第十五話 原因と結果
夕方、丈二が窓際を歩いていると、帰宅する蜜柑の姿が見えた。
それを見て、丈二はホッと息を吐く。
椿と杜松子が調理を終え、ダンボールハウスに戻ったのがつい先ほど。料理はまだ温かいだろう。
電車の本数が少ないので、帰りはこの時間になるはずだとは聞いていたが、それでも少し心配していた。
「蜜柑さん、お勤めご苦労様です」
「杜松子、それだとムショ帰りの組長みたいじゃない。……おかえり蜜柑、ささ、入って入って」
「え? え?」
気になって中庭の方を覗いてみれば、待ち構えていた椿と杜松子が、蜜柑をダンボールハウスへと引き込んでいく様子が見える。
彼女達の姿が見えなくなった後、丈二は中庭の雨戸を閉めた。
無論、丈二は蜜柑の慰労会には参加しない。
それよりも、ついさっきまで二人に台所を貸していたので、これから自分の夕食の準備をしなければならない。
台所に向かい、まずは冷蔵庫を開けて。
「……使いきれるかな、これ」
冷蔵庫から漂ってくる香ばしい匂いに、なんとも言えない顔で頬を掻いた。
* * * * *
本が売れないと言われる時代に、レシピ集ほど進化した本もないだろう。インターネットの普及によって、料理レシピはネットで調べるのが主流になったからだ。
そのため最近のレシピ集は、かつての幅広いレシピをカバーした実用書的なものではなく、独特のコンセプトや美麗な写真が追求された芸術作品ようになり…………といった話はわきに置いといて。
椿と杜松子が用意したのはシンプルな料理、ステーキだった。
ここではクッキンパッドは使えないし、レシピ集なども所持していない。そして椿も杜松子も料理経験はほとんどなく、難しい料理は作れない。
そこで、とりあえず焼けば何とかなるだろうという理由から、二人はステーキにしようと考えたらしい。
丈二は彼女達に、スーパーの特売肉を買ってきてほしいと頼まれていたが――丈二は二人に安い肉を上手く焼く技術はないだろうと見越して、精肉店の少しだけ良い肉を買ってきてやった。
それから二人は屋敷の台所を借りて、蜜柑慰労会の準備を始めたのだが……ステーキ用のオニオンソースは、実は丈二が作ったものだったりする。
椿も杜松子も作り方を知らず、丈二もステーキソースの存在を忘れていた。二人がもう塩コショウでいいか、と話していたのを耳にして、丈二が作ってみると名乗りを上げたのだ。
何しろ実家が日本料理屋なので、子供の頃から厨房に立っていた丈二の料理能力はプロ並み…………なんてことは一切ないが(子供が厨房に立つわけがない。そんな特技の一つでもあったなら、丈二はもう少しマシな人生を送っていただろう)、それでもコンビニも飲食店もないこの土地で、自炊していける程度には料理ができる。
ステーキソースは専門外だったが、取りあえず玉葱をすりおろして炒めて、調味料で味を整えれば何とかなるだろう。そんな風に考えて、なんども味見しながら強引に作り――
――結果それっぽいソースは作れたものの、調味料を足していくうちに凄い量になってしまったオニオンソースが、冷蔵庫の中央に鎮座することになった。
冷蔵庫を開ける度に拝むことになるそれは、どこか仏壇のお釈迦様を彷彿とさせた。
* * * * *
その翌日。
昨日よりも早い時間に、再び丈二の家のインターホンが鳴らされた。
それも今回は、一度ではなく連打である。
丈二が一体何事かと飛び出せば、玄関前に居たのは椿ひとり。
「お前、こんな朝に――」
「ごめん、蜜柑は!? ここに来てない!?」
「い、いや、来てないけど…………って、居なくなったのか!?」
こんなに狼狽した椿を見るのは、初対面の時以来だろうか?
寝癖もそのままに詰め寄る彼女に、丈二はたじろいで一歩後ずさる。
「朝起きたら居なくってて、畑とか蜜柑箱とか、居そうな場所には見当たらなくて!」
「し、仕事に行ったんじゃないのか? いつもこのくらいの時間に出て行くだろ?」
「財布も定期券もプリペイド携帯も、置きっぱなしで残ってるのよ!」
「喧嘩は?」
「してない!」
裏庭の方から、杜松子が蜜柑の名前を叫ぶ声が聞こえる。一人で畑の周りを探しているらしい。
出勤でもなく、喧嘩して家出というわけでもないならば、蜜柑はいったいどこへ消えたのか?
