第十三話 灰色の世界
この世界には完璧な白も、本当の黒も存在しない。
それは光波の性質と動物の目の構造から出される結論である。強弱の度合いに違いはあれど、すべてのものは白と黒が混ざりあった灰色をしていることになる。
何もかもが灰色ならば、人間が灰色なのも当然だろう。どんな聖人だって間違いは犯すし、どんな悪人だって役に立つことがある。
「世の中そんなもんだ」とある程度の灰色は受け入れること、それが人生を楽にするコツであると丈二は思う。
――思いつつも悩んでしまうのが丈二なのだが。
* * * * *
「そういえば、あの山も犬飼さんちの土地なんですか?」
その日、裏庭の木々の状態を確認していた丈二は、畑から戻って来た杜松子に問いかけられた。
このあたりは丘陵地帯のため、山なのか丘なのかわからないような小山が沢山ある。彼女が指差しているのは畑の先にある、丈二の家族は裏山と呼んでいる小山だ。とりあえず犬飼家の土地である。
「うん、あの辺りはうちの土地だけど」
「じゃあ、ちょっと中に入ってみてもいいですか?」
杜松子は入山許可を求めてくる。
その言葉は裏山より中庭を占領する時にこそ聞きたかったと思ったが、過ぎた話は犬の餌。
「なんでまた裏山に入りたいんだ? ただの散歩じゃあないよな?」
「えっと、山の幸とかあるかなって思いまして」
「…………そんなに苦しいのか?」
「いえいえ! そんなことはないんですけど、この前の台風でお野菜がかなり駄目になっちゃいましたから。今後に向けて少しでもお金を貯めたいなってことで、山菜でも取れないかなって椿さんと話してて……」
丈二は裏庭の畑に目を向ける。確かに遠目に見てもトマトなどは苗についている実の数が減っていて、その分地面に落ちたものが目についた。
全ての実が落ちているわけではないが、元々裏庭の畑の面積はそんなに広くはない。家庭菜園にしては広い、と言ったレベルである。三人娘が毎日食べ続ければ、出て行く日までは保たないだろう。
ちなみにこの近辺にある荒れた畑もいくつかは犬飼家の土地である。自給自足を目指すならそっちを耕すべきだったのだが、そんなこと彼女達にわかるまい。
それはさておき。
杜松子が求めているのは入山許可というより、山菜を採ってもいいかという許可だ。
彼女の目はいつになく真剣に見える。おそらくは蜜柑が働きだしたことで、自分も何かしなければという気持ちになったのだろう。未成年でお金を稼げないならその分出費を抑えようという、その発想はわからなくもない。
「んー……」
「やっぱり山菜は駄目でしょうか?」
「ああいや、山菜が惜しくて考えてるわけじゃないんだ。ただ、危なくないかなって思ってさ」
山菜は来年生えてこなくなるほどに取り尽くさなければそれでいい。問題は山の安全性だ。
丈二も裏山が気になってはいたものの、ずっと手入れのされていない山に単独で入るのは無謀かと思い、まだ踏み込んでいないのだ。
一応、房総に熊がいないことだけは調べがついている。前にダンボールハウスが熊に襲われたらと心配になって、街のネットカフェで調べたのだ。
しかし山の危険は熊だけではない。熊はいなくても猪はいるし、スズメバチの巣があるかもしれない。それがなくても整備されてない山の斜面は危険である。単身で山に入り、怪我でもしては助けも呼べない。
そんな考えから丈二は入山を見送っていたのに、彼女達に許可を出しても良いものか。
――と、しばらく悩んで気づく。
「条件付きで、日の高い間だけってことなら」
「条件ってなんですか?」
「……俺も一緒に行ってもいいか?」
一人で山に入るのは怖かったが、三人娘と一緒であれば誰かが怪我をしても助けが呼べる。
よくよく考えてみれば、自分の山に入ることのできないジレンマを抱えていた丈二にとって、杜松子の頼みは渡りに船だ。
杜松子からは「ありがとうございます!」という返事が来た。話の流れ的に、丈二が杜松子を心配して保護者としてついて行くように聞こえたからだろう。
実際には自分の身の安全ばかりを気にしていた丈二は、杜松子に空笑いを返した。
