一部
誠は公園のベンチに座り、昼食の弁当を食べている。ランチタイムがピークを迎える前にコンビニで買ったものだ。まだ冷たさを残す風が頬をさらっていった。桜の梢がゆれ、木洩れ日が差す。宙に花びらがひらりと舞った。誠は寄せては返す光と影に目を細めた。
この春、誠は神奈川から東京の営業所に異動してきた。まだ担当するエリアを把握しきれてはいない。当分は前任の案件の引き継ぎや顧客への挨拶で忙しいなか、地図を頼りに慣れない土地を開拓していくことになる。
朝一番からの商談を首尾よくまとめ、まだ取引のない会社を五件訪問した。三件で購買の担当者と名刺の交換に成功し、そのうち二件で商品のカタログを届ける約束を取りつけた。昼前に余裕をもって切り上げたのは、十二時が近づくと相手が集中力を欠き話にならないケースや、昼休みの邪魔をして心象を損ねないことを考えてだ。
悪くない、と誠は思った。今月と来月は継続案件でノルマの半分以上は期待できる。しかし足りない数字とこれからの売上は自分次第だ。多くの名刺という種をまき、毎朝水をやるようにこまめに訪問し、効率よく売上を収穫していかなければノルマは達成できない。
新人の売れない頃、誠は上司から営業は女を落とすのと似ている、と言われたことがあった。
「おまえ初対面の女に付き合って欲しいと言って、付き合ってくれると思うか?」
「思いません」と誠は言った。
「そうだ。ほぼ駄目だろう。じゃあどうするか? 簡単に言うと、三回美味いものを食べさせる。これがセオリーだ」
「ほぼ、と言われたのはどうしてですか?」と誠は尋ねた。
「原則があれば例外もある」と上司は言った。「原則にとらわれず、先入観を捨てるのも同じくらい大事なんだよ」
仕事に悩み、恋人もいなかった当時、誠は上司の言葉がよく飲み込めなかった。いったいどうしたらそのセオリーが営業に活かせるのだろう? と。それから誠はセオリーを頭のすみに置き、思考錯誤をしながら営業を続けた。やがて誠は経験的にその言葉を理解し、業績は伸びていった。セオリーを女性に試すことに抵抗はあったが、仕事のため、と割り切った。そして仕事もうまくいき恋人もできた。はじめ誠はその変化に戸惑いつつも、自分の成長に手ごたえと高揚を感じていた。だがその感情は心に長くはとどまらなかった。
どれだけ売っても、恋人をつくっても、同じことを繰り返しているだけじゃないか。提案する商品が変わっても顧客が変わっても狙った女が変わっても、自分のしていることといえば、セオリーを頭に入れて例外に対処していくだけ。感情の繊細な部分を切り捨て機械的に動く。自分を演じ、人を騙している気がする。これ以上どこにも行けず、消耗していくだけの人生……。
もう長いあいだ小説を読んでいない。学生時代は風呂でもトイレでもところ構わずページを開いていたのに。……最後に読んだのは六年前の夏に手にした『星の王子さま』だ。――ぼくは、ぼくのバラに対して責任がある、と王子さまが言ったように、おれにも責任があったのかもしれない。世界で一本だけのバラに。――あれは学生のうちに読んでおけばよかったな、と誠は思った。最近では新聞とビジネス書と商品の仕様書くらいしか読んでいない。ノルマや肩書を気にしながら過ごす日々。最後に原稿用紙に向かったのはいつのことか。
どこからか十二時を知らせるチャイムが聞こえてきた。それを合図に母親たちがブランコや砂場で遊んでいる子供に声をかけ、手をつないだりベビーカーを押したりして公園から引きあげていく。ぼんやりとその光景を眺めていた誠は、母親たちが若いことに驚いた。いや、当然じゃないか。おれも二十八だ。自分より若い母親なんて珍しくない。誠はうつむき苦笑した。いつまでも若いままじゃない。そういえば裕子も結婚して子供を産んだのだろうか。
誠は静岡の公立高校から都内の私立大学の法学部へ進み、東京で一人暮らしを始めた。小説が好きだった誠は文学部や芸術学部への進学も考えたが、自信が持てなかったのと、両親や担任のやんわりとした反対の意見もあり、周囲の勧めから法学部を選んだ。四年かけてこの国のルールを学ぶのも悪い選択ではない、小説を書くことは紙とペンがあればどこだってできる、と自分を納得させた。
なるべく早い時間の授業を取り、夕方は水道橋、神保町、御茶ノ水といった街を散策し、喫茶店やバーで音楽を聴きながら本を読んだ。小説の師も仲間もいなかった誠は、好きな作家の文章を手本に模写の勉強をよくした。そしてひとつの作品の模写が終わると、集中してこつこつ自分の文章を書いた。原稿用紙に向かうときは、鮮やかなイメージが浮かび、想像力は翼をもったように頭のなかを飛びまわる。何か自分にしか書けない物語を紡げそうな気がする。
