第四話 駅のホームで
丈二が空腹を感じて目を覚ますと、寝ていた畳の部屋には薄っすらと光が差し込んで、ひぐらしの大合唱が丈二の耳を支配していた。
丈二は目覚まし時計を探して左右を見渡し、そしてそもそもそんなものはない事に思い至る。長年愛用していたキツネの形の目覚まし時計は、今も実家の丈二の部屋で時を刻んでいるのだろう。
誰に見られるわけでもないのに。
「あー、腹減った!」
丈二は大声を出し、それ以上余計な事を考えるのはやめた。
起き上がってスマホで時間を確認すると、六時半を過ぎたところだった。
だんだんと強くなってきた空腹感が丈二に食事を促すが、今この家の中には食べ物がない。
本当は昨日のうちに買い出しに出かける予定だったのだが、なんやかんやあって……
「いや、なんやかんやで流せる話じゃねえだろ」
自分の回想に自分で突っ込みを入れながら、丈二は寝ていた部屋を出て廊下の雨戸を開けた。
――パジャマ姿で伸びをしている椿と目が合ってしまった。
いかにも寝起きといった出で立ちで、眼鏡はかけてないし髪も縛っていない。白地にピンクのチェック柄のパジャマ姿が、昨日見たシャツにステテコよりもよほど似合っている様に思えた。
「あ……お、おはよう」
「チッ……おはようございます」
椿は丸出しだったへそを素早く隠し、丈二を睨みつつ挨拶を返した。
そして丈二が「お前、今舌打ちしなかったか?」という苦言を放つ前に、ダンボールハウスの中へと引っこむ。
パジャマとへそ、舌打ちと拒絶、それらを丈二的の中で差し引きした結果はマイナスに振れた。
「やっぱり、早まったかなぁ」
寛大な処置を施したはずの相手に朝一番で切り傷ひとつつけられて、丈二は大きく溜息をついた。
* * * * *
丈二は昨日、残念娘達がただの家出や秘密基地ごっこではなさそうだと悟ると、保身のためにも問答無用で追い出すのは取りやめた。
……が、その後の事情聴取によって、丈二は彼女達に踏み込んだことを後悔する事になる。
曰く。亀崎蜜柑自称十九歳は孤児院の出身で、高校卒業後に就職した会社で虐められ、三ヶ月の研修期間終了時に契約更新をしなかった。
曰く。謎野椿十八歳(名字は断固として名乗らなかった)はネットに自宅の住所を晒されて人が押しかけてくる様になり、家族に迷惑はかけまいとして家を出た。
曰く。謎野杜松子十五歳(上に同じ)は親の会社の都合で十六歳になると同時に外国人と結婚させられる。それが嫌で逃げてきた。
そんな話す側も聞く側も傷だらけになった事情聴取ののち、丈二は「風俗も援交も身売りもなしで、自立するのにどれだけかかる?」と問いかけてみたものの、誰もはっきりと答えられなかった。
結局は『一ヶ月以内に出て行くこと、できない場合はそれぞれの家族及び孤児院に通報』という条件で、彼女達に今しばらく中庭を貸し与える事になった。
* * * * *
「いや、どうしてその結論になったんだよ昨日の俺」
中庭を不法占拠して家主を殴り、殺したという勘違いから穴を掘っていた連中だ。丈二が取るべき行動はただひとつ、警察に通報する事以外にありえなかったのではないか?
なまじ事情聴取などして通報し辛くなってしまったのは仕方ないとして、敷地からはさっさと追い出すべきだ。それをなぜ一ヶ月も中庭を貸し与える話しになった?
そもそもどうして中庭なのか。仮に丈二がどうしようもないお人好しだったとして――彼女達を本気で助けたいと望むのならば、中庭ではなく普通に屋敷の一部屋を貸してやれば良いだろう。何しろこれだけ広い屋敷に一人暮らしなのだから、空き部屋だってたくさんある。
「……そういえば、腹減ってたんだった」
丈二は考えが纏まらないのを糖分不足のせいにして、朝食の確保に向かう事にした。
一旦寝室に戻って身支度を整え、屋敷の台所――ではなく玄関に向かう。本当なら昨日のうちに近所の散策をしつつ買い出しに出かける予定だったのだが、残念娘達のせいで行けずに終わってしまっていた。昨日の夜はコンビニで買っていたお菓子でしのいだものの、今朝はいよいよ食べ物がない。
街のカフェで朝食を食べて、それから買い物をすませよう。最低限、ネット環境は整えなければ。
そんな風に今日の予定を立てた丈二が玄関を開けると、外出から戻ってきたらしい杜松子に遭遇した。Tシャツにジャージ姿の彼女の両手には、二十リットルの液体が入る大きなポリタンクが握られている。
「……おはよう」
「はい、おはようございます」
彼女は朝の椿とは違いにこやかに挨拶を返し、そして露骨に距離を取りながら、大きく弧を描くようにして丈二を避けて裏庭の方へと向かった。
「何だありゃ?」
その態度にどこか慇懃無礼な感じを受けて引っかかったが、丈二は気にするのをやめて玄関を出た。
* * * * *
その一時間後、駅のホームで古びた時刻表を写メしている丈二の姿があった。
電車のタイミングが合わなかったために、かれこれ三十分ほどここで待ちぼうけをくらっている。
屋敷から駅までの道のりにはコンビニは愚か自動販売機すら見当たらず、腹の虫の声が蝉の声にかき消されながら、ホームのベンチに座って電車を待った。
――と、電車が来るまであと十分という時間でホームに丈二以外の人影が現れる。
一瞬自分以外の利用者の存在に感動した丈二だったが、その正体が蜜柑だとわかると肩を落とした。
