家には猫が二匹ほど。


 二人で命を分け合ったので、寿命の長さはそれなりだ。


 玉座で命を燃やし尽くしたアーシュに、ルピスの残りの命を半分あげた。二人であと、二十年ほどは生きられるだろうか。


 人よりはずいぶんと、早い終わりを迎えるのだろうけれど。でも、二人にとってはこれで十分。


 十分過ぎるほどに幸せな人生だ。



 しみじみとしていると、アーシュが顔を覗き込んできた。


「どうしたの? ぼんやりとして」

「何でもないわ。――あ、そうだ。せっかくパンをたくさんもらったのだし、新しいジャムでも作りましょうか」

「それなら、苺がいいなぁ」

「ふふっ、じゃあ、苺を買ってこないと。パンを食べたら市場に行こうね」


 ――手を繋いで、散歩をしながら。


 そう答えると、アーシュは豪快にルピスを抱き寄せて、ガッシリと腕の中に閉じ込めた。

 甘く無邪気なじゃれ合いに笑い声が上がる。



 この後、たっぷりと苺を買って、二人でとびきり美味しいジャムを煮よう。ついでにお菓子を作って、お茶でもしようか。


 もう二人は何をしてもいいのだ。何だってできる。自由を阻む障壁はなくなったのだから。


 命が尽きるまで、好きなことを、好きなだけ。好きな人と一緒に――。



 恋する人に命をあげた聖女は、今、その腕の中に囚われている。


 聖女は幸せな笑い声を上げて、心から思った。




 ――あぁ、恋人のあたたかな腕の中は、まさしく天国のようだ。





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