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第十七話 「犬飼さん」が「丈二」になる時


 日本には『土下座』という習慣がある。

 頭を地に付けて平伏すること――と思われがちな土下座だが、実は頭を地面につけてはいけない。おでこで上半身の重さを支えるような楽をせず、より辛い体勢をつくることで相手に謝意を示すらしい。

 そうは言っても、勢い余っておでこを大地に叩きつけるくらいの方が、相手に謝意が伝わりそうにも思えるが。


「申し訳ありませんでした!」


 土下座の作法はさて置いて、仕事がワンルームマンションの電話勧誘だったと告白した蜜柑に対し、丈二がとった行動は土下座だった。

 物置小屋の中で膝を抱えて泣いている蜜柑に向かい、丈二は雑草の生い茂る庭に手をついて頭を大地に叩きつけたのだ。


「……は?」


 蜜柑は丈二の行動を理解できずに固まった。

 蜜柑も自分の仕事がろくでもない事はわかっている。うがった見方をすれば、丈二に止められた性風俗の方がよほど社会の役に立っているし、感謝してくれる相手がいるぶん仕事としても真面まともだろう。

 バレたら軽蔑されると思っていたし、最悪即刻追い出されるのではとすら恐れていたが……一体どんな奇跡が起きて、土下座して謝られるという結果になったのか。


「あのー、なんで犬飼さんは土下座をされているんでしょうか?」


 丈二の予想外すぎる行動に、蜜柑は一周回って冷静さを取り戻していた。


「俺が本当に、どうしようもないクズだからです!」

「すいません、もうちょっとちゃんとわかるように説明してください」

「蜜柑が辛い目にあっているのは俺のせいです」

「……だから、なんで犬飼さんのせいなんですか?」


「ホームレスになるしかなかったような女の子に、一ヶ月以内に性風俗以外の方法で独立しろとか絶対に無理に決まってました! そんな命令した俺が悪かったんです!」


「…………」


 ――馬鹿にされた。

 事実だが、事実になってしまったが、今のは確実に馬鹿にされた。

 土下座かましながら馬鹿にされた。


 蜜柑は頭を下げたままの丈二を見降ろしながら、自分の頭の中が冷たく沸騰していくのを感じた。

 蜜柑の目から溢れ出ていた涙も丈二にドン引きしたようで、気付けば目の奥底へと引っ込んでいる。


 この瞬間まで、蜜柑は丈二のことを憎からず思っていた。

 丈二はぶん殴ったり畑を借りたり散々迷惑をかけ続けても、蜜柑達の自立を願って色々と便宜を図ってくれた恩人で。

 そんな優しい丈二に対して蜜柑が好意を持ったのは、このひどく閉鎖的な環境ではある種の必然でもあったのだが……

 夢から覚めた現在は、ただただ丈二が気持ち悪い。


 この時丈二が頭を上げて蜜柑の顔を見ていれば、自分の失言に気づいてフォローできたかもしれない。

 しかし致命傷を受けて頭を上げることもできない丈二には、蜜柑の様子をうかがう余力も残ってはいなかった。


「そもそも中庭に住ませて時々声をかけるだけとか、人間に対する扱いをしていませんでした。そんな……ペットの犬を愛でるみたいな最低最悪の行為していたことに今気づきました。本当に、本当にすいませんでした!」


 そしてまた、余計なことを口走る。

 その発言は九割九分九厘が丈二の自虐でできていて、彼の本心だとは言えないのだが……無論、それが蜜柑に通じる訳がない。

 昨日まで好意的な目で丈二の事を見上げていた少女は、ついには蔑んだ目で丈二を見降ろしていた。


(よし、ぶん殴ろう)


