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第十六話 犬を飼う家


 今から一年半ほど前、アメリカにいた丈二が進路を決めあぐねていた頃のこと。


 自分も家業の和食レストラン経営を手伝うものだと思っていた丈二は、家族に「俺は、食品科学科に行こうかなって思うんだけど……」と進路相談を切り出して、父や兄妹達に思わぬ反応をされることになった。


 父省吾は「一緒に働いてくれるつもりなのかい?」と聞き返し。

 兄彪吾は「なんなら丈二が社長でもいいよ」とからかった。

 妹の凛に至っては、どういう思考回路なのか「芸術家とかもかっこいいよね」である。


 言い回しは三者三様でも、賛成なのか反対なのかわからない点は共通している。


 ちなみに母のあずさだけは「それはいいわね!」と賛成に回っていたのだが、会社経営に関わっていない専業主婦の意見なので、丈二は参考にしなかった。


「うーん、やっぱりもう少し考えてみるよ」


 三人に遠回しに拒否されたような気がした丈二は、一旦保留にしてその場を流した。




「ハロー、ジョージ。何を読んでるの?」

「アビーか。兄さんならまだ帰ってきてないよ」

「リンは?」

「凛も出かけてる」

「じゃあジョージで遊ぶしかないねー」


 後日、家のリビングのソファーの上で大学紹介雑誌を見ていた丈二は、アビゲイルというひとつ年上の女性に絡まれた。

 アビゲイルは丈二の隣に密着するようにして座ると、ブロンド髪の輝く頭を丈二の肩に乗せてくる。

 丈二は内心の動揺を仏頂面の裏に隠し、「俺はおもちゃか」と彼女の頭を押し返した。アビゲイルはそのまま反対側にコテンと倒れる。


 このアビゲイル、丈二の彼女……ではなく兄彪吾の彼女である。

 そして彪吾の彼女である以前に、向かいの家に住むご近所さんだ。犬飼家とは昔から家族ぐるみで親交があり、アビゲイルは彪吾と付き合う前から犬飼家に遊びに来ている。


 丈二にとっても気の知れた相手ではあるが、だからといって兄の彼女とイチャつける丈二ではない。

 そんな堅物の丈二をアビゲイルはこんな風に揶揄からかうようになり、そのうちにこれが二人の挨拶がわりになっていた。


 アビゲイルは上体を起こすと、今度は数センチ距離を置いて丈二の隣に座りなおし、首を伸ばして雑誌を覗きこむ。


「なーんだ、大学案内かぁ……あれ、丈二はレストランは手伝わないの?」

「いや、そのつもりだったんだけどさ――」


 丈二は少し躊躇ったが、義姉になるだろうアビゲイルに隠すこともないかと考える。

 かつては浮名を流した彪吾も、お向かいさん(アビゲイル)と付き合うにあたっては腹を括ったらしく、女遊びはすっぱりやめていた。犬飼家では既にアビゲイルをお嫁さんとして扱っている。

 むしろアビゲイルの方が兄の本音などよく知っているのではないかと思い、丈二は進路相談の時のことを話した。


「それはジョージの被害妄想だよ。パパさんはジョージのこと歓迎すると思うし、ヒューゴも本気で言ってたんだと思うよ? リンちゃんは、よくわからないけど」

「いや、変な慰めは要らないんだけど……」

「慰めじゃないって。ヒューゴはたぶん、ジョージが望むなら本気でジョージを社長に据えようとすると思うよ。 ……あ、そしたら私、社長夫人になりそびれちゃうねー」


 アビゲイルは「なりたかったなー社長夫人」と冗談めかして笑う。


 ――それなら俺と結婚する?

 思い浮かんだ禁句は首を振ってかき消して、「社長は兄さんがいいに決まってるだろ?」と丈二は続けた。


「うん、そこは否定しない」

「しなくていいよ、自分でもわかってるから」

「イジケないイジケない。ヒューゴやリンが凄すぎるだけで、ジョージもちゃんと働き過ぎの日本人してるよ。立派な労働力だから自信持って!」

「なんかそっちの方が傷つくんだけど!?」


 ケラケラと笑うアビゲイルに、丈二は大きく溜息をついた。


「でもさ、迎え入れてくれるなら『うちで働くんなら調理師が足りないから調理師になれ』とか、『彪吾と同じでいいから経済学を学んどけ』とか言ってきてもよくないか? それもなくて『うちで働きたいならそうすれば?』って感じだったんだけど」

