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二部(最終話)

 しかし、どうして裕子のことを急に思いだしたのだろう? と誠は思った。卒業してからは裕子を忘れようと過去を振り返らないように努めた。そしていつしか裕子が心にあらわれる回数は減り、裕子は遠い過去の記憶になった。ここ数年は思い出すことなどほとんどなかったのに。

 誠は空の弁当の容器が入ったビニール袋の持ち手を結び、腕時計を見た。一服して上司との待ち合わせの時間にちょうどいいくらいだ。しかしスーツの内ポケットに手を伸ばそうとしたところで、ちらほらと子連れの母親たちが戻ってきたことに気づいた。誠はビニール袋を屑かごに入れて、少し早いが待ち合わせの場所へ向かった。


 午後は昔からの得意先への挨拶を上司と一緒に回った。どの会社も規模が大きく担当者の感じもよかったが、どこも複合機やパソコンは入れ替えたばかりですぐにハードの売りはあがらなさそうだった。帰社の道すがら誠は担当者との会話を整理し、提案できそうな話をいくつか頭に浮かべた。

 デスクで営業日報をまとめていると携帯電話に着信があった。ディスプレイには登録していない番号が表示されている。時計は七時を過ぎていた。こんな時間に携帯が鳴るときはトラブルの可能性が高い。不安が胸をかすめたが誠は電話を取った。

「はい、青木です」誠は声色を仕事用に切り替えた。

「はじめまして。わたくし鈴木建設の藤田と申します。株式会社カンノンの青木さんの携帯電話でしょうか?」

 女の事務的な声だった。鈴木建設……思い出した。午前中に行った、研修で習ったような形ばかりの笑顔の女性社員に、担当者は席を外しておりますと言われた会社だ。

「お電話ありがとうございます。たしかにカンノンの青木です」

「名刺とチラシを拝見しました。プリンターのインクの価格が今使っているところより安かったもので、御社のオフィス用品の通販サービスに興味を持ちました。他の商品の価格も知りたいので、カタログなどがあれば見てみたいのですが……」

「ええ、ございます。藤田様のお時間の都合がつく日時を教えて頂ければ、お届けにあがります」

「では……」、電話の向こうで手帳を開く音がした。「明日の午後でしたらいつでも大丈夫です」

「明日ですか……」誠は間を置き、スケジュールを確認しているふりをした。「三時頃でしたらお伺いできます」

「ありがとうございます。ではお待ちしております」

「では明日三時に」

 誠はほっとして電話を切った。トラブルではなかった。むしろラッキーな電話だった。規模としてはそれ程でもなかったが、内装が綺麗な会社だった。この糸口をなんとか掴んで顧客にできれば、誠はそう考え作業の続きに戻った。


 家のドアを開けると玄関に亜紀の蛇革のパンプスが並んでいるのが眼に留まった。

 亜紀が連絡もなしに家に来ることはよくあったが、週の半ばに来ることは珍しかった。誠は靴をブラシで軽く磨くと玄関をあがった。リビングに続く廊下の扉を開けると亜紀はパジャマ姿でソファに腰かけ、マグカップを手に『ラバー・ソウル』を聴いていた。知り合った頃はこういう音楽に全然興味なんてなかったのに、と誠は思った。自然と笑みがこぼれた。