 しばらく丈二の前では猫を被っていたが、元々蜜柑は見知らぬ男とお玉で戦うくらいには、血の気が多い女である。

 蜜柑の好感度はマイナス方向に振り切れて、ついには丈二を物理的に排除する方向にまで思考が傾いていた。

 ただし、殴りたくても丈二が土下座したまま動かない。彼の後頭部をペチペチ叩くのは何か違う。

 最終的に、蜜柑は抱えていた膝を伸ばし、丈二の後頭部に裸足の足を乗せ、ぐいっと大地に押し付けた。


「…………」


 蜜柑は丈二の後頭部に右足を乗せ続ける。


「…………」


 丈二は後頭部に圧を受けてなお微動だにしない。


 そのままお互いに動かない、よくわからない膠着状態が続き――一匹の蝉が二人の間を通り抜け、廃墟の壁に取りついた。


 カナカナカナカナカナカナカナカナカナ……


 廃墟に取りついたヒグラシの、どこまでも物悲しい求愛の声に、蜜柑は正気を取り戻す。



 ――蜜柑、あなたは何をしているの?

 いくら犬飼さん……犬飼……もう丈二でいいか。いくら丈二の発言にイラっとしたからって、足で頭を踏みつけるなんてどんな神経しているの?

 蜜柑、曲がりなりにも丈二は恩人で、そしてあなたは勝手に丈二の家の中庭に住み着いていた、どころか初日には殴り殺しかけた犯罪者ですよ? こんな事して彼を怒らせて、警察に突き出されたらどうするんですか?

 別にあなたが突き出されるだけなら自業自得なだけですが、その時は椿や杜松子も捕まるでしょう。二人が少年院送りにでもなったらあなたに責任とれるのですか?

 蜜柑、あと少しの辛抱です。あの会社は詐欺同然のブラック企業、それを超えたダークで邪悪な企業ですが、その分お給料だけはちゃんとくれます。もう少しで初任給を貰えます、そうすれば安アパートに引っ越して、ダンボールハウスともお別れです。

 今日は良心の呵責に耐えられずこんな結果になってしまいましたが……いえ、今からでも出社しましょう。あの会社は絶えず人手不足だから、一度くらいの遅刻ではクビにはされないはずです。他に道はありません、もう少しだけ頑張りましょう。

 さあ、丈二の頭から足を退けて「ごめんなさい。どうかお給料がもらえるまでもうしばらく居させて下さい」って頭を下げるんです。



 そうして色々なものを飲み込んだ蜜柑は、ゆっくりと右足を丈二の頭から離し――


「だからその仕事、どうか俺のために辞めてください」


 また丈二が何やら妙なことを言い出したため、蜜柑は引っ込めかけた足を止めた。

 


 仕事を辞めろ、と言われることは蜜柑にも理解できる。この仕事は電話相手には嫌がられてばかりだし、先輩達は明らかに違法な脅迫まがいの電話もしている。蜜柑もお金のためだと割り切ろうとしてみたけれど、最近は電話越しに罵声を浴びる悪夢で目が覚めるようになった。そんな仕事だからこそ、椿や杜松子には建設業だと誤魔化してきた。

 なので丈二に「そんな仕事は辞めなさい」と言われるのはわかる。きっと椿や杜松子にだって言われるだろう。

 ……しかし、丈二の言い回しは何かおかしい。「俺のために仕事を辞めてくれ」なんて、聞き様によってはプロポーズのようだ。このまま犬飼家の嫁として屋敷に転がりこむ流れだろうか?


