第三話 中庭の誓い
日本には『土下座』という習慣がある。
何かに平伏すること自体は日本以外の国でも多々あるのだが、その対象はほぼ神様や王様に限定される。謝罪の為に一般人が一般人に向かって行う事が、日本独特の風習なのだ。
跪いて頭を地に擦り付けるそれは、元は身分の高い人が木の床、身分の低い人が土の上に座るところからきているらしい。以前日本の旅館に泊まったときに女将さんが平伏していたが、畳の上で行うあれは、土下座ではなくただの丁寧な挨拶にあたる。
そういう意味において、少女達が中庭の大地の上に平伏し、丈二が中庭に面した屋敷の廊下に座っているこの状態は、まさしく正しい土下座の形と言えるだろう。
ひとまずゾンビ疑惑と変質者疑惑を解いた丈二だったが、少女達と話し合うのに家に上げるのは躊躇われたし、ダンボールハウスの中にお邪魔するのはありえない。そこで日陰の多い中庭で話し合う事にして、丈二は当初の目的であった中庭の雨戸を掃除して一度屋敷の中に戻り、廊下側から大窓と雨戸を開けた。
雨戸を開けたら彼女達が横並びになって平伏しているのを発見した時は、このまま窓を閉めて見なかった事にしようかと本気で悩んだ丈二である。
そのまま三十秒程眺めていたが、微動だにしない三人娘に根負けし、結局は足を外に出して廊下に腰掛ける事にした。
ちなみにダンボールハウスへの入り口が三人娘のすぐ後ろにあるが、ダンボール製の妙にデコレーションされた扉が付いているため、中の様子は全く窺い知る事が出来ない。
――この後すぐに解体して露わになるのだから、わざわざ確認する必要もないだろう。
「あ、開かずの雨戸が……」
「どうやら、岩戸の玄関も開いたようね……」
三人娘のうち二人、真ん中の眼鏡の女と右端の長髪女性が丈二の気配に顔を上げ、そして驚愕の表情を浮かべる。
「……何の話?」
「えっ!? いや、その……ダンボールハウスの入り口をこっち向きに作っちゃったもんだからさ、出入りにぐるっと回らなくちゃいけないのが面倒くさくって」
「それで、大窓と玄関が開いたら直通できて便利だなぁっていつも話してましたので」
その時は屋敷の中に住めよ――というツッコミは実行されても困るので飲み込む。
ダンボールハウスの扉ぐらい付け替えろよ――というツッコミも、これから立ち退く人間には無意味な事か。
なんにせよ今のやり取りでわかった事がひとつ。
こいつらは、やんわり言って、残念だ。
「まあ、どうでもいいけど。……それで、君達は誰? ここで何してんの?」
思えばこの出会って最初にするべき質問をするのに、丈二は随分と遠回りをさせられた。
ネット小説に例えるならば、丸々一話分くらい挟んだだろうか。
だとすれば作者は地の文で三人娘の名前を出せない事で、さぞかしやきもきしたはずだ。
もっとも丈二の予想が正しければ、お玉で殴った女の子の名前は『亀崎 蜜柑』だろう。
他の二人が何やら顔を見合わせて、それから蜜柑(仮)の方へと視線を移すが、彼女だけは今も額を大地に付けたままで微動だにしない。彼女は丈二を殴った実行犯なので顔を上げづらいのも仕方あるまい。
しかし丈二は思う。仲間を護ろうとして戦った彼女より、事後にせっせと穴を掘っていた二人の方がよほど悪人ではないかと。
「あの、わ、私は謎野百合って言います」
「私は謎野松子です」
二人がようやく名乗りをあげる。名字が同じという事は、あまり似ていないが姉妹らしい。
ここで蜜柑がピクリと肩を震わせたが、動かないまま名乗る気配がない。
まあ名乗らないなら名乗らないでかまわないか。彼女の名前はわかっているし、彼女宛と思われる郵便物も抑えてある。
「そ、それでこっちにいるのが、その、謎野林檎です」
「私達、三姉妹なんです」
「嘘つけぇぇぇぇええええ!?」
ダウトだった。
「う、嘘だなんて、ななな、何を根拠に!?」
長髪の女性が目を泳がせながらそう言った……って。
「いやお前、取り繕うの下手過ぎるだろ」
「え……はっ!? まさかカマをかけたのですか!?」
「かけても割っても足してもねぇよ! さっき思いっきりその子のこと蜜柑って呼んでたじゃねぇか!」
「うぐっ、それはその……本名が林檎であだ名が蜜柑なんです!」
「なわけあるかぁ!」
百歩譲って全部本当だったとして、人一人殺した場面で姉妹がそんな色物のあだ名で呼ぶな。
ここはやはり、さっき回収しておいた郵便物を突きつけて――
「――あの!」
そこで、今まで動かなかった林檎(仮)がついに頭を上げる。
「私は、亀崎蜜柑って言います。この度は本当にすいませんでした」
が、そう言ってすぐに再び額を大地に付けてしまった。
丈二を殴った張本人だが、この子が一番まともかもしれない。
……いや待て丈二、それはいくらなんでもまともの基準が低くなり過ぎている。
ほら、一番小さな女の子はちゃんと名乗ったぞ? という白い目線を残りの二人に向けてやれば、二人は丈二からすっと目を逸らす。
「……百合です」
「……松子です」
こいつらは。
「まだ言うか」
「いや、だって、身バレすると凸られるし……」
「私も懸賞金とか掛けられてるかもしれなくて」
何だかよくわからない単語を出す眼鏡の百合(仮)と、自らへの懸賞金を心配する長髪の松子(仮)。
…………ん?
