第十二話 女々しくて
台風が過ぎ去って五日が経ち、段々とセミの鳴き声に占めるひぐらしの割合が増えてきた頃。
丈二は廊下の小窓から中庭に三人娘がいないことを確認すると、大窓の雨戸を素早く開けた。
中庭にはあいも変わらずダンボールハウスが建っている。台風でも潰れない頑丈さには驚かされるが、流石に無傷だったわけではない。台風の爪痕としてビニールシートの屋根に巨大な旗が突き刺さり、掲げられた日の丸は風に吹かれてパタパタと音をたてている。
……なぜこの状態で潰れていないのか不思議なものの、丈二はあまり凝視はせずにすぐに自分の部屋へと戻る。
不思議と言えば彼女達が旗を引き抜かないのも不思議だったが、この五日間は三人娘との接触がなかった丈二に、その理由はわからない。
――否、そうではない。
丈二が三人娘との接触を避けるため、ほとんど屋敷に引きこもっているのだ。
どうしてそんな事になっているのかと言えば……丈二が台風の夜の不幸な事故を、いまだに引きずっているからである。
杜松子の胸に接触してしまった事や蜜柑を外に追い出してしまった事、うっかり盗み聞きしてしまったガールズトークの内容などがいまだに後ろめたく、彼女達とはすっかり距離を取ってしまっていた。
「だあぁ、何がラッキースケベだよ、こいつ絶対サイコパスだろ」
丈二の無意味な逆恨みが、暇つぶしに読んでいたハーレム漫画の主人公へと炸裂する。
彼は時に女の子の胸を揉み、時に女の子の着替えを覗き、あまつさえ一緒に風呂に入ることだってある。そこから女の子に水をかけられたり殴られたりして、「〇〇さんのエッチ!」で場面が終わる。
女の子はしばらく怒っているものの、たいていの場合は次の話に場面が移るとその時の恨みを忘れている。
この展開、女の子側の事情は男の丈二にはわからないが、それより覗いてしまった男の態度が気にいらない。
仮に女の子側が「まあ許してやるか」となったとして、相手に許されるなり罪悪感を捨ててしまう主人公はなんなのだ。彼は何故、その瞬間に忘れることができるのか。女性の胸を触る、裸を見るといった大罪を犯しておいて、「いや~大変だったよ」で済ませてしまうこいつにはまったく反省の色がない。彼の行いはそこから三日三晩は思い悩み、教会の懺悔室に足を運ぶくらいで真っ当なはずだ。
――そう、この漫画の主人公がおかしいのであって、丈二が女々しい訳ではない。断じて。
考えれば考えるほど苛立たしくなり、丈二は冷たいジュースでも飲んで気分を変えることにした。漫画を投げ捨て、台所に行って冷蔵庫を開けると、すっからかんの冷蔵庫がお腹が空いたと訴えてくる。
五日も引きこもっていたのだから、いくら大型の冷蔵庫でも食糧は残り少なくて当然だ。最近は三人娘から野菜を貰ってないこともある。丈二は冷蔵庫の中を見て息を吐き、流石に買い出しに出かけることを決意する。
靴を履いて玄関を開けると、スーツ姿の蜜柑が玄関から出て行く所だった。
引き返そうかと迷ったが、結論を出すより早く振り向いた蜜柑に気づかれる。キャリーバッグを引いた明らかな外出スタイルを見られたのだ、覚悟を決めて合流するしかない。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
丈二は久しぶりの会話に声が上ずり、さらに蜜柑に釣られて敬語になる。
ぎこちなく笑ってみせた丈二に、蜜柑は不思議そうに首を傾げる。よくよく考えてみたら、丈二は蜜柑に笑いかけたことなど一度もなかった。彼女の瞳にこの丈二はどう映っているのだろうか。
「お出かけですか?」
「うん、ちょっと買い出しにな」
「そうですか」
二人は決まり文句のような会話を交わし、揃って駅の方へと向かう。
数分歩いても全く会話のない状況に、丈二はいたたまれなくなって必死に話題を探す。
そして真っ先に思いついたのはダンボールハウスの旗のことだ。あまり台風の日のことを混ぜっ返したくはないが、それを差し引いてもあれは気になる。
さて、何と声をかけたものか。
「あのさ……」
「あの……」
丈二と蜜柑の声が重なり、二人は同時に歩を止めた。
気まずさがさらに増した……と思ったが、よく見ると蜜柑も所在ないような顔をしている。会話がなくて困っていたのは丈二だけではないらしい。
それに気づくと丈二は少し気持ちが軽くなった。
だがなぁ丈二よ、ここから「先にどうぞ」「いえいえそちらからどうぞ」の決まり文句を言い合って、お互いに笑い合う流れはやめておけ。その格式ばったやり取りは、うぶなカップルの初デートの時の様式美だ。お前と蜜柑は被害者と加害者、あるいは竹箒とお玉で殴り合う関係であってカップルではない。
そうなる予定もないだろう?
