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テーブルを挟んで向かいに座る幼馴染は、あらん限りの力で目をひん剥き大絶叫した。
そんなフェイルを見つめ、ルナーダは苦笑を浮かべた。
本当に、目が離せない、と。
そして、少し目を離した隙に、こちらが仰天することばかりしでかす少女には、自分のように強くてたくましくて、どんなワガママでも聞いてやれる存在が必要なのだと、改めて強く思った。
ルナーダはフェイルが望むことは、何でもしてやりたいといつでも思っていた。
パン屋の一人娘として生まれた彼女は、両親にあまり構ってもらえず、いつも寂しそうにしていた。
でも、両親を困らすことを恐れ、それを口に出すことはしない、いじらしさも持っていた。
庭の隅で一人遊びをするフェイルがあまりに可哀相で、ルナーダが遊ぼうと手を差し伸べれば、いつだって栗色の瞳はお日様のようにぱっと輝き、瞳と同じ色の髪を揺らしながら、こちらに駆け寄って来た。
フェイルはとても人見知りが激しい性格でもあり、そんな笑顔を見せるのは、ルナーダの前だけであった。
そして、気付けば、ルナーダはフェイルに対して、幼馴染以上の感情を持つようになっていた。
ちなみに、フェイルがルナーダに恋心を抱いたのは12歳。ルナーダが、17歳の時。
そして、ルナーダがフェイルに恋心を抱いたのは、16歳。フェイルが、11歳の時。
16歳の男が11歳の少女に、恋心を抱くなんて……それは、犯罪だ。
自警団に勤めている彼は、誰よりも正義感が強い。
そんな自分が”小児性犯罪者”などという、えげつない二つ名を戴く勇気は、ルナーダにはなかった。
そんなわけで、ルナーダは自分を戒めた。こんな気持ちは抱いてはいけないと。間違っていると。ちなみに、自制心も強い方だった。
だからルナーダは、フェイルを諦める……わけもなく、待つことにした。女性と呼べる年齢になるまで。
けれどルナーダだって健全で、健康な青年である。なので待つという苦痛から、ついつい別の女性と特別な関係になろうとしてしまったことは、責められることではない。
余談であるが、うっかり特別な関係になろうとした女性には、すぐにフラれた。「私、当て馬になるなんて、まっぴらごめんよっ」という捨て台詞とビンタをお見舞いされて。
という苦い過去はあったにせよ、ルナーダはフェイルのことを愛おしく思っている。
そして王宮騎士の見習いとして王都へ行く際には、絶対にフェイルと共に。と強く願ってもいる。
例え、フェイルの父親からパン焼き竈に押し込まれようとも、その意志を曲げるつもりはなかった。
──な、の、に、だ。
フェイルはあろうことか、自分に惚れ薬を飲ませたのだ。
ルナーダは……いや、この村の大人たちは、魔女がもう年老いて耄碌していることを知っている。
けれど、辺境の村の住人は、総じて人が良い。そして長年、諸々とこの魔女にはお世話になっていた。なので、ボランティア活動として、時折、薬を買っていた。
その薬は全て、役立たずな代物で、異常に苦いことも知っている。それでも村の大人達は魔女が飢えないように、定期的に購入を続けていたのだ。
それが仇となり、まさか自分が、このクソ苦いインチキ薬を飲むハメになろうとは。
───ほんの少し前のこと。
自警団の仕事を終えたルナーダは、自宅に戻る際に待ち伏せされたフェイルから、なぜか急に「私の部屋に行こう」と誘われたのだ。
ぶっちゃけ、フェイルに腕を引かれた時、ルナーダは途方に暮れた。
自制心にだって限界があることを、ルナーダは既に知っている。
だから、フェイルが大人に近づくにつれ、なるべく二人っきりにならないように細心の注意を払っていたのだ。
けれど、長年大切に想ってきたフェイルは、そんなルナーダの気持ちなどこれっぽっちも気付いてない。
そしてルナーダとて、フェイルの腕を無下に振り払うことはできなかった。
ただなぜか、フェイルの部屋に足を踏み入れた途端、彼女はあからさまに挙動不審となった。そこそこ、挙動不審になっているルナーダが不審に思う程。
ただ訝しむ時間もなく、明らかに色のおかしいお茶を出され……ルナーダは嫌な予感がした。でも、飲んだ。それは、愛ゆえに。
どんな味だったかは言葉にできなかった。
控えめに言って、まずかった。意識を保てたのが奇跡と呼べるほどの不味さだった。2度目は絶対に断ると即決できるほどに。
