第一話 犬飼丈二の帰国
「おー、思ったより涼しいな……」
犬飼丈二がワンマン電車を降りると、一面に緑色の世界が広がっていた。
降車駅は無人駅で、視界の隅から隅まで草木の緑に覆い尽くされている。青い匂いのする風が、真夏とは思えないくらい気持ち良い。
丈二を歓迎するのは蝉の合唱団ばかりで、他には誰もいない……かと思いきや、ホームの端にカメラを握るおじさんがいた。走り去っていくワンマン電車を熱心に撮っている。
――日本でもアメリカでも、鉄道オタクが酔狂なのは変わらないな。
丈二はそんなことを思いながら駅を出る。
念のため地図を見ながら歩こうと思い、ポケットから最新型のスマホを取り出して地図を見る。
この田舎に携帯の電波が飛んでいるのかは定かではないが、事前にこの辺りの地図をスマホに画像保存しておいたので問題はない。
そもそも、丈二は日本の通信会社とはまだ契約していない。
携帯とネットの契約は、早めにやらないといけない課題である。
スーツケースをひきながら、建物のほとんど見当たらない道を歩くこと三十分。
丈二は十年ぶりに、祖母の家へと辿り着いた。
既にこの一帯の土地所有者は丈二の父親へと移っているものの、丈二は祖母との思い出が残るこの屋敷には、『お婆ちゃんの家』という認識が強い。
屋敷は玄関前からだとわからないが、裏側に中庭を囲むようにコの字型に造られている。
近隣の畑と、さらに奥の裏山までが、犬飼家の土地である。
ただし今は畑を耕す人間がいないので、ただの更地と呼ぶべきかもしれない。
「うん、畑を再生させて家庭菜園ってのも悪くないよな」
丈二は幼い頃、庭の奥の畑で、祖母が育てたトマトをもいで齧ったのを思い出す。
トマトは今から植えるには遅いけど、この時期から植える冬野菜だってある。
せっかくだし、時期が合うなら落花生でも育ててみたいが、栽培方法は難しいのだろうか?
そんな事を考えつつ、丈二は父親から預かった鍵で玄関を開けた。
「こんにちはーっと……」
誰もいないのはわかっていたが、何となく挨拶をしながら戸を開ける。長い間誰も住んでいなかった家の、埃っぽい独特な匂いが丈二の鼻をくすぐった。
屋敷の中の薄暗さに、少し寂しいような印象を受ける。奥の雨戸が閉まっているのが原因だろう。玄関からまっすぐに通路を直進すると、中庭に出られる大きな窓があるのだが、今は雨戸が閉まっている。
暗くて寂しい玄関は、今の丈二が求めているものではない。
引っ越し初日くらいは嫌な事を忘れ、今日から始まる薔薇色の田舎暮らしに浸りたい。
丈二は屋敷の中に明かりを取り込もうと、埃っぽい通路を進み、大窓を手をかけて――そこで考えなおして手を止めた。
父親の話では、最後に掃除したのは今からかなり前らしい。外側のサッシに大きなゴミがこびり付いていたり、砂や埃で埋もれている可能性がある。
となると、先に外側から確認した方が良いだろう。
まず窓を開けないと、屋敷内の掃除もできない。丈二はスーツケースをその場に残し、玄関に置いてあった竹ぼうきを手に外へ出た。
「……うん? 何か入ってるな」
玄関を出たところで、塀に埋め込まれた郵便受けの中に、封筒が一通入っているのを発見する。
おそらくは丈二の父宛てか、さもなければダイレクトメールか何かだろう。契約した電力会社や水道会社からの書類かもしれない。祖母宛ての手紙という可能性は低いが、なくはない。
しかしその封筒の宛て名は、丈二の全く知らない人物だった。
「犬飼様方、亀崎 蜜柑様…………誰?」
犬飼様方とあるからには配達ミスではあるまい。裏がえすと、送り主が兵庫県の住所で『野崎子供園』と書いてある。名前からして幼稚園か保育園だろうか?
亀崎蜜柑――蜜柑という名前からして女性だと思われるが、丈二の知る限り親族に蜜柑なんて名前はいない。
……まさか父は、この家で亀崎さんという愛人を囲っていたのだろうか?
いやいや、愛人どころか隠し子だったり?