電車に乗るからか、さすがにその姿はステテコでもパジャマでもジャージでもなく普通の開襟シャツにジーパンだった。その割に頭はボサボサなので、やはりあれは天然パーマなのだろう。
今度も避けられるかと思いきや、蜜柑は丈二を見つけるとその横に腰掛けた。
「……おはよう」
「おはようございます、犬飼さん」
蜜柑は丈二の方を向き、礼儀正しくお辞儀する。丈二もつられてお辞儀を返す。
そのまま暫く沈黙し、気まずくなった丈二は話題を探す。
「えっと、どこに行くんだ?」
「はい、街のネットカフェに行って就活をしようと思います」
「そうか。うん、頑張れよ」
「……はい」
そこで会話が途切れたが、今度は蜜柑の方から丈二話しかけてきた。
「あの、犬飼さん」
「おう」
「私以外の二人は、まだ高校生と未成年なんです」
それは昨日の事情聴取で聞いて知っている。
「だから、その……何かご要望があるときは私に言ってください」
「お、おう?」
丈二には蜜柑が何を言いたいのかがわからない。
無表情な彼女からはいまいち心情が読み取れないが、両手を膝の上でグッと握りしめているのが見えた。
蜜柑と丈二が加害者と被害者の関係である以上、蜜柑が丈二に対して気後れして緊張するのは仕方のない事だろう。しかしこの状態はあまりよろしくないと考えた丈二は、彼女の緊張をほぐすために当たり障りのない話題を探す。
そして当たり障りのない話題と言えば、その代表例は天気である。特にコミニケーション能力の低い人間にとっては、一日一回話題にすることができる天気はまさに神様からのギフトなのだ。
引っ越してからまだ一度も電波に触れていない丈二には、天気予報を見る事すらできていない。天気予報が見れないのは残念三人娘も同じだろうし、多少はフランクな会話ができるだろう。
もしもラジオなどで聞いて知っているなら、逆に教えてほしいくらいだ。
「それにしても、今日は昨日より蒸し暑いよなぁ。シャツなんか脱いじまいたいくらいだよ」
そう言って丈二はTシャツの首元をつまんでパタパタと胸元を扇ぐ。
「あ、あの、でも、もうすぐ電車が来ちゃうから」
「ん? ああ、そうだな。電車の中は涼しいよな」
丈二がふと彼女の顔を見ると、青ざめた顔で先ほどよりもいっそう硬くなっていた。
いったい丈二の何がここまで彼女を追い詰めているのだろうか。特に起こった様子や威圧感を出しているつもりはないし、丈二は別にヤクザ顔でもなければボディービルダーのような体格でもない。確かに背の低い蜜柑と向かい合えば威圧してしまうかもしれないが、今は横並びで座っているのに。
「でも、電車が来るまでまだ五分はあるよなぁ」
「――っ!」
丈二の素朴なつぶやきに、蜜柑はビクンッと肩を震わせた。
今度は青かった顔を赤くして、開襟シャツのボタンに手をかけて――
「わ、わかりました。……脱ぎますね!?」
「うん……うん?」
――そして半泣きになりながら、シャツのボタンを上から順に開け始めた。
起伏のほとんどない胸元が、ちらりと丈二の視界に入ってくる。
「ちょっと待て」
状況は理解できないまま、丈二は蜜柑の腕を取ってやめさせた。
「あ、あの!? ……どうぞ」
「どうぞって何が!?」
目をぐっと閉じて無い胸を突き出す蜜柑に、丈二はもうどうしたら良いのかわからない。
落ち着け丈二よ、凝視してないで情報をちゃんと整理しろ。
もしや蜜柑は露出狂だろうか? 否、彼女が残念な人間なのは間違いないが、露出狂にしては様子がおかしい。
天候の話をしていただけのハズなのに、何故かわからないが丈二が彼女に脱ぐことを強要したような状態になっている。丈二と彼女との間には、何か決定的な誤解が生じているはずだ。
ここに来てからの蜜柑とのやり取りを思いだせ。
――私以外の二人は、まだ高校生と未成年なんです
――だから、その……何かご要望があるときは私に言ってください
「ってそんな事するかぁ!」
「あいたぁ!?」
答えが分かった瞬間に、丈二は蜜柑の頭に無意識にチョップしていた。
どうやら蜜柑は……いや三人娘は丈二の事を、体目当ての変態だと思っていたらしい。
その結果、普通に天候について話題にしていたつもりだったのに、蜜柑はそれをここで脱げという暗喩と受け取っていたようだ。
よくよく考えてみれば、他の二人も様子がおかしかった。昨日の今日だからギスギスしてしまうのはしょうがないとして、椿は何故か丈二の事を汚物を見るような目で睨んでいたし、杜松子は丈二の事を露骨なまでに避けていた。
おそらくは昨日の夜のうちに話し合い、丈二が中庭への滞在を許したのは下心があるからだという結論になったのだろう。
確かに常識的に考えて、警察も呼ばず、追い出しもしなかった丈二の行動は奇行と言って良いのだか。
だからといってその結論は、いくら何でも残念過ぎる。
――そしてそれ以上に、蜜柑が丈二に自分の体を差し出そうとしていたことが許せない。
いったい何のために丈二が一ヶ月の滞在を許したと思っているのか。
「蜜柑さん、ボタンを留めたらちょっとそこに直って下さい」
「いや、でももう電車が来て……」
「いいから」
「……はい」
丈二はようやく到着した電車を見送り、更に二時間弱あとの電車が来るまで空腹も忘れ、延々と蜜柑に説教をし続けたのだった。