「気に入った?」

「段々よさがわかってきたかもしれない」

「よかった。でも無理して聴かなくていいんだよ。亜紀は亜紀の好きなものを聴けばいい」

「誠のこともっと知りたいから」と亜紀は唇を尖らせて言った。

「ありがとう。今日は急にどうしたの?」

「明日研修なの。会場がここからの方が近いから来ちゃった。ご飯用意したけど、食べる?」

「ごめん。外で食べてきた。朝にもらうよ」、誠はネクタイを弛め、寝室へ向かった。

「新しい職場はどう?」

「悪くない。上司も前ほど無茶を言う人じゃない。うまくやっていけそうだ」

「それはなにより。お風呂すぐに沸くと思うから」

 クローゼットにスーツをかけ、わかった、と誠は背中越しに応えた。


 湯船につかり、両手で湯をすくい顔を濡らした。それから天井を見あげ、深い息をもらした。亜紀と付き合ってからもう三年になる。

 亜紀を含めた学生たちがOB訪問で誠の会社を訪れたとき、誠の抱いた亜紀の第一印象は今時の子、というものだった。目鼻立ちのはっきりしたかわいらしい顔立ちをしていたが、どこかの就職活動のガイド・ブックを鵜呑みにしたような髪と化粧に服装、それとたどたどしい言葉づかいが気になった。しかし、自分も同じようなものだったかもな、と誠は思い返した。

 話をしているうちに、誠は亜紀のことがだんだん心配になってきた。それは老婆心と言った方が近い感情かもしれない。自分の思ったことを口にするのに時間がかかり、ずっと緊張している。他の学生は時間とともに打ち解けてきたのに、亜紀だけは終始こわばった笑顔を浮かべたままだった。誠は解散したあとで亜紀にメールを送り、就活の相談に乗ることにした。  

 それから日を追うごとにメールは就活の話題以外にも幅を広げ、季節が変わる頃には電話でも長く話す仲になった。もう亜紀の声からぎこちなさは消えていた。やがてふたりは食事をするようになり、三回目のデートのあとで身体を重ねた。

 おれは何を求めこれからどこへ行くのだろう? 誠は自分に問いかけた。もう随分遠くまで来てしまった気がする。仕事は順調、彼女とだって問題はない。大学時代には考えられなかったことだ。でも、この現状は自分自身の力で勝ち取ったものだろうか? 

 ――おれではない、誰かの考えと言葉で手に入れたものだ。このまま定年まで仕事を続けることも亜紀にプロポーズをすることもできる。けれど、果たしてそれは本当に正しいことなのだろうか? あのとき亜紀にアドバイスをしなくても、亜紀自身が、それとも他の誰かが亜紀を今よりも恵まれた場所に連れていったかもしれない。おれが亜紀を変えて間違った方向に連れ込んでしまったとしたら……誠は無力感に苛まれ湯船に身体を沈めた。


 暗闇のなか、ふたりはベッドで週末の予定について話しあった。

「明日は飲み会?」

「そう」誠はまどろみながら答えた。

「どこに行っても金曜日とお酒は切り離せない」と亜紀は言った。「お酒のどこがいいのかな?」

「忘れられるところ」

「えっ?」

「嘘。美味しいよ、単純に。飲めない亜紀にこう言うのは申し訳ないけれど」

「気にしないで。酔ってる誠は可愛くて好きだから」亜紀は誠の首筋に唇を落とした。

「ありがとう。土曜日は凛子ちゃんの結婚式だっけ?」

「そう。だから明日はうちに帰るね」と亜紀は言った。「日曜日どうしよっか?」

「……上野にでも行こうか。美術館。桜も綺麗だし」誠は性交の際に亜紀に甘く噛まれた脚を手のひらでかるくさすった。

「うん。よさそう。楽しみ」

「細かいことはあとで決めて連絡する。今は眠い……」

 亜紀は誠の頭を撫でた。「ゆっくりお休みなさい」


 午後一番の顧客への対応が予想していたよりも早く終わり、鈴木建設との約束の時間まで余裕ができたので誠は近くの喫茶店に入った。店内は学生のグループや誠とおなじように時間を持て余したサラリーマンやOLで賑わっている。テーブルに着き、鞄の中を確認した。カタログと簡単に事業内容をまとめた資料とセミナーにフェアの案内――まあ最初からがっつかない方がいいだろう。誠は一息つくとアイス・ティーのグラスを傾け、日曜日のデートプランに想いを巡らせた。

ピアノ・トリオの軽快な曲が終わり、テナー・サックスのゆったりとしたナンバーが流れだした。誠は席を立ち、洗面所で髪型や表情をチェックすると店を出た。

 

 昨日と同じ受付の昨日と同じような応対のあと、事務所の一角にある応接スペースに案内された。挨拶の部分だけを切り取れば、録画した映像を再生した、と言っても信じられそうなほど正確に昨日の動きが再現されていた。