* * * * *
その日の昼過ぎ、丈二達は早速裏山へと向かうことにした。
裏山に入るメンバーは丈二と杜松子と椿の三人で、蜜柑は今日も仕事に行っているのでいない。杜松子と椿は山菜を入れるためのビニール袋を手に持っていて、丈二は藪漕ぎ用に屋敷にあった鉈を手にしている。
杜松子を先頭に、椿、丈二の順に続く。今のところ藪は避けて歩いているので、丈二が前に出て鉈を振るう必要はない。
「それにしても、お前らが山菜に詳しいとは驚きだな」
「私はよくわからないけどね。杜松子が昔、何度か山菜採りをやったことがあるみたいで」
「え? お嬢様なんじゃなかったっけ?」
「お嬢様だからこそでしょ。貧乏人は山菜採りなんて道楽できないわよ」
それもそうか、と丈二は頷く。
勝手に山に入って山菜を採るのは泥棒だ。山菜採りをしたければ自分で山を買うか、でなければ山の持ち主の許可が要る。
無料で山菜を採らせてくれる場所もあるのかもしれないが……だいたいは山の所有者の経営するペンションに泊まったり、山菜ツアーに参加したりすることになる。山菜採りを娯楽ではなく、本当に家計の足しにしている人は少ないはずだ。
杜松子も旅行先で山菜採りツアーにでも参加したか、もしくは丈二の様に実家が山でも所有しているのか……
「うーんと……」
と、先頭を歩く杜松子が立ち止まって首を捻る。
「どうしたの杜松子? 何か見つけた?」
「いえ、その逆で……何も見つけられません」
がっくりと肩を落とす杜松子に、椿が「それは残念ね」とため息を吐いた。
しかし丈二は不思議に思う。夏に祖母の家に遊びに来たときは、何かしら山菜の様なものを出して貰った覚えがある。植物は辺りに大量に生えているのだが、どれも食べられないのだろうか?
丈二は裏山の状態を確認するためについて来たので、ここまで蛇や猪のような危険がないかを注視してきた。植物のことはよく見ていない。
特に山菜に詳しいわけでもないのだが、それでも子供の頃の記憶を引っ張り出して、本当に何もないのだろうかと周囲を探し……
「なあ、そこに生えてるのフキだと思うんだけど」
「え、フキ?」
山菜の代表格が杜松子のすぐ横に生えているのを発見した。
「フキって、フキノトウのフキですか?」
「そうだけど」
「うん、言われてみればフキね」
「……これって食べられるんですか?」
「は?」
丈二だけでなく、椿もポカンと口を開ける。
フキは水煮パックや製菓用の砂糖漬けならスーパーに売っていることもある。山菜を探そうという人間が、何故フキを知らないのか……
「杜松子、あんた山菜採りしたことあるのよね?」
「はい、何度かありますよ」
「フキは採らなかったの?」
「フキノトウなら採ってましたよ」
「フキノトウって……あー」
椿は何かを察し、こめかみを押さえた。
丈二も嫌な予感がしながらも、一応杜松子に聞いてみる。
「なあ杜松子、知ってる山菜の名前を挙げてみてくれるか?」
「えっと、フキノトウの他にはワラビ、ゼンマイ……」
「うん、いま真夏だから。ワラビもゼンマイもタケノコもとっくに季節が終わってるから」
「……え?」
山菜採りを家計の足しにしている人は別として、レジャーの一環で山菜採りを楽しむような場合、山に行くのは春に決まっている。春が山菜のピークだからだ。
なので杜松子には春の山菜しかわからないのだろう。杜松子は驚いているが、春の山菜が夏に見つからないのは当たり前である。
「椿は夏の山菜ってわかるか?」
「えっと、アケビかしら?」
「それ秋じゃないか?」
もう数ヶ月あとならば、逆に秋の実りを期待できたのかもしれないが……とにかく時期が悪かったらしい。
丈二も椿も脱力して「帰りましょうか」「そうだな」と引き返し始めた。
「待ってくださいっ! ここまで来たのに帰るなんて……あ、じゃあせめてキノコ採って帰りましょうよキノコ」
「キノコって、杜松子詳しいの?」
「何回かやったことはあります!」
「……いつごろ? 誰と?」
「秋に、きのこガイドさんと一緒に」
春には山菜採り、秋にはキノコ狩り、杜松子は中々アウトドア好きな家庭に育ったらしい。
