第九話 お子様ランチ
丈二が蜜柑と遭遇したのは、家に帰ろうと馬加駅で始発電車に乗りこんだ時のことだった。
思わぬ遭遇に一瞬ぎょっとした丈二だったが――よく考えると電車の一日の本数が少ない上に、乗るのは一両編成のワンマン電車である。同じ日に外出したのであれば、電車で出会う可能性は低くもない。
蜜柑も乗り込んできた丈二に気づいたらしく、目が合うと小さくお辞儀をする。ここで離れた場所に座るのも気まずいと思い、丈二は蜜柑の隣に腰掛けた。
今日の蜜柑はワイシャツに黒のスカートに革靴という、フォーマルな服で身を固めている。
「えっと、もしかして就活の帰りか?」
「うん」
「そっか」
丈二は「結果はどうだった?」というひとことが言えずに口ごもる。
受かっていればいいのだが、「落ちました」という答えが来た時に、丈二には気の利いた返しができる気がしない。
蜜柑にしても、追い出そうとしている丈二に失敗の報告をするのは苦痛だろう。ならば余計なことは口に出すまい。
「あの、今日の一次面接は受かりました」
「……そっか」
しかし会話が途切れてしばらくすると、蜜柑の方から報告がきた。
それを聞いた丈二は胸をなでおろし、もう少し深く聞いてみようかと思って蜜柑の方を向く。
「犬飼さんは、優しいですね」
「え?」
しかし蜜柑に笑顔でそう言われ、丈二は言おうと思っていたことを忘れた。
「いま、就活の結果を聞かないでくれましたよね。犬飼さんの立場だと、私が面接に落ちてたら困るのに」
「…………」
「だから、ありがとうございます」
真っ白になった。
丈二が就活の結果を聞かなかったのは、そんな優しさからくるものではなく。
他でもない丈二自身が嫌な思いをしないため、一歩踏み込むのを避けたにすぎない。
それを蜜柑はどういうわけか、丈二の優しさだと受け取ったらしい。
「……雨、降って来たな」
「そうですね」
その勘違いを訂正することもできず、丈二は天気に話題を逸らした。
* * * * *
「…………雨、すごいな」
「…………そうですね」
二人が電車を降りた時、雨脚はかなり強まっていた。
雨だけではなく風も強く、ホームの屋根の下にいても細かい水滴が丈二の顔をうっすら撫でる。
「あ、傘ないんだった」
「だったら俺の傘を貸すよ」
「え、で、でも」
「大丈夫、折り畳みを持ってるから」
丈二は鞄から折り畳み傘を取り出して蜜柑に渡す。
それは行きがけに雨に降られた時のために持っていたもので、今日はそれとは別にもう一本、馬加で長傘を買っておいたのだ。
――これが妹の凛ならば、折り畳み傘は隠しておいて蜜柑との相合傘を楽しむのかもしれない。
――あるいは兄の彪吾ならば、蜜柑に傘を押し付けて自分は鞄を傘にして走り、恩を売りつけるのだろうか。
そんなくだらない妄想をしながらも、丈二は駅を一歩出た。
「うあっ」
そして吹いた突風に蜜柑が耐えられず、貸したばかりの丈二の傘が飛んでいく。
折り畳み傘は一度は天まで登ったものの、雨と重力に負けて林の中に突っ込んでいく。
最早この場所からは見えないが、あとは木々に打ちつけられて、骨がバキバキに折れていく運命であろう。
ああ、丈二が長年愛用してきた折り畳み傘の、なんと非業な最期だろうか!