「はは、なんてな」
丈二は自分の妄想のくだらなさに自ら失笑する。
人が住んでいるのなら、玄関にホコリが溜まっているはずがない。
おそらくは父親か祖母の関係者なのだろう。後で父に聞いてみて、知らなければ郵便局に電話すればいい。
ただし丈二は固定電話の契約はしていないし、今後するつもりもない。ネット契約が丈二の急務である。
丈二はその手紙を玄関に置いて、再び竹ぼうきを手に外に出た。
そして屋敷の壁や雨戸の確認をしながら屋敷の周りをぐるりと一周……
「……ふぁ?」
……できなかった。
家を右回りに半周して裏の畑や中庭が見えてきた所で、中庭に『巨大な何か』があるのを発見し、丈二は思わず足を止めたのだ。
丈二の記憶にある中庭は、小さな池があるくらいで樹木はなく、洗濯物を干す場所として使われていたが――その中庭の大部分を埋め尽くす様に、巨大なダンボールの塊が鎮座していた。
それは一つの巨大なダンボール箱、という訳ではない。
いくつものダンボールを集めてガムテープでつぎはぎして造られたものらしく、りんごやみかん、密林や象や蟻などの色々な絵柄が側面に貼り固められていた。
上には雨よけのブルーシートがかけられて、それをガムテープでダンボールの塊に固定している。
いったいこれは何だろう。何かのサプライズだろうか?
丈二が覚えていないだけで、昔からあったオブジェだろうか? そう言えばお婆ちゃんがダンボールを触っていたようないなかったような……
……などと昔の記憶を辿るのは全くの無意味で、実際のところ丈二はすでに、一つの答えに辿りついている。
どうして? 何故? という疑問は尽きないが、このダンボールの塊を写真に撮って、街ゆく人百人にアンケートを取ったなら、九十九人はこう答えるだろう。
これはホームレスが作るダンボールの家、ダンボールハウスだ、と。
そして違う答えを無理矢理ひねり出そうと躍起になっている最後の回答者こそ、この屋敷の新しい主である犬飼丈二その人だった。
丈二が受け入れられないのも無理はない。ここは丈二の思い出の場所にして、新しい我が家なのだ。しばらく現実逃避に走るくらいの権利はあるだろう。
しかし現実にダンボールをつぎはぎして造られた物体がある以上、現実を直視する義務もある。
丈二は意を決して、しかし音をたてぬようにゆっくりと、ダンボールハウスへ近づいていく。
その手には今も竹ぼうきが握りしめられているが、既にそれは掃除道具ではなく、身を守る為の槍であった。
裏の畑の方からは出入り口が見当たらない。入り口は玄関の方を向いているのか。
更に二、三歩近づいた所で、ダンボールハウスをあらためて観察する。
ダンボールハウスはかなり大きい。中庭の八割方を占めるそれは、ホームレスのダンボールハウスとしては、"豪邸"と揶揄されるレベルのものだろう。
そこにあったはずの小さな池は、ダンボールハウスの下敷きになっている。
高さも丈二の身長を超えていて、通常のホームレスが造るダンボールハウスよりも威圧感がある。もしや物干し台はこのダンボールハウスの材料に使われているのではないだろうか。
丈二はそのままダンボールハウスのすぐそばに立ち、息を殺して耳をそばだてる。
最初は蝉の声や木々のざわめきの音しか聞こえなかったが……しばらくすると、ダンボールハウスの中からトントンと、何かを小さく叩くような音などが聞こえた。
丈二は思わず天を仰ぐ。
既にホームレスが住んでいないことを期待したが、現在も使われている上に在宅中らしい。
――まぁ待て丈二、ちゃんと生きているだけマシじゃないか。
中にホームレスの腐乱死体があるパターンよりは。
そんな暗示を自分にかけて、丈二はダンボールハウスから距離を取った。
しかし、中にホームレスが在宅している以上、一人で中を確認するのは怖い。というか危ない。まず警察を呼ぶべきだ。
携帯電話も固定電話も使えないので、近所の人に事情を説明して電話を借りるのが無難だろう。犬飼家の屋敷からは廃墟しか見当たらないが、駅の近くにまで戻れば何件かは家があったはずだ。
丈二は警察や近所の人に見せるためのス証拠写真を撮っておこうと思い、ポケットからスマホを取り出す。
そしてシャッターを切った。
――パシャッという、盗撮防止の為の音を立てて。
「しっ!?」
丈二がしまったと思った瞬間、ダンボールハウスの中からゴソゴソガタンと激しい物音が聞こえ、そして飛び出してくる影が三つ。
「げっ、出てきて…………え?」
丈二の前に飛び出してきたのは、三人の汚らしいおっさん達――
――ではなく、年端もいかぬ少女達だった。