しかし、いざペンを動かすとイメージと言葉は乖離し、物語は力強さを失い、箱のなかで潰れてしまったケーキを見たときのような失望感を覚える作品ができあがった。
裕子とはじめて言葉を交わしたのは、大学一年の五月の連休明けのことだった。
その日、誠は作品の出来の悪さにうんざりしながら、講堂のわきに設置されたガラス張りの喫煙所で煙草を吸っていた。連休前まではさわがしかった喫煙所にはなぜか人がいない。誠は疑問を抱きつつもバッグから小説を出した。しばらく読み進めているうちに扉が開いた。誠はちらりとその方を見やった。
ああ、あの子か、と誠は思った。すらりと背が高く、深黒のストレートのロングヘアと切れ長で鋭い光を湛えた眼が印象的だ。今日は白い無地のカット・ソーの上にテーラード・ジャケットを着て、袖を肘まで折り上げている。細い脚が引き立つスキニーのデニムと革のパンプスもとても似合っていた。
裕子は入学ガイダンスのときから、その容姿と大学生にはそぐわない落ち着いた雰囲気のため目立っていた。いつもひとりで行動し、授業は教壇のそばの机に着き、大抵ひとりで受けている。ときどき男子学生が近づき話しかけることはあったが、裕子は丁重にあしらった。誠はそんな裕子を遠くから眺めていた。
裕子と眼が合うと、誠は視線を外した。裕子は誠の向かいのベンチに座り、バッグからロング・ピースを出した。一本つまんでフィルターをちぎり、スタンド式の灰皿に捨てると、ふっくらした唇にピースをくわえた。誠は煙を深く吸い込んだ。裕子は整えられた薄く太い眉を寄せて、なかなか火のつかないライターに手こずっていた。
「よかったら、どうぞ」
誠は裕子にジッポ・ライターを差し出した。裕子は黙って受け取り、火をつけ、くつろいだ表情でピースをふかした。
「ありがとう。いいライターだね」
「どうも」
「めずらしい煙草」と裕子は言った。
誠は手元のジタン・ブロンドに眼を向けた。「そうかな? そっちこそ変わった吸い方だ」
「煙草を吸っても、肺には入れるな、って父に言われて、きつい煙草でフィルターをちぎってふかせば味もわかるし、肺にも入らない。そう教わったの」
誠は感心して、ふうん、とうなった。
「それは何を読んでいたの?」裕子は誠のブック・カバーがかけられた本を見て尋ねた。
「レイモンド・チャンドラー、『ロング・グッドバイ』」
「小説?」
「そう」
「何かの教科書かと思った。ハード・カバーで読むなんて、好きなの?」
「まあ」
「小説は小さい頃に『星の王子さま』を読んだくらいかしら」
「僕は読んだことないな。あれはむしろ大人が読むべきものって聞いたことがあるけど」と誠は言った。
「ふうん」裕子はピースをふかしながら、誠の言葉について考えた。「どこにしまったかな……わたしもまわりも学術書は読むけど小説って読まないから、お勧めはある?」
「小説を人に勧めることはとても難しいんだ。僕がいいと感じても君がいいと感じるとは限らない。本屋に行ってページをめくり、心が惹かれたものを手に取るのが一番だよ。それは人との巡り合いに似ている」
「変わった煙草を吸う人は変わり者、というのが持論なんだけど、当たったみたい」
「変わってない。僕はどこにでもいる普通の人間だよ」と誠は抗議した。
「そう言うのも変わり者の特徴」と裕子は微笑んで言った。口許が悪戯っぽく崩れ、瞳に優しい光が揺れた。
誠は息を呑んだ。心臓が縮み、心の芯が震えた気がした。
「あなた法律学科?」
誠はなかば夢見心地で肯いた。
「このあとの法学とってる?」
とってる、と誠は言った。
「じゃあ一緒に受けよう。知らない人にとなりに座られると気が散るのよね」
裕子は吸殻を灰皿に入れて立ち上がった。誠もつられて火を消した。誠はいいよ、とは言ってないんだけどな、と思いながらも裕子について喫煙所を出た。
学校がひけるとふたりは神保町に向かった。そして古本屋から三省堂をめぐり、各々好きな本を手にした。それからディスク・ユニオンやジャニスに足を運びお目当てのCDを買うと、テーブル・チャージのない小さなバーに入った。ふたりはそこでフォア・ローゼスとジョニー・ウォーカーを頼んだ。ウイスキーが運ばれてくると、スピーカーから『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』のイントロが流れた。
「ビートルズはやっぱりいいわね」と裕子は言った。
「わかるんだ?」
「もちろん。ライター、林檎のロゴのものだったけどビートルズ好きなの?」