ちなみに、フェイルは真剣な表情でルナーダを見つめていた。まるで思い詰めているかのようでもあった。
背中と額に脂汗を掻きながら、ルナーダはここでピンときた。
フェイルが自分に何を飲ませたかを。そしてカマをかけるかのように、愛の言葉を囁けば、どうやら当たりのようで……。
ただ、こうも思った。
「泣くくらいなら、こんなことをせずに、直接言えば良いのに」と。
──フェイルがルナーダを求めている以上に、ルナーダはフェイルを求めているのだから。
***
「そんなもん、飲ませなくっても、素直にそう言えば良かったんだよ」
「……」
呆れ口調でそう言うルナーダに、フェイルは色々思うことがある。
けれど、真っ先に言いたいことは、これだった。
「ルナーダさん?あの……なんか言葉遣いが……変ですよ?」
普段ルナーダは、この村では珍しく【ですます調】を使う。
けれど、今、ルナーダが使っているのは、村の青年のような口調。
驚きのあまり、思わず他人行儀に敬語を使ってしまうフェイルに、ルナーダはちょっとだけ眉を上げて答えた。
「いや?これが素。お前の前ではカッコつけてた」
「嘘!?」
フェイルは再び絶叫した。けれど、ルナーダはからからと笑うだけ。
「ははっ。嘘なもんか。それに今の俺の口調、無理しているように聞こえるか?」
「ううん」
フェイルは食い気味に首を横に振った。
ルナーダのこの口調に違和感はない。妙にしっくりしている。認めたくはないけれど。
「お前が、ガルドのこと乱暴者って言ったからなぁ」
「それが理由?」
「ああ。俺はお前に嫌われるなんて、願い下げだからな。だから、お前と一緒の時は、言葉遣いに気を付けてたんだ」
「……そうなんだ」
幼馴染故、ルナーダのことは誰よりも、そして何でも知っていると思っていたフェイルにとって、このカミングアウトはとても複雑なものだった。
ちなみにガルドは、ルナーダの親友である。言葉遣いは粗野だけれど、心根の優しい青年だったりもする。
けれど、ガルドのことはどうでも良いことのようで……フェイルは、ルナーダの新しい一面を見て、微妙な顔をして小さく唸り声を上げてしまう。なぜなら、そんな彼も素敵と思ってしまうから。
そんなフェイルを、ルナーダは面白おかしく見つめている。けれど、その目は慈しみに溢れていた。
フェイルは気付いていなかっただけ。ルナーダがずっとこういう眼差しをフェイルに送っていたことを。
そしてルナーダは、もう隠すことはせず、フェイルに自分の胸の内をさらけ出す。
「俺は、お前が好きだよ」
「………ありがとう。でも、薬飲んでるから、そう思えるんだよ」
フェイルは未だに惚れ薬が、インチキ薬だということが信じられなかった。
そして、この薬の効果が切れてしまえば、これで終わりだと思い続けている。
胸をときめかせる甘い言葉も、蕩けてしまうような眼差しも全部消えてなくなる。呆気ないほどに。
そして、薬の効果が消えてしまえば、ルナーダは自分のことを幻滅するだろう。
そんなことすら思っていたりもする。
あと忘れてはいけない。フェイルは惚れ薬の代価として笑顔を失った。
これから一生──女性と呼ばれるようになっても、おばあちゃんになっても、もう笑顔を浮かべることはないのだ。
今更ながら失ったものの大きさに気付き、フェイルは唇を噛む。魔女の針に刺された薬指までもがチクチクと痛む。
だけれど、ルナーダに幻滅されてしまったら、そうじゃなくても自分は一生笑えないだろうとも思ってしまう。
フェイルは、今思っていることを一言も口にはしていない。
けれど、まるでフェイルの思考を呼んだかのように、ルナーダが立ち上がる。そして、フェイルの元まで来ると、膝を付き憂えた栗色の瞳を覗き込んだ。
「あのさぁ、まだ、俺が薬のせいでこんなこと言ってるって思ってるのか?」
「うん」
即答したフェイルに、ルナーダは遠い目をした。
でもすぐに気を取り直して、別の角度から質問をしてみる。
「ちなみにさぁ、お前、惚れ薬って何なのか知っているのか?」
「好きでもない人に、好きって言わせる薬」
「はっ。ガキだな」
「なっ」
フェイルは、ルナーダに子供扱いされることを、ことのほか嫌う。
途端に顔を真っ赤にしてフェイルは反論しようとする。けれど、それよりも前に、ルナーダが口を開いた。