「あのさ、ずっと気になってたんだけど、ダンボールハウスの旗って抜かないのか?」
「あ、あれは我が家の大黒柱になりました」
「大黒柱?」
「はい、大黒柱になりました」
そうか大黒柱か。なるほど、わけが分からない。
「ごめん、大黒柱って何?」
「え? えっと、大黒柱っていうのは、家を支えてくれる大事なはしらのことです」
……これなら「どうぞ」「どうぞ」をした方がマシだったのではなかろうか。
「……うん、それは知ってる。そうじゃなくて、どうして台風の時に飛んできた旗が大黒柱になるんだ?」
「それは、こう、ガムテープで床と天井としっかり固定して。そこに他の柱と紐を張って、大きなタオルをかけて目隠しにしたんです」
蜜柑は身振り手振りを交えて説明してくれるが、ダンボールハウスの中に踏み込んだことのない丈二にはイメージができない。
要は「せっかくなので柱として便利に使っている」ということらしい。てっきり「抜こうとしたけど抜けなかった」とか、「無理矢理抜くとダンボールハウスが潰れてしまう」といった回答が来るものと思っていたが、まさか旗を受け入れて骨組みの一部にしていたとは思わなかった。
その逞しさと適応力には感服するが、丈二には一つ心配な点が浮かぶ。
「えっと、ダンボールハウスに固定したって事はわかったけど……台風や突風が吹いたら旗が煽られて、ダンボールハウスがぐちゃぐちゃにならかないか?」
「――っ!?」
「気づいてなかったのか」
丈二は狼狽える蜜柑に苦笑しつつ、「そんな顔しなくても、日の丸を降ろしておけばいいだろ」と助言する。
丈二はあの旗が飛んできた原因を、プラスチック製の弱い支柱なのに重量オーバーの巨大な日の丸を掲げ、その上台風だというのに降ろし忘れ、その結果支柱が折れて飛んできたのだと推測している。支柱を利用したいならすればいいが、日の丸はおろしておかないと絶対に危ない。
「でも日の丸を降ろすと旗じゃなくなっちゃいますね」
「替わりに何か掲げるか?」
「ダンボールとか」
「日の丸より重くしてどうする」
「洗濯物とか」
「干してるだけだろ」
「……パ、パン、パンツ、とか」
「なんでそんなに必死になってまで下ネタを言った!?」
下ネタが苦手なのか「すいません」と謝る蜜柑は耳まで真っ赤になっている。
見ている丈二の方まで恥ずかしくなった。
「すいません。 ――でも、その、嬉しかったので」
「嬉しかったって、何が?」
「いえ、台風以降全然犬飼さんに会わなかったので。もしかして台風の時に迷惑かけたから、私達避けられてるのかなって話してたので……」
丈二は思わず息を呑む。
そして冷静を装い「たまたまだろ」と蜜柑に返した。
確かに丈二は三人娘のことを避けていたが、それは三人娘を迷惑に思ったからではなく、丈二の方が色々と後ろめたくなったからだ。それがかえって蜜柑達を不安にさせていたらしい。
きっと台風の翌日に「今日は顔を合わせたくないな」と思い、それを実行してしまったのがいけなかったのだろう。一日のつもりが二日になり三日になり、顔を合わせるのがどんどん怖くなっていたのだ。
こうして否応なしに話し始めれば、丈二の一方的な蟠りなど泡のように消える程度のものだったのに。
そういえば……と、丈二は読んでいたハーレム漫画を思いだす。
主人公のことを罪悪感を簡単に捨ててしまうサイコパスだと思ったが、考えてみればセクハラされた女の子側が許して忘れてくれているのに、男の方がいつまでも根に持っているのも困りものだ。彼は女の子に許された段階で――相手に迷惑をかけないために――否が応でも自分の罪悪感を捨てなければならなかったのだ。
…………本当にそうか?
あいつはやっぱり欲望に忠実なサイコパスじゃないか?
まあ、どうでもいいことだ。
今日中に椿と杜松子にも挨拶ぐらいはしておこう。
丈二は蜜柑との会話を続けながら、そんな小さな目標を立てた。
そうしてたわいもない話をしているうちに駅に着き、タイミングよくやってきた電車に乗りこむ。
「そういえば、蜜柑は今日も面接か?」
「いえ、今日から仕事です。就職決まったんですよ」
「え、マジか!?」
「はい。今日からの分のお給料が月末に振り込まれるそうなので、手元に残ってるお金と合わせればこの辺のアパートくらいなら借りられると思います」
「そっか。さ……」
――寂しくなるな。
丈二は口をついて出そうになったその一言を、ハッとして飲み込む。
「……おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
冷静を装ってぎこちなく笑う丈二に、蜜柑は珍しく笑顔で返した。