「……懸賞、金?」
犯罪者、なのか?
いや、確かに現時点で不法侵入やら傷害事件やら言い逃れできない事をやってきている。
「え……あ、違います! 違いますから! 父が、家族が私を探しだすのに多分探偵を雇ったりしてて、懸賞金とか懸けてるかもしれなくて、それで!」
松子はわたわたとして取り繕うが、簡単に信じる事はできない。
何しろせっせと穴を掘っていた奴だ、前科があってもおかしくはない。
丈二よ、ここは今一度、汚いおっさんフィルターを発動しておこう。目の前にいるのは三人のおっさんだ。おっさんの名前など覚えてどうする。確かに何かあった時のために身元を特定しておきたいのはやまやまだが、ひとまず亀崎蜜柑だけ確認できれば十分だ。念のため、さっきの郵便物を彼女に返す前に差出人を写メしておこう。
おっさん達の事情など、わざわざ聞いても意味はあるまい。さっさと追い出すなり警察に突き出すなりしよう。
――ああ、電波さえ飛んでいたならば、とっくに警察を呼んでいるのに!
「はぁ、じゃあ百合と松子で良いよ。家出だかホームレスだか知らないけれど、事情聴取も面倒だからさっさと出て行ってくれ」
「な、面倒って! こっちにだって色々と……」
「ちょっと、つ、百合、ストップ!」
立ち上がって掴み掛かろうとしてくる百合の腰に、松子が必死にしがみつく。丈二も中庭側に出していた脚を慌てて引っ込めて、廊下に中腰になって身構えた。
今のは少しビビったが、ここで一度吐いた台詞を引っ込めるわけにはいかない。
「いや、名前もまともに名乗らないのに事情聴取なんて受けるつもりないだろ?」
「うっ、それは、だから!」
「ああうん、だからもう出て行ってくれればそれでいいから。ああ、普通に捨てられるゴミは置いてって構わないけど、粗大ゴミとかはちゃんと回収していってくれよな」
「――っ!」
激昂した百合は顔を真っ赤にして拳を握りしめ、眼鏡の奥の瞳が涙を蓄えはじめている。
その目は丈二を睨みつけ、何か言い返そうとして口をあけるが、しかし言葉が出てこないらしく――
そんな爪が食い込む程強く握りしめていた百合の手を、それまで動かなかった蜜柑が上体を起こしてそっと握った。
「――行こう、二人とも。これ以上犬飼さんに迷惑をかけちゃ駄目だよ」
「蜜柑……」
百合は蜜柑の言葉に手をほどくと、ポロポロと涙を流し始めた。
「でも蜜柑さん、出て行くって言っても行く宛なんて……」
「大丈夫、私が何とかするから」
少女達の悲壮な姿に丈二は少しショックを受けるが、このままここに居候させるわけにはいかない。出て行く方向で話し合い始めたのだ、横から口は出すまいと考え三人娘を黙って見守る。
蜜柑は立ち上がり、二人の顔を交互に見た。
「決めたよ。私――風俗で働く」
丈二は吹いた。
「蜜柑、駄目だよそんなの!」
「ううん、いいの。どの道私には体を売るくらいしかできないし、多分二人に出逢わなかったらとっくにそうなってたと思うから」
「蜜柑……」
決意を固めた表情を見せる蜜柑に、百合は再び拳を握りしめて押し黙る。
待て百合、そこで押し黙るじゃない。さっきまでの丈二に掴みかからんばかりだった勢いはどうした。今こそ蜜柑を殴り飛ばしてでも目を覚まさせる場面だろうが。
「そんなこと……させないよ」
そうだ、それでこそ百合だ、言ってやれ。
「蜜柑にだけそんなことさせないよ! 私もやるから!」
丈二はむせた。
「やるって……うん、そうだね。じゃあ何かバイトとかして手伝ってくれる?」
「そ、そうじゃなくって!」