 ――昨日までならまだしも、今は『お断りします』一択である。


「それは、電話勧誘なんてろくでもない仕事だからやめろってことですか? ……私が、私が必死に探して、生きていくためにやっと見つけた仕事なのに?」

「そうじゃない」


 やや威圧しながら話した蜜柑の言葉を、丈二はすかさず否定して。



「そうじゃなくて……俺が、見てて辛いから辞めて下さい」と続けた。



 あっけに取られた蜜柑は口を開けて丈二を眺め、しばらくしてようやく「ふざけてるの?」と声を出す。


「お前が辛いから仕事を辞めろって、馬鹿なの!? そんなのは……そんなの、私が、どんな、思いで!」


 蜜柑は言葉に詰まりながら、右足でゲシゲシと丈二の肩を蹴りつける。


「辛くない仕事が、なんにもできなくて、誰だって頑張ってるのに!」


 蹴ることに夢中になって言いたいことが纏められなくなっているが、それでも蜜柑は足を止めない。

 丈二は土下座というよりうずくまった状態を取るが、それでも蜜柑に語りかける。


「わからないよ。俺みたいな裕福な家の子供には、蜜柑の苦労はわからない」

「だったら黙っててよ!」

「黙らない!」


 蜜柑は激昂し、足を大きく振り上げ――


「だって蜜柑が、ダンボールハウスで生活をしてる時よりも、ずっと辛そうな顔してるから!」


 ――振り下ろす直前で足を止めた。


「頼る家族もいない女の子達が、お金も仕事もなくダンボールハウスで生活してて、中でも蜜柑は一番年上だから椿や杜松子を守ろうと戦っててさ。そんな状況でも蜜柑はニコニコ笑って、たまに引きこもっても、すぐに何でもないフリして出てきて。

 うまく言えないけど、本当に凄いな、強いなって思ってた。

 それに比べて、俺はどうしようもないくらい小さな悩みでこんな場所まで逃げてきてるから、蜜柑達を見てると、本当に自分が情けなく感じてさ」

「…………」

「それでも、それでも俺が見ていられたのは……かろうじて自己嫌悪に押し潰されずに済んだのは、三人が楽しそうに笑ってたからなんだ。

 それが蜜柑が働くようになってからあまり笑わなくなって、椿や杜松子も心配してて。

 そんなのはもう見ていられないし、そうなった原因が俺が中庭から追い出そうとしたからだなんて、俺には耐えられない」


(……ああ、そういうことか)


 丈二の告白に、蜜柑は自分の中で沸騰していたものが、蒸発しきって消えていくのを感じた。


「あなたが、私達を追い出そうとするのは当たり前なんじゃないですか?」

「それでも、耐えられないものは耐えられません」

「あと数日で出て行くから、そうしたらもう私達を見なくて済むでしょう?」

「無理です。こんな別れかたしたら一生忘れられないトラウマになります。立ち直れません」

「でも一ヶ月以内に出て行く約束だし」

「その約束無しにさせて下さい」

「…………私、確かに今の仕事は辛いけど、仕事を辞めるのも辛い。辞表出すのとかしんどいもん」

「辞表は俺が代わりに出しに行きます」


 呆れた蜜柑が「結局、どうして欲しいの?」と聞くと。


 丈二は「お願いだから円満に、笑ってうちから出て行って下さい」と答えた。


(はは……残念なやつ)


 自分のことしか考えてない偽善者――だと自分で思い込んでいる残念男に、蜜柑は引きつり気味ながらもついに笑った。

 本当に自分のことしか考えてない人間が、こんな風に自分の思いを告白をしたり、代わりに辞表を出しに行くと即答したりは絶対にしない。

 結局、丈二はどうしようもないお人好しで、蜜柑を心配しているだけなのだ…………が、それがいったいどんなトラウマを抱えたらそうなるのか、全ては自分のためだと思っているらしい。

 これほど残念な人間を、蜜柑は今までに見たことがない。


「はぁ。また就活しないと」

「もうすぐネット回線引くので、どうぞ使って下さい」


 蜜柑のただの呟きにまで、丈二は譲歩を提示してくる。


「でもお風呂は池だし、トイレは野外だし」

「池? ……いえ、うちの屋敷のものをお貸しします」

「畑、間に合うかなぁ」

「手伝わせて下さい。あと近隣の畑も使って下さい」


 蜜柑が試しに欲をかいて追加で条件を出してみれば、丈二はホイホイ承諾していった。

 残念、ここに極まれりである。



 勝手に自分との上下関係を逆転させて地に落ちた丈二を、蜜柑が哀しい目で見つめていると――丈二はようやく顔を上げて「あの、いっそうちに住みますか? 部屋は余ってますが」と切り出してきた。


 その魅力的な提案に、蜜柑はしばらく考える素ぶりを見せたあと。


「お断りします。丈二と一つ屋根の下なんて御免です」


 と、満開の笑顔で返答した。

 

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