「こちらでおかけになってお待ちください」

 彼女は既製品の笑顔を残して去って行った。彼女の笑顔や振る舞いは仕事用のものなのか、それとも普段と変わらないものなのか……。誠は黒い革張りのソファに腰を下ろした。柔らかすぎず固すぎない座り心地のいいソファだ。ガラス製のテーブルは曇りひとつ無い。灰色のカーペットや白い壁からはまだ新しい気持ちの良い匂いがした。掃除も行きとどいている。誠は感心してソファの肘掛を撫でた。

「お待たせしました」

 昨日の電話の女の声がした。誠は立ち上がり名刺を取り出した。女は冬の夜を思わせる深みのある黒い髪をしていた。ボブのショート・カット、髪の切れ間から白い耳がちらりと見える。眉はやや濃く引かれ、瞳には強い意志を感じさせる光がそっと浮かぶ。そして表情のある口許。少しふくよかだが女性らしさを感じさせる身体のライン。無地のシャツにふんわりとしたカーディガンに七分丈のパンツといったシンプルな着こなしが様になっている。

「ありがとうございます。昨日電話をかけました藤田です。それと今名刺を切らしておりまして……どうぞお座りになってください」

 女は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。誠は礼を言ってソファに座りなおした。

 受付の女性がコーヒーをテーブルに置いた。誠は本題に入ろうと鞄に手をかけた。

「その前にコーヒーでもいかがでしょうか?」

 つくられたきらいはあるが、穏やかな落ち着いた声に促され誠はカップに口をつけた。熱く濃いコーヒーだった。女も砂糖とミルクには目もくれず、ブラックのまま口をつけた。

 不意に誠は妙な錯覚に陥った。女に懐かしい影を見た気がした。どこかで会ったことがある気がする……そう考えた瞬間、裕子との思い出が脳裏をかすめた。誠のカップを持つ手が止まった。裕子? いったんそのイメージが頭に浮かんでしまうと、誠はなぜか目の前の女が裕子であるような気がしてならなくなってしまった。

 誠はカップをソーサーに戻した。それからカタログを開き、発注から配達までの納期、支払い方法の種類といったサービスの説明に移った。説明や質問をしながら誠は裕子を求め記憶を辿った。しかし裕子は幾重にも重ねられたヴェールの向こうにいた。その姿はぼやけて輪郭が曖昧になっている。必死にもがくが誠の手はヴェールに届かない。

 契約書に必要事項を記入してもらっているあいだも考えていたが、誠は自分の答えに自信が持てなかった。瞳と唇に面影があるような気がする。似ていると言えば似ている。似ていないと言えば似ていない……。いや、裕子だったら大学で助手か非常勤で講師をやっているはずではないか? 藤田さんは裕子ではない――しかし何かが心にひっかかり結論は出せなかった。


 二十時を過ぎた頃から仕事を終えて居酒屋に向かう同僚がちらほら出だした。誠は訪問した会社に面談のお礼のメールを送りパソコンをシャットダウンした。そして電源を切ろうと携帯電話を手にしたとき、ちょうど着信があった。また知らない番号だ。誠はうんざりしたが、思考と声帯を営業用に切り替えた。

「はい、青木――」

「誠くん」

 太陽の光に照らされて花弁を開く花のように誠の記憶は蘇えった。

「裕子……」誠の声は震えていた。

「何年ぶりかしら。もう忘れられてしまったかと思った。会社で話しているあいだ気づく素振りすら見せないんだもの。それとも私はもう過去の人間で、誠くんのなかではどうでもいい存在として処理されてしまっているの?」