「んー、それがジョージの希望?」

「希望っていうか、そうじゃないと不安になるっていうか」

「そっか」


 そこで台所の梓から「アビーちゃん、ちょっとお料理手伝って」と声がかかった。

 アビゲイルは立ち上がって歩き始め――部屋を出る前に立ち止まり、丈二の方を振り返る。


「……ジョージ。ヒューゴと同じ大学入りなよ」


 アビゲイルの声のトーンが低く、そして彼女の顔が妙に真剣に見えて、丈二は思わず背筋を伸ばした。


「え? どうして?」

「未来の社長夫人命令だよ」


 丈二が聞き返したら、アビゲイルは元のヘラヘラとした感じに戻ってウインクし、そのまま台所へ行ってしまった。


 兄彪吾が通うのは、アメリカでも名の知れた私立大学である。

 よく『アメリカの大学は日本より入りやすいが卒業しにくい』と言われるが、その通説の当てはまらない、入るのも難しい最難関の大学だ。


 丈二には到底手が出ないような大学なのだが、アビゲイルの一瞬見せた真剣な顔が忘れられず、彪吾の大学を第一志望に決めた。




 丈二はそこから猛勉強を開始する。


 彪吾や凛とは比べようもない一般人の丈二だが、なにも落ちこぼれというわけではない。アビゲイルの『働き過ぎの日本人』という評価に恥じない頑張りを見せ、母にはこんを詰め過ぎだと心配された。

 勉強すればするほど成績を伸ばし、アメリカの大学入試試験にあたるSATの点数も徐々に上がり、そのかいあって複数の大学に合格した。


 そうは言っても、一年でできることには限界はある。

 SATの点数が一歩及ばず、高校一〜二年の時の成績も足りず。


 結局彪吾の大学には、願書を出すにも至らなかった。




「よく頑張ったね、おめでとうジョージ」


 大学からの合格発表が出された四月初頭、アビゲイルは丈二の部屋を訪れると、そう言って丈二をねぎらった。

 アビゲイルに限らず、第一志望を逃した丈二に家族の反応は暖かい。丈二が合格した滑り止めの大学ですら、一年前の丈二では受かるとは思えない大学だったからだ。


 丈二もこの結果には概ね満足していたが、アビゲイルから祝福されると少し複雑な気分になる。


「ねえアビー、どうして彪吾の大学に行けなんて言ったのさ?」


 アビゲイルのその言葉に触発されて頑張ってきた丈二である。ずっとアビゲイルの真意が聞きたいと思っていたが、受験が終わるまで我慢していたのだ。


「え、あー、あははー」


 丈二の質問に、アビゲイルは困ったように笑う。

 笑って誤魔化そうとしているらしい。

 丈二はそんなアビゲイルをきょとんとして見つめる。


「…………んー、もしもね」


 この時、アビゲイルが何を思ったのかはわからないが。

 最終的に、彼女は丈二から逃げなかった。



「もしも、万が一にでも受かったらさ、ジョージはヒューゴと並び立つでしょ。そしたらジョージの望み通り、皆と対等な関係になれるのかなって思ってさ」

「……え?」



 それだけ言うと、アビゲイルは丈二の部屋を出て行った。



 その瞬間は、アビゲイルの言葉の意味が理解できなかった。

 ただ、何か凄く大切な、無視してはいけないことだとは直感していて。

 悩んで悩んで、何日もかけて悩み抜いて。



「あ、わかった。ペットの犬だ」



 ついうっかりと正解を出してしまった。




 犬飼丈二は裕福な家庭の、平凡な次男坊である。


 父省吾(しょうご)は異国の地で和食レストランをチェーン展開するに至った俊才で。

 兄の彪吾ひゅうごは秀才、妹のりんは天才と評されている。


 そんな才人揃いの犬飼家の中で、丈二は本当に人並みな、どこにでもいるような凡人だった。


 強者の中に弱者一人。そんな環境は例え家族であってもイジメや疎外を生みやすく、弱者を卑屈な不良へと変えてしまうことが多い。

 ――が、犬飼家はそうはならなかった。

 丈二は父や兄には過剰に可愛がられ、妹には強く慕われた。


 彼らにとって、丈二は何をしても慈しんで愛でるべき、ペットにも似た存在だったからである。




 自分は別方向で特別扱いされている。

 そのことに気づかされた時、丈二はまだ受かったどこの大学にも入学手続きをしていなかった。


 

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