「惚れ薬ってのは、要は媚薬。男が女に飲ませるもの。んでもって、その効用は……あっ、いや、なんでもない」
「なんでそこでやめるの!?」
フェイルの詰問に、ルナーダはあらぬ方向に目を泳がせた。
【惚れ薬】など、綺麗な表現を使っているだけ。実のところそれは主に、性的な意味で男性が女性に使うものであった。
無論、ルナーダはそんなことをフェイルに言えるわけない。なぜなら、次に『なんでそんなこと知ってるの?』なんて聞かれたら、とても困ってしまうから。
だけれど、フェイルは教えてくれと目で必死に訴えてくる。
──……くそっ。
ルナーダは、心の中で悪態を付いた。
でも、可愛い可愛いフェイルに対して、きつい言葉を吐くことなどできるわけもなく、誤魔化しつつも説明することを選んだ。
「惚れ薬っていうのは……えっと、あれは……薬の力で相手を思うように従わすことができる薬なんだよ。本人が嫌だと言っても、従順になる。でも、見てみろ?俺は、お前の言葉に素直になっているか?ん?」
フェイルは、今しがたのルナーダの説明を心の中で何度も咀嚼する。
確かに、ルナーダは甘い言葉を吐いてくれたけれど、フェイルの思い通りになっていない。そもそも、従順になった人間が、従順にした人間に対して馬鹿などと言うわけがない。
これはなかなか説得力のあるものだった。
「理解したか?」
「うん」
「じゃあ、この薬がイカサマ品だってわかったか?わかったよな!?」
「う、うん」
最後はルナーダの気迫に押され、フェイルは、ややたじろぎながら頷いた。
でもすぐに、こくこくと壊れた玩具のように何度も頷いた。
そうすればルナーダは、ほっとしたような笑みを浮かべた。
そしてルナーダは、その笑みを生真面目なものに変える。
「なぁ、フェイル。一緒に王都へ行かないか?」
「へ?」
突然変わった話題についていけず、フェイルは間の抜けた声を出してしまう。
でもルナーダは、気を悪くするどころか、更に真剣な表情になる。
「お前と離れるなんて、俺が耐えられない。親父さんには、俺が説得する。殴られたって、罵倒されたって、構わない」
「私が嫌だよっ。ルナーダが殴られるなら、その前に私がお父さんを殴り飛ばすよ!」
血気盛んにフェイルはそう意気込んでいるが、その必要はない。
なぜなら、もうフェイルの母親は娘の恋心に気付いている。そして、その相手が誰かも知っている。
もっと言うなら、その男がフェイルと共に王都へ行きたいと強く望んでいることも。
だから、娘が寝静まった後、夜な夜な夫を説得していたりもする。ちなみに、フェイルの父親は娘に甘い。激甘と言って過言ではない。
そして忙しさにかまけて、一人娘に寂しい思いをさせてきたことも、ちゃんとわかっている人間だった。
……ということは、すぐにわかることなので、今は知らなくても良いこと。
「フェイル、それは頼もしいけど、親父さん、お前に殴られたら、生きていけないと思うから、ここは俺に任せてくれ。それよりも、さ」
「ん?なあに?」
「フェイル、お前はどうなんだ?俺と一緒に、王都へ行ってくれるか?」
「当たり前じゃん!!」
惚れ薬がインチキ薬だと知った時より、もっと大きな声で。そして首がもげてしまいそうなほど強く、フェイルは頷いた。
「頼もしいなぁ」
ルナーダは目を細めて笑った。
笑うそばから、フェイルが愛しくてたまらないという気持ちがにじみ出てくる。
「フェイル、好きだよ」
「うん。私も、……ル、ルナーダのことが大好き」
「そうか。俺達、両思いなんだな。嬉しいよ。じゃあ……フェイル、嫌じゃないなら、目を閉じて」
「……うん」
目を閉じれば、次にどうなるのか。
それはまだ少女のフェイルだって、さすがに知っている。けれど、知っているからこそ、素直に目を閉じた。
暗闇の中、大きな手のひらがフェイルの頬を包む。ルナーダの前髪が頬にあたってくすぐったい。
そんなことを一瞬考えていれば、唇に、柔らかく暖かいものが触れた。
唇を触れるだけの優しい口づけは、瞬きする間の出来事だったはずなのに、永遠にも思える長い時間だった。
「フェイル」
かすれた声で、ルナーダが愛しい少女の名を呼ぶ。
その声に導かれるように、フェイルがゆるゆると目を開けた。栗色の瞳が、あどけなさを消し、大人の色に染まっている。
いつの間にか空は夜の色へと変わっていた。
そして、窓に映るフェイルの口元は、恥じらいつつも、しっかりと弧を描いていた。
◇◆◇◆おしまい◆◇◆◇