「そんなことはない」

 鼓動が激しく胸が高鳴る。誠は慌てて事務所の外に出た。胸ポケットをさぐり、煙草をくわえ手間取りながら火をつけた。

「カタログを開いて説明をしてくれた誠くんは別人のように思えたけど、変わらないところもあるのね」

「そうかな?」誠は煙を吐き出し空を見上げた。飛行機がちかちかとライトを灯し飛んでいく。「裕子は変わったね」

「がっかりした?」

「してないよ」と誠は言った。「今気づいたんだけど名刺を切らしたなんて嘘だろ?」

「そう。試してみたの。結果はこの通り」

「ごめん」

「いいの。それより聞きたいことがある。明日の午後、時間とれる?」

「とれる」

 誠は煙にむせた。口をついた自分の言葉に驚いた。

「じゃあ場所は――」


 アルコール漬けになった身体で誠はベッドに沈んだ。飲み会でどんな話をして何をどれだけ飲んだか……記憶は封を開けたばかりのパズルのピースのように散らばっている。同僚と仕事の進捗について話しているときも、愚痴を聞いているときもグラスを呷っているときも、裕子のことが頭から離れなかった。そしてそのあいだ亜紀のことはまったく考えていなかった。裕子との思い出が鮮やかに輝き、亜紀との約束は遠い過去へと押しやられていた。

 誠は両手で顔を覆った。あの日、もう会わないと決心したはずなのに。裕子を意識してから、まるで学生時代に戻ってしまったかのように裕子のペースに乗せられてしまった。少しは成長したつもりでいたが、ちっとも成長していなかった。むしろひどくなっているかもしれない。裕子と離れてから今までのおれの時間はなんだったんだ? 疑問と虚無がアルコールで加速する血液とともに誠の身体を駆け巡る。

 携帯電話が鳴った。誠は重いまぶたをなんとか開いた。亜紀からのメールだった。返信をしようと親指を動かしたが、文章を考えているうちに誠はそのまま眠りに落ちていった。


 

 御茶ノ水の聖橋口改札を出ると、裕子はサンクレールの時計塔の下で待っていた。ゆとりのあるサック・ワンピースとブラウンのロング・ブーツ。学生時代はタイトな服を好んで着ていたのにな、と思い誠は横断歩道を渡った。

「遅い」

「まだ約束の前だよ」

 誠は時計に眼をやった。

「わたしが遅いと言ったら遅いの」裕子はぴしゃりと言った。こういうところは変わっていない。本当にあの頃に戻ったみたいだ。「御茶ノ水はどれくらいぶり?」

「卒業してからは来てないな」

「ふうん。この辺も結構変わったのよ」

「だね。まさかユニオンがここに移転してるなんて」

「最近はどんなの聴いてるの?」

「大学の頃聴いてたやつばかりだよ」

「じゃあお勧めがあるからとりあえず入りましょう」、裕子はあごで二階のディスク・ユニオンを差すと歩きだした。裕子の耳を飾る蝶をモチーフにしたピアスが、陽の光を反射してきらめいた。

 

 坂を下り水道橋に向かう途中、誠と裕子はビートルズのデジタル・リマスター盤やツェッペリンの再結成について熱心に話した。この道も昔は裕子と一緒によく歩いた道だ。そしてラクーアのハブに行ったり――

「なんだか飲みたくなってきちゃった。ハブでも行かない?」

「いいね」と誠は答えた。

 土曜日のハブは遊園地に来た恋人たちや白人の団体や学生たちで混みあっていた。テーブルもスタンディングのスペースもテラスもほとんどの席が埋まっている。

 CDを探しているあいだも、ラクーアへの道のりも、ふたりの会話は途切れることはなかった。しかし語られることは音楽や楽しかった思い出ばかりで、現在の状況について語られることはなかった。裕子の聞きたいこと――それはひとつしかないだろう。裕子の唇からその言葉が紡がれたとき、おれはどう答えるのだろうか? 誠は煙草の煙をくゆらせた。賑わう店内にオアシスの『ドント・ルックバック・イン・アンガー』が流れた。誠がメロディーに合わせて口ずさんでいると、裕子がフォア・ローゼスのお代わりを持ってカウンターから戻ってきた。懐かしい曲、と裕子は言って誠と一緒に口ずさんだ。

