第十一話 躓いた夜は
雨に濡れた蜜柑には再度風呂に入ってもらい。
三人娘にスープを施し。
今日泊まる部屋へと案内をして。
「じゃあ、俺はあっちの部屋で寝てるから」
そう言うと丈二は彼女達に貸した部屋の戸を閉めて。
――逃げだした。
逃げたと言っても自分の寝室に戻るだけのことで、何かおかしな行動をしたわけではない。
それでも丈二の心情を表す言葉としては「逃げだした」がもっとも適当なのだ。
三人娘を放っておいて自分の部屋に引きこもりたい、いっそ台風の中に飛び出してしまいたい……そんな衝動を抑えながらも、丈二は三人娘の相手を最後までやり遂げた。そして戸を閉めてなお安心できず、助けを求めるように足早に自室へと向かう彼を、逃げたと言わずに何と言うのか。
丈二は自室に辿りつくと戸をピシャリと閉め、敷いてあった自分の布団に倒れ込み。
「…………キツい」
と一言呟いた。
丈二がこんなにも消耗しているのは、言わずもがな先ほどの事件のせいである。
うっかり杜松子の胸を叩いてしまい。
気付かずに蜜柑を台風の外に追い出してしまった。
二人ともほとんど怒ることもなく、丈二のことを笑って許してはくれたのだが、それで丈二の罪悪感が消えたわけはない。
犯してしまった大失敗が、丈二の体を切り刻む。
三人娘が屋敷内にいなければ、台風の轟音に乗じて大声で叫んでいただろう。
丈二の手にはまだ、叩いてしまった杜松子の胸の感触が残っている。
丈二の目にはまだ、ずぶ濡れになり服の下の肌の色が透けて見える蜜柑が焼き付いている。
それらは決して幸運ではなく、今日の大失敗の証として丈二をグサグサと刺し続けている。
「今頃、何か愚痴を言ってるんだろうな……」
杜松子も蜜柑も丈二の前では怒らなかっただけだ。単に彼女達の立場では、家主の丈二に物を言えなかっただけだ。今頃は向こうの部屋で「本当に気持ち悪かった」とか「マジむかつく」とか話しているのに違いない。
待て待て丈二よ、彼女達だってそこまでは言わないだろう。そんなのはただの被害妄想だ。
――いや、それが真実なのかもしれないのだが。それでもここは、被害妄想だということにしておこう。
さもないと……
* * * * *
丈二の父省吾は、アメリカで和食レストランを経営している。
若くして渡米した省吾はその後訪れた日本食ブームに乗っかって、次々と系列店をオープンさせた。業界最大手の大富豪……とは流石にいかないにしても、三つの州にまたがって店を持つ一角の経営者である。
そんな彼には三人の子供がいる。
丈二とそのふたつ上の兄の彪吾、それにひとつ下の妹の凛だ。
長男の彪吾はMBAを修得すべく、アメリカの有名私立大学に通っている。
人当たりの良い彼の周りには、多くの人間が集まってくる。丈二が家の外で彪吾を見かける時、兄はいつも友達という名の取り巻きと、親友という名の人脈に囲まれていた。
誰にでも等しく優しいように見えて、友達と親友とでは付き合い方に明確な違いがあるのだが、そのことに気付いているのは丈二と凛の二人だけだ。
丈二については自分で気づいたわけではなく、凜に教えて貰って初めて気づいたのだが。
「友達にしろ親友にしろ、一緒に遊んでて楽しいことには変わりはないよ。……でだ、同じくらい楽しいんだったら、自分にとってよりためになる相手と長く一緒に居る方がいいだろう?」
凛が彪吾を問い詰めると、そんな返事が返ってきた。
末娘の凛は飛び級をして、去年から大学生として州立大学に通っている。
アメリカには飛び級制度があるが、それは単に難しいテストに合格すれば飛び級、というわけではない。凛の場合は授業を端折るために様々な学術的資格を取ったり、高校生のうちから大学の授業を受けたりといった活動をして、数年前から計画的に行動していた。
しかし彼女が大学の願書を持ってくるまでは、凛が飛び級を狙っていたことに家族の誰も気づかなかった。
「心配しなくても、丈兄に先輩風吹かせたりはしないって。
あたしはただ、社会に出てやりたいことがいーっぱいあるだけなの! そうするとほら、この国の義務教育ってちょっと長すぎるじゃない?」
追い抜かされた丈二が固まっていると、そんな言い訳を言っていた。
省吾は彪吾には厳しくすることもあるが、丈二に対しては甘い。
彪吾と凜はそりが合わないのか時折対立しているが、丈二に対してはどちらも優しい。
「私は丈二に会社を押し付けるつもりなんてないさ。丈二がやりたいことをやればいい。もちろん、一緒に働いてくれるなら嬉しいし歓迎するよ?」
「丈二は将来どうしたいんだい? あ、何なら丈二がうちの会社の社長でもいいよ? その代わり僕を企画部長みたいな役職にしてよ。うんうん、その方が僕も色々と動きやすそうだ」
「そういえば丈兄は何かやりたいことってないの? うちの会社は彪兄が何とかするだろうし、あたし達は経営者や調理師に絞らなくてもいいんじゃないかな? あ、芸術の道に進むのとかもカッコイイよね」
「丈二」
「丈二」
「丈兄」
「丈二……」
* * * * *
「丈二!」
「……うぁ?」
丈二が自分を呼ぶ声に目を覚ます。
声が聞こえた方を見れば、部屋の入り口付近に椿が立っていて、いつものしかめっ面で丈二のことを見下ろしていた。
「…………な、椿!?」
「やっと起きたか覗き魔。私達、もう家に戻るからね。畑が心配だし」
飛び起きた丈二が時計を見ると、朝八時を回っていた。既に台風は過ぎたようで、カーテンの隙間から光が射している。
丈二の寝起きの頭が徐々に回転を速めていく。
椿は今何といった? 寝坊助? 否、覗き魔だと言われたはずだ。
「俺は覗き魔じゃない。あとその前に、丈二って呼び捨てにしてなかったか?」
「はあ? あんただって、私のこと下の名前で呼び捨てじゃないの」
「それはお前が苗字を名乗らないからだろ」
「私は謎田よ。とにかく、もう行くからね」
椿は丈二の部屋の入り口を開けっ放しにしたまま、廊下に出てスタスタと歩いて行った。
丈二は何か失態を犯した日の夜は、過去の嫌な思い出も連鎖的に思い出してしまう。
そのまま眠れずに悶々と悩む夜もあれば、夢と混ざりあって悪夢となり、丈二に襲い掛かってくることもある。
今日のように。
「……いや、謎野じゃなかったか?」
丈二は椿の適当さに呆れ、そしてほんの少し救われた気がした。