ただしまったく信用はできない。
丈二は椿と顔を見合わせると、小さく頷きあった。とりあえず鉈を振るってフキを採り、そのフキを椿が受け取り、二人はそのまま無言で下山を始める。
焦った杜松子は周囲に何かないかと必死に探し――
「あ、ほら! この松の木から生えてるきのこ、食べられるやつですよ」
『松の木』という単語から松茸を想像し、丈二と椿はバッと振り返った。
そこにあったのは松茸にしてはやや黄色っぽいキノコだった。朽ちたアカマツから生えてはいるが、松茸特有の匂いはしない。丈二と椿は肩を落とす。
ただ、いかにも毒キノコという見た目ではなく、一見すると食べられそうにも見える。
「本当に食べられるの? なんて名前?」
「名前は忘れましたけれど、本当に食べられる奴ですよ。私、このキノコを自分で採ったことがあるから覚えてたんです」
「でも、名前はわからないんでしょ?」
「そうですけど……でも確かにこれだったんです。私が採ったあと、キノコガイドさんが『塩蔵』っていう加工をして家に持って帰ったんですよ。はっきり覚えてるんですって」
杜松子の必死さに気圧されて、椿は受け取ったキノコを見つめて帰ろうかと悩み始める。彼女達の台所事情を考えれば、本当に食べられるのならば持って帰りたいのだろう。
しかし丈二よ、これは止めるべきではないか?
きのこなんて素人判断で食べるべきものではない。中毒をおこし、万が一彼女達が中庭で死んだらどうするつもりだ?
こうして一緒に山菜採りに来ているのだ、言い訳なんてできないぞ?
「却下だ、名前もわからないなら捨てなさい」
「本当に大丈夫ですってば!」
「……本気でそれを食べるなら、その前に中庭から出て行ってくれないか? うちの敷地で死なれると困るからな」
見かねた丈二の脅し文句に椿はハッと目を覚まし、キノコを藪の中に投げ入れた。
その後下山する途中、丈二と椿の背中に杜松子の恨みがましい視線がずっと突き刺さっていた。
* * * * *
後日、丈二は街へ出た時に本屋できのこ図鑑と山菜図鑑を買ってきた。
まずは山菜図鑑を開いて夏の山菜に目を通し――実は視界に入っていた色々な草木のなかに、食べられるものが沢山あったことを知る。むしろ山まで行かなくても、畑の周りや庭に生えている野草に食べられるものが多い。
逆にフキは八月になると硬くなって苦みも強くなり、あまり食用には向かないらしい。一応食べられないことはないみたいだが、苦い思いをしたであろう椿達に、丈二は謝るべきか否か。
そして本題、きのこ図鑑を読んでみる。下山中ずっと杜松子にふくれっ面で睨まれ続けたこともあり、本当に食用だったのか気になっていたのだ。
そのきのこ図鑑は食べられるキノコは緑、毒キノコは赤、よくわからないものは灰色で縁が色分けされている。人間には美味しいけれど虫には猛毒なキノコ、お酒を一緒に飲むと中毒をおこすキノコなど、面白いキノコを眺めながらページをめくっていき――そしてついに発見した。
『サマツモドキ。夏から秋に採れるきのこで、大量に食べるとお腹を壊すことがある。下痢を引きおこす弱毒を含むと思われるが詳細は不明。吹きこぼせば問題ない、しばらく塩蔵すればより安全という話もあり、本によって食用だったり毒だったりする』
「…………」
灰色だった。
丈二が求めていたのは「やっぱりあれは毒キノコでした」というオチだった。それならば丈二が正しかったと、杜松子に胸を張ることができる。
そうでなければいっそ美味しい食用キノコであってほしかった。それならそれで杜松子に「ごめん」と謝って、お詫びという名目でスーパーで買ってきた野菜や椎茸などを差し入れてやることもできた。
さてこの場合、丈二は一体どうしたらいいのか?
何もかもが灰色の――キノコや山菜までもが灰色のこの世界は、今日も丈二を悩ませるのだった。
【きのここぼれ話】
松茸は相利共生といって、アカマツと養分をやり取りしあうwin-winの関係を築きます。生きた木にしか生えず、朽ち木には生えません。
そのため人工栽培が難しく、値段が高くなるのだとか。