「吸わないの?」

 誠は飲み出してから煙草を手に取る素振りも見せない裕子を不思議に思った。

ピスタチオの殻をむき終えると裕子は、「結婚してからは。実はお酒も久しぶりなの」と困ったような笑みでぽつりと言った。

「彰人さんと?」

「ええ」

「おめでとう」誠は微笑んで言った。

「ありがとう」

 脇役は退場し、ヒロインとヒーローが結ばれる。自分の役割を果たし、恋した女性がしかるべき人と一緒になった。思っていたより悪くない、と誠は思った。むかしだったらこういう気持ちで言えなかったかもしれない。

「こどもは?」

「生きていれば四つ」

「生きていれば?」

 誠の口から不安定な声が漏れて空気に消えていった。

「事故。その日わたしは学会で大阪にいたの。彰人が沙希を自転車に乗せて公園へ行く途中、後ろから来た軽トラックに引っかけられてふたりとも……」

「彰人さんも?」誠は瞬きも忘れて言った。

 裕子は肯いた。「それから大学を辞めてひとりぼんやりと暮らしてた。何をする気にもなれなくて、拒食と過食を繰り返して栄養失調で入院して実家に戻ったの。久しぶりに自分の部屋に入って、壁に並べたレコード・ジャケットを見たとき、なぜか誠くんと一緒に過ごした時間を思い出した。カーテンを開けて家々に灯るあかりを見て、この世界のどこかに誠くんがいる、このままではいけないって思った。いつかどこかで誠くんに会ったとき、情けない姿は見せられないものね。そして亡くなったふたりにも。そう思ったとき、世界がまるで生まれ変わったようにとても美しく見えたの。不思議ね。……それから社会復帰のリハビリも兼ねて伯父さんの会社で働かせてもらっているの。まさかあんな形で再会するとは夢にも思わなかったけれど。もう少し体重を落としてから来て欲しかったな」

「いまの裕子も良い」

 やわらかで力ない微笑が裕子の口許に広がった。「駄目。ちゃんとベストの体重に戻さないと」そして寂しげな光が瞳に宿った。「わたしはずっと誠くんを傷つけていたのね? だからわたしの前からいなくなった」

 誠は首をふった。「裕子のせいじゃない」

「答えになってない。なんであんなふうにいなくなってしまったの?」

「それが良いと思ったんだ。その方が、三人が上手くいくと。あのまま一緒にいたらおれは間違いを犯していたと思う」

「正しいことって何かしら? 離れてからいろんな人に会った。誠くんよりお酒や本、音楽に詳しい人たちにもたくさん出会った。けれど他の誰でもない、わたしは誠くんに会いたかった」裕子はグラスの氷を回し、口をつけた。「でもそれはわがまま。わたしのわがままでいろんなものを壊してしまった」

 誠は短くなった煙草を灰皿にこすりつけた。「違う。結局おれが間違ったんだ。ふたりの命が失われ、裕子を傷つけた。自分の弱さと向き合えず、償うことのできない過ちを犯してしまった」

「誠くんのせいじゃない。どうしてそんな悲しいことを言うの。わたしがいけなかったの。わたしが……ごめんなさい。今日は久しぶりに会うから楽しく過ごそうと思ったのにこんな酷いことになってしまって。せっかくの記念日なのに」

「記念日?」

「わたしが誠くんを見つけた日。それから友だちになるまでは時間がかかったけど」

「驚いた。裕子がおれのことを見ていたなんて。それと酷いとは思わない。おれは裕子に会えて嬉しい。まだ時間も早い。飲もう。そしてゆっくり話そう」


 店を出る頃には日が沈みかけていた。裕子の頬は桃色に上気し、口許はほのかに弛んでいる。ふたりで音楽を聴いて酒を飲んで話をして――裕子が付き合うまでは、こういう時間がいつまでも続けばいいと思っていた。何もかもが懐かしい。思い出が優しく誠の心と身体を温める。あのまま一緒にいたらどうなっていただろう? やはり間違いを犯しただろうか? それとも関係を壊すことなく付き合えただろうか? わからない。わかるのは一緒にいたかったことと、いま再び出会えて良かったということだけだ。不意に誠の袖が引かれた。