人や建物にぶつかるよりは遥かにいいが。
「…………」
「…………」
丈二が蜜柑に笑顔を向けると、彼女も丈二に笑顔を返す。
二人は無言で駅構内へと戻り――ベンチの上に、向かいあって正座した。
そこは以前、丈二が蜜柑にお説教をした場所である。
蜜柑の笑顔はどうにも青ざめていて、プルプルと震えているように見えるが――丈二よ、情け無用だ、ばっこりいこう。
丈二がそれほど優しい男ではないと、今こそ教えてやろうではないか。
「――って、台風だしこんなことしてる暇ないから。いいからさっさと帰ろう」
丈二はそう言って、溜息混じりに立ち上がる。
長年愛用していたとは言え、防水加工もとうに剥がれた古い傘だ。今日買ったばかりの長傘が飛ばされるよりはマシだと思おう。
そんな丈二の態度を見て、お説教を回避した蜜柑はホッとして――
「た、台風!?」
珍しく大声で叫んだ彼女は、傘を飛ばしてしまった時より愕然としている。
「なんだ、知らなかったのか? まあ俺も、さっきネットで見て知ったばかりなんだけど」
「いま初めて知りました」
「そっか。そう言えばあのダンボールハウスって、台風は大丈夫なのか?」
「…………」
丈二が気軽に聞いた質問に、蜜柑は何も答えない。
ただ、その目はすごく泳いでいる。
「大丈夫じゃない」という答えがきた時に、丈二には気の利いた返しなど絶対にできない。
もしや、就活の結果などより余程聞いてはいけない質問だったか。
「えーっと、とりあえず帰ろうか」
「は、はい!」
丈二はひとまず屋敷に向けて歩き始める。
丈二と蜜柑の相合傘は――横殴りの雨に対して丈二が傘を盾に、蜜柑が丈二を盾にして歩くという、色気とは程遠いものだった。
* * * * *
夜になるにつれて、雨風は更に強くなった。雨粒が雨戸を叩く音が、途絶えることなく聞こえ続けている。
パジャマ姿の丈二は廊下の雨戸を少しだけ開けて、中庭の様子を素早く覗く。
この雨では雨戸を開けるのも辛いのだが、それ以上にダンボールハウスの様子が気になった。
この台風の中、三人娘は今もダンボールハウスの中にいる。
丈二は一応三人娘に避難するよう忠告したが、彼女達はそれを拒んで居座っている。ダンボールハウスに穴が開いたらすぐ補強できるように、そしてダンボールハウスが飛ばされないための重りとして、中に残ると決めたらしい。
今のところ、外観には変わった様子はない。
いまだに中を確認したことがないが、サイズがサイズなのでそれなりに頑丈に作られているのだろう。少なくとも薄いダンボールの壁という事はあるまい。それなら自重でとっくに潰れているはずだ。
「平気、なのかな?」
丈二は中庭の無事を確認すると雨戸を閉め、寝室に入って布団の上に横になった。こんな日はさっさと寝るに限る。
雨と風の音が気になって仕方ないが、それでもなんとか眠ってしまおうと、丈二は目を固く閉じた。
――そして雨風の音に、女性の悲鳴が混じるのを聴いた。
「っ!?」
丈二は慌てて飛び起きる。
もう一度外の音に集中してみるが、今は台風の音しか聞こえない。
夢か、ただの空耳かもしれないと思いつつ、嫌な予感がした丈二は廊下に出ると、雨戸をもう一度細く開いた。
そこに、お子様ランチがあった。
「わざ、ふぁ!?」
丈二は妙な幻に目をこすり、もう一度中庭を確認する。
そこにある巨大なダンボールハウスに、一本の日の丸の旗が突き刺さっていた。
その姿は岩に突き刺さった聖剣――というよりは、お子様ランチのチキンライスによく似ている。
バタバタとなびく日の丸の旗は、丈二を包める位に大きい。
恐らくはどこかで片付け忘れた日の丸の旗が、この台風で折れて飛ばされれたのだろう。そして奇跡的な確率でこの場所まで辿り着き、ダンボールハウスに突き刺さったのだ。
――などと冷静に分析している場合ではない。
飛んできたということは旗の支柱はプラスチックのような軽いものだろうが……それでも、勢いのある状態で人にぶつかったならただでは済まない。
「ちょ、大丈夫かあいつら!?」
丈二は屋敷に雨が入るのもかえりみず、雨戸を大きく開け放つ。
――と、雨戸で死角になっていた場所に、呆然として旗を見つめる三人娘を発見した。
三人ともたった今、驚いて飛び出してきたのだろう。椿などは枕を握りしめているが、それも雨でびちょびちょに濡れている。
三人娘も丈二に気づき、一対三で見つめ合う。
「えっと…………うち入る?」
丈二はその言葉を絞り出す。
これまで極力三人娘を家に上げるまい、そしてダンボールハウスに立ち入るまいとして努めてきた丈二だが、さすがにこの状況でそっと雨戸を閉める度胸はない。
仮に閉めたなら明日から合わせる顔がないし……そもそも三人が五体満足でいるかどうかも怪しい。
「…………うん」
三人はお互いに顔を見合わせると、こくこくと首を縦に振っていた。