――急病で茂みの陰に倒れているのかもしれないし、事故や事件に巻き込まれた可能性だって否定できない。
「……わ、わかった! 俺も探すのを手伝う」
この緊急事態に、無視して屋敷の中でくつろいでいられる丈二ではない。
慌てた様子の椿に、護身用にと藪漕ぎ用の鉈を渡し、杜松子と一緒にもう一度周辺をよく探すようにと言い聞かせた。
そして丈二は素早く身支度を整えると、竹箒を手に敷地を出て、公道沿いに走り出す。
この辺りには丈二の屋敷を除くと、廃墟化した民家くらいしかない。携帯電話の電波も届かない。
端的に言って、人さらいにはもってこいの場所である。
特に、最近働き始めた蜜柑なら、人目につく機会もあっただろう。最悪の事態を想定しないわけにもいかず、竹箒を握りしめる。
丈二は走りながら、蜜柑が廃墟化した民家の中に連れ込まれている可能性も考えた。
念のため近くの廃墟の中も、軽く覗きながら公道を走り――
「――っ!?」
――そして何番目かに覗き込んだ空き家の、外に設置された物置きの中。
少し隙間の開いたその中に、人間の素足らしきものが見えた。
丈二の背筋を、冷たいものが通り抜ける。
ただの人形やマネキンの足か、それとも人間の足なのか。
人間の足だったとして――生きているのか、それとも死んでいるのか。
丈二はその家の庭に侵入し、物置きに向かってゆっくりと近づき……
と、次の瞬間。
足音に反応したのか、足が押入れの奥に引っ込んだのを目撃した。
やはり、作り物ではなく人間の、それも生きた人間の足らしい。
「…………」
丈二は周辺をよく確認し――そして急激に脱力した。
物置きは狭く、中に二人以上入っているようには見えない。周囲を見渡しても不審者の姿などもない。
そして何より……物置きの手前に、蜜柑が普段履いているスニーカーが綺麗に揃えられている。
誘拐でも監禁でもあるまい。
丈二は物置きに到着すると、力任せに開け放つ。
「ひぅ、ごめんなさい!」
「……いや、何してるの?」
案の定、物置きの中の蜜柑には怪我した様子もなければ、紐で縛られているわけでもなく。
「い、犬飼さん? ……お、おはようございます」
いつものTシャツにステテコ姿で膝を抱えていた蜜柑は、まるで悪戯して物置きに閉じ込められた子供のようで。
丈二はシリアスな展開があっさりと終了し、深く大きなため息を吐いた。
「いや『おはようございます』じゃないって。蜜柑が急に居なくなったって言って、あいつら心配して探し回ってるぞ」
「うぅっ……」
「というか、この廃墟は危なくないか? ボロボロだし、そこの壁なんか今にも崩れそうだけど」
「――もん」
「え、何か言ったか?」
「いえ、何でもないです」
椿と杜松子の二人は今も、蜜柑を心配して探し回っているはずだ。
丈二は蜜柑を確実に連れ帰るべく、物置きの前で蜜柑が出てくるのを待つのだが……しかし彼女は、中々物置きから動こうとはしない。
だんだん待つのが面倒になってきた丈二だったが、しかし蜜柑を強引に引っ張り出すのも気が引けて、もう少し言葉を重ねることにした。
「それで、こんなところで何してたんだ?」
「その……ちょっと考え事を」
「仕事は?」
「…………」
「サボったのか?」
「…………」
蜜柑は無言のまま小さく頷くと、その目を徐々に潤ませる。
丈二の人生で、初めて女の子を泣かせた瞬間だった。
無論、女の子を泣かせた時の対処方法などわからない。
「あー、確か建設業だったって? そりゃ、蜜柑には辛そうな職場だよな」
「…………」
「えっと、具体的にはどんなことするんだ?」
「……………………電話」
蜜柑は暫く押し黙った後、ポツリと呟く。
なるほど、電話当番か。それなら非力な蜜柑にもできそうだ。
――いや待て、本当にそうだろうか?
ただ普通に電話をするだけの仕事にしては、ここ最近の蜜柑は誰の目にも疲れて見えた。
今日に至っては、会社をサボっているのだぞ?
「えっと、電話ってもしかして……クレーム対応とかの辛いやつなのか?」
「――っ!」
蜜柑は一瞬肩を震わせた。丈二は図星かと思ったが、しかし彼女は小さく首を振る。
「じゃあ、どんな仕事なんだ?」
「…………電話を、かけるの」
「かけるって、誰に?」
蜜柑は喋りたくないのか、再び押し黙るが――今度は丈二も黙って蜜柑を見つめ続ける。
ここで誤魔化してはいけない、そんな気がした。
この我慢比べに負けたのは蜜柑の方で、「誰にでも」と呟いて、そしてついに喋り始めた。
「大きな家とか、会社とか、病院とか薬局とか、あっちこっちにマンション買いませんかって電話をかけて…………反応が良かったら、すぐに偉い人と電話を代わることになってるけど……でも、だいたい嫌がられて。そんな人、全然居なくて…………」
話しながら、蜜柑はついに、ポロポロと涙を流し始めた。
ワンルームマンションの電話勧誘。
誰にでも見境なく電話してくるという点で、この国で最も迷惑な、憎まれている仕事かもしれない。
詐欺紛いなものが多く、素人がホイホイ買ってしまうと、あとで騙されたと泣くことになる。
買わない人も度重なる電話攻撃に、貴重な時間と心の平穏を奪われる。
本当に、誰からも感謝されない仕事の代表格。
しかしそれが、丈二に『性風俗禁止、一ヶ月以内に独立しろ』という無茶な条件を突き付けられた蜜柑にも、なんとか見つけることのできた仕事だった。
この一太刀はこれまでで一番深く――そして古傷を丁寧に抉りながら――丈二の体を切り裂いた。