「あれ乗りたい」

 誠は裕子の視線を追った。「観覧車?」

「行きましょう」裕子は歩くスピードを上げた。

ゴンドラに乗り込み座席に腰を下ろすと、ふたりは壁にミュージック・プレイヤーがあることに気づいた。プレイ・リストを調べたがふたりの聴きたいと思える曲はなかった。

「駄目ね。いくら流行り廃りがあるといってもビートルズくらいは入れておくべきよ」

「そうだね」

「観覧車なんて久しぶり。誠くんは?」

「半年ぶりくらいかな」

「彼女?」

 誠は肯いた。

「そう。素敵な人と巡りあえたのね」

 誠は黙って微笑んだ。

 ゴンドラの上昇する音が耳の奥にこだまする。やがてゴンドラはビルの落とす大きな影を抜けた。地平線まで、眼に映るすべてのものが茜色に染まっている。遠く並ぶビルの向こうに太陽が沈んでいく。とつぜん何の前触れもなく涙が裕子の頬をつたった。

「どうしたの?」

「なんでもない。きっと夕日のせい」と裕子は言った。「わたし、大学に戻ろうと思うの。結構ブランクがあいたけど、どうしても研究が続けたい。でも少し怖い。ねえ誠くん大丈夫って言ってくれない? そうしたらどんなことがあっても頑張れる」

どうしてもやりたいこと――おれにとって小説はそこまでの存在ではなかったのか? いや、そうじゃないはずだ。「裕子なら大丈夫」涙が目尻に滲んだ。

「なぜ泣いているの?」

 誠は涙を指で拭った。「夕日が優しいから」

「誠くんには助けてもらってばかりね」

「そんなことないよ」

「喧嘩した日のこと憶えてる?」

「裕子がけしかけたやつ?」

「そう。出会った頃から感じていたことだけど、誠くんは星を眺めているようで心ここにあらず、という雰囲気のときがあるの。でもそれはそれでいい。人には秘密……誰にも言えない大切な想い、言葉にできない何かがあるから魅力があるのだと思う。わたしはそれに触れたかった。あの日、わたしは誠くんに近づけた気がした。そして今日。……言葉ではなく感じたものを信じればよかったのね。でももう遅かった。もっと早く出会えていたらいろんなことは違ったのかしら?」裕子はか細い声で言った。

 ゆっくり、ゆっくりとゴンドラは昇り、頂点に向かっていく。

「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。今は――今とこれからのことを考えよう。裕子と過ごした日々はどれもかけがえのない思い出なんだ。もし変えられたとしても変えたくはない。そしてどんなふうに呼ばれる関係であったとしても裕子とは一緒にいたい。それだけは言える。俺にはその責任がある。もう逃げたりはしない」

 裕子は誠をまっすぐみつめた。「あなたに会えて良かった」


 観覧車を降りて誠は時計を見た。まだ早い時間。せっかちな星がふたつ空に瞬いている。夜はこれからだ。

「次はどこへ行こう?」

 裕子は穏やかに首をふった。「今日はこれで。彼女に悪いわ。少しずつ時間を埋めていきましょう。わたしたちこれっきりってわけではないのだから。……会社にも来てくれることだし」と裕子は言ってくすくす笑った。

「わかった」

「カンノンの青木さんもよかったけれど、やっぱり誠くんが一番ね」

「仕事中はカンノンの青木として会社に行かなきゃ」

「それは残念。待っているわ。いつでもどこででも」


 誠は家に帰り一直線に机の置いてある部屋へ向かった。デスク・ライトをつけ、引き出しの奥から原稿用紙をひっぱり出した。表紙はそこかしこ破れ、端は折れて曲がっている。用紙をめくり何年かぶりに読み進めた。枯れた井戸は蘇り、心は軽く温かい。想像力は翼を広げどこまでも飛んでいけそうだ。誠は本棚の『星の王子さま』を見やった。今なら書ける気がする。物語も時間も、誰のものでもない、自分の想いで動かしていかなければならない。誠は物語の続きを描き始める。





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