「椿はまだ高校生だし、援助交際とか犯罪は許さないよ」
必死な様子の百合を、蜜柑が優しい笑顔で諭す。
突っ込み所があまりにも多いが、いまだ呼吸困難から回復しない丈二には言葉が出せない。
「だったら退学届出してくる! もう十八歳になってるし、高校やめちゃえば社会人だもん」
「それは……でも、風俗なんていたらすぐに見つかるよ? そしたらみんな押し寄せてきちゃうんでしょ?」
「だったら……だったらAVに出る!」
「掲示板に書き込まれて、家族の目に触れるかもしれないよ?」
「それは! そんな、意地悪ばっかり……ヒグッ」
ここでようやく丈二は呼吸困難から抜け出すが、さらに悪化した状況に、とても突っ込みを入れられる雰囲気ではなくなっている。
落ち着け丈二、女の涙に騙されるな。あれは汚いおっさんホームレスの涙だ。
違うぞ丈二、あれは騙そうとしたり誤魔化そうとしたりする時の涙とはたぶん別物だ。
いやそんな事はどうでもいい。
丈二にとって問題なのは、このまま三人娘を追い出していいのかどうかだ。
ここは汚いおっさんフィルターをかけて……みたとしても、死を覚悟してタコ部屋に行く話をしているようなものか。それでは風俗よりもなおさら止めるべき案件という事になってしまう。
「――あの、お二人共、そんな事はしなくて大丈夫ですよ」
百合だか椿だかの腰にしがみついていた松子も立ち上がり、言い争う二人に対し首を少し傾けながら微笑んだ。
そうだ、三人娘にはもう一人いた。
蜜柑が年齢不詳なものの、おそらく一番歳上と思われる松子ならば、二人をうまくおさめてくれよう。
「お二人共、私の事を縛ってお父様に突き出してください。そうすればお金なんて幾らでも貰えるはずです」
丈二は膝をついた。
ああ、一瞬でも彼女に期待を寄せた自分が恥ずかしい。一見背が高くて大人びて見えるが、出会ってからここまでの間、こいつが一番残念だったじゃないか。
「そ、そんな事できるわけないじゃない! だって杜松子は!」
「いいんです、任せて下さい。おそらく十六歳になるまでは家に閉じ込められてしまうと思いますが、結婚したらすぐに連絡しますから。……そうだ! 相手の方が治安の良い国の人だったら、お二人を招待できないか聞いてみますね。海外なら椿さんのことを知ってる人も居ないでしょうから」
ネズ子(?)は変わらぬ笑顔のままだが、その目から一筋の涙がこぼれ落ちる。
そして三人娘は誰からともなくお互いに肩を抱き寄せて、円陣を組んでむせび泣きをはじめた。
――ああ、駄目だこれは。
このまま黙って彼女達が出て行くのを見送ったって、誰も丈二を責めないだろう。
駅前にあった人が住んでいる民家に駆け込んで警察に連絡したとしても、丈二に一切の非はあるまい。
――だが、これは駄目だ。
誰も丈二を責めないとしても、三人娘が丈二を恨まないとしても、他でもない丈二自身が自分に傷を負わせてしまう。
それもかなり深いやつだ。
既に一太刀浴びせられた状態でここまで逃げてきたのに、ここでもう一撃くらっては致命傷になりかねない。
「あー、そのー……君達? ちょっとだけ良いかな?」
意を決した丈二がぎこちない笑顔で話かけると、涙やら鼻水やらで顔がぐしゃぐしゃになった三人が一斉に丈二の方を見上げた。
その顔に少し驚愕の色が含まれているのは、途中から丈二の存在を忘れていたからなのだろう。
「えっと、やっぱり問答無用で出て行けとは言わないから、もう少しだけ事情聴取させてくれる?」
努めて穏やかに話す丈二に、三人娘はポカンと口を開けていた。