第十八話 解明せずとも
「確かに受理しました。もう帰っていただいて大丈夫です」
「えっと、ありがとうございました」
「働いた分のお給料は来月五日に振り込まれますが、亀崎さんにはまだ一度も振り込んでいなかったので、御本人に入金確認をするようにとお伝え下さい」
「わ、わかりました」
蜜柑に踏みつけられた……もとい蜜柑に会社を辞めるよう説得した翌日。
丈二は死地に赴くほどの覚悟を決め、彼女の辞表を届けるために蜜柑の勤め先を突撃したのだが……危ないことは何もなく、奥から出てきた青白い顔の女性との事務的なやり取りだけで、蜜柑の退社はあっさりと決まった。
唐突に辞めるにもかかわらず、お給料も出してくれるという。
対応をした女性社員の受け答えも、愛想はないが怒っている風でもない。彼女が手慣れた様子で淡々と事務処理を終わらせたため、結局丈二がその会社に滞在していた時間は二十分もなかった。
蜜柑の話を聞かなくて良いのだろうか?
丈二が実は怪しい人間だったらどうするのか?
色んな疑問が浮かんでいたが、丈二には問いただすこともできないまま頷き続け……
……ふと気が付けば、丈二はその会社の門の外に立っていた。
ほとんど放心状態だったものの、唯一その場を一刻も早く離れたいという思いだけはあって、どこへ行くとも決めずに歩き始める。
そういて歩いているとだんだん気持ちが落ち着いてきて、先程の出来事を考える余裕も生まれてきた。
恐らくあの会社にとって、社員の退社など日常茶飯事なのだろう。蜜柑のことも、こいつはすぐに辞めるだろうくらいに思われていたのではないか。
失礼な話になるが、蜜柑がたいして役に立っていなかったから、さっさと辞めて欲しいと思っていた可能性もある。
あるいは蜜柑本人が辞表を出した場合はもっと酷いことになるが、丈二という第三者が出てきたことで、余計なトラブルを避けて優しい対応をとったのか。
丈二よ、そのくらいにしておこう。
唯一はっきりとわかるのは――ダーク企業の本音なんて考えて面白いものではない、ということだ。
何事もなくて本当に良かったと安堵する一方で、心の中にモヤモヤとした想いも残る。
心のどこかで、口汚く罵られることを期待していたらしい。
それは蜜柑に踏まれて目覚めたから……というわけではなく、そうして彼らが悪徳業者だと実感できれば、蜜柑に無理矢理会社を辞めさせた罪悪感が少なくなる。むしろ、代わりに辞表を届けに来た自分を英雄視することもできた。
それがあんな風に優しく大人の対応されると、申し訳ない事をしたような気分はぬぐえない。
(……でも、やっぱり怒鳴られたり殴られたりは嫌だなぁ)
揉め事があってもなくても傷跡が残る、そんな自分の我が儘ボディが恨めしかった。
* * * * *
それから丈二は駅前のドラッグストアで即効性をうたう液体胃薬だけ買って飲み、すぐに屋敷へと帰ってきていた。普段は一度出かけると、同時に複数の用事を済ませようとして夕方まで買い物したりネットカフェに行ったりするのだが――今日は何かする気分ではないし、胃がもたれていて食欲もでなかった。
「あ、お帰りなさい犬飼さん」
帰ってきた丈二は自宅の門前で、ジャージ姿の杜松子に遭遇する。
両手にポリタンクを手にしているところを見ると、湧き水を汲んできた帰りらしい。
(……畑に撒くための水かな?)
その大量の水を見て丈二は思う。
椿と杜松子の二人には、蜜柑とのやり取りを昨日のうちに説明してある。
とは言ってもその内容は、丈二と蜜柑の名誉のため、包んで隠してかなりマイルドに
「蜜柑の今の仕事は重労働で身体を壊しそうなので、転職できるまでもうしばらくは屋敷への滞在を許可します」
という趣旨にしてあるが、二人はそれでも納得していた。
一緒に畑の使用も許可したところ、二人はすぐに意気揚々と畑仕事をし始めた。彼女達の妙にやる気な様子を見ると、むしろ蜜柑にだけ働かせるような構図にこそ、思うところがあったのかもしれない。
丈二は少し照れながら杜松子に「ただいま」と答えた。
それから退職届を出した結果の報告をするため、蜜柑の姿を周囲に探すが、この近くには居ないらしい。
「なあ、蜜柑は裏にいるか?」
「今は家の中に居ますよ。呼んできましょうか?」
丈二はそうして貰おうと……思ったのだが、杜松子にニヤニヤと不気味に眺めてられていることに気づき、頼むとは言えなかった。
「……な、なんだよ?」
「いえいえ、何でもございませんよー」
杜松子のあからさまに何かありそうな物言いに、丈二はひどく嫌な予感がした。
しかし杜松子に合わせて問答してやる理由はない。
経験上、こういう場合は関わらないのが一番だ。
丈二は報告は後でもいいかと考え直し、杜松子の横を通り過ぎて屋敷の玄関へと向かい――
「それで、辞表は受け取って貰えたんですか?」
――後ろから杜松子にそんな声をかけられて、ついうっかり足を止めてしまった。
「……なんで知ってるの?」
「昨日の夜、椿さんと一緒に蜜柑さんを問い詰めましたから」
ニヤニヤしながら「洗いざらい吐かせましたよ」と言う杜松子の笑顔を見て、丈二の背中に悪寒が走る。
蜜柑よ、お前はいったい何をどこまで吐いたのか?
単純に勤め先が悪徳業者だったことを話しただけなのか……それともまさか、土下座する丈二を足蹴にしたことまで喋ったのか。
後者だった場合を考えると怖くて確認する事ができないが、確認しないのもそれはそれで不安を誘う。
聞くならせめて、杜松子にではなく蜜柑に聞く方がマシだろうか。
「そ、そうか。うん、知ってるなら話が早いな。それのことで蜜柑に報告をしたいんだけど、呼んでもらっていいか?」
「それが、椿さんにこっ酷く叱られて、昨日からずっと蜜柑箱に篭りっぱなしなんですよ。時々中でバタバタしながら変な叫び声をあげてます」
どうやら今日は退職関係の報告はできないし、何を話したのか確認する事も出来ないらしい。
目の前の杜松子はなおもニヤニヤと丈二を見つめているが、彼女にだけは聞く気にはなれない。
「なら、また明日にするからいいよ。じゃあな」
「あ、待ってください犬飼さん」
今度こそ屋敷に入ろうとした丈二は、再び杜松子に止められる。
丈二は次はいったい何を言われるのかと身構えたが――杜松子は先程までのニヤけ顔とは違う穏やかな笑顔になったあと、ポリタンクを地面に置いて、深々と丈二に頭を下げた。
「蜜柑さんのこと、本当にありがとうございました。……それと、もう少しだけ、よろしくお願いします」
「…………うん、よろしく」
丈二はそう答えると、今度こそ屋敷の中へと入っていった。
なんにせよ、三人娘との一つ軒の下の生活はいましばらく続いていく。
その事実を自分が本当はどう思っているのか――丈二はそれも、解明しないことに決めた。