「好きというか物心がついたときには親が聴いてたからね。自然と」
「わたしも一緒」と裕子は微笑んで言った。
誠は裕子がよく笑いよく話すことに驚いた。
「一人でいるのが好きな子かと思った」
「一人が好きなわけじゃないの」と裕子は言った。「流行りの同じような髪型に服を着て、煙草といったらマルボロやメンソールのもの。それで携帯を片手に時間を潰すような人に興味がないだけ。ここにはそんな人ばっか。わたしの知らないだけで、どこかにそんな学則があるのかしら? 本校の学生はかくたるべし、みたいな。前の大学を辞めたことをちょっと後悔したし、すごく退屈だった。まあ、連休後に人が少なくなるのはおなじだけどさ」
「どうして学校に来なくなるのだろう?」
「誠くんは真面目だね。そんなの履修だけしてあとは簡単な試験だけで単位をもらえるような授業を取る学生がごっそりいなくなるからだよ。それで、今日は喫煙所すいてたでしょ? 喫煙所に来るのは大体その手の学生なの」
なるほど、そんなこともあるのか、と誠は思った「前はどの大学に?」
「早稲田。あそこは面白いひとが多かった。誠くんはストレートで大学にあがった?」
誠は肯いた。
「じゃあ、わたしの方がふたつ上だね。いい弟ができて嬉しいよ」
「どうして辞めたの? いい学校だと思うんだけど」
裕子はグラスを傾けた。店内のほの暗い明かりを受け、カウンターに琥珀色の影が差した。「友だちにも恵まれたし、授業も特に文句はなかったんだけど……古本屋でここの先生が書いた本に感動しちゃって、この先生の下で勉強をしたいって思ったの。それからは早かったな。将来は大学院に進んで過失犯、医療過誤、刑事司法の役割論とかを研究していきたいんだ」
自分とは違い前向きな理由で大学に来た裕子を、誠は眩しいものを見るようにみつめた。「すごいな。僕にはできない」
「でもよかった。先生についでふたり目の興味深い人物に出会えて」
誠は煙を吐き、年季の入った木製の天井付近で消えるのを眺めた。「学校でも言ったけど、僕は面白くもなんともない人間だよ。本も酒も音楽だって僕より詳しい人間なんてたくさんいる。あまり期待させてがっかりして欲しくはない」
「そうかもしれない。けど、わたしは誠くんのことしか知らないし、こうやってふたりでお酒を飲むのが楽しいと感じている。それでいいじゃない」
誠は何か言おうと口を薄く開いたが、言葉は見つからず、そうかな、と言ってジョニー・ウォーカーを飲みほした。
それから誠と裕子は多くの時間を一緒に過ごすようになった。裕子は小説こそ読まなかったものの、酒や音楽の趣味が誠と似ていた。ふたりともウイスキーを好み、ビートルズやレッド・ツエッペリンといった古いロックを聴いた。誠はスコッチ派で裕子はバーボン。誠はポールを支持し裕子はジョン、といった傍目からは些細な、しかし当人たちにとっては譲れないこだわりの違いがあった。それはときに衝突をもたらしたが、次の日の夕方にはわだかまりは氷が溶けるようになくなり、ふたりは連れだって神保町にくり出した。
前日の酒がまだ頭に残ったまま、誠は喫煙所のベンチに座った。記憶から裕子との口論のきっかけを探ったが、誠の記憶はアルコールによって落丁した本のようにその流れが辿れなくなっていた。
ただ、したたか酔っていたことと、頭に血が上り、裕子に札を押しつけて店を出たことは憶えていた。
これまでの裕子との口論は、ちょっとしたおふざけのような趣があった。しかし昨日誠は真剣に腹を立てた。あんなふうに誰かに対して感情をぶつけたことは今まであっただろうか? 思い出そうとしてみたが思い出せない。誠はため息をついてうなだれた。とにかく、おれはあんなふうに振る舞うべきではなかった。――誠は腕時計に眼を落した。遅い、普段なら来ている時間なのに。もしかしたら、裕子との仲はあれで終わってしまうのではないか? そう考えると不意に冷たい不安が腹の底からこみ上げてきた。
「どうしたの? 二日酔いで気分が悪いの?」
誠が顔を上げると、裕子がいつも通りの表情でヒールを鳴らし、喫煙所に入ってきた。誠はぽかんと裕子を眺めた。「いいや」
「わたしは二日酔い気味」。裕子はベンチに腰かけ、ピースのフィルターをちぎり、灰皿に入れた。「そうそう。昨日のお金多かったから返すよ」
「いや、いいよ。それより昨日はごめん」
「わたしの方こそ。というより、わたしがいけなかったの。誠くんの好きな作家をけなしてけしかけたのだから。その辺の記憶はある?」
誠は首をふった。「どうして?」
「素の誠くんを見てみたかったから。誠くんは誰にでも礼儀正しく親切で、丁寧な言葉づかいをするけど、それはどこか、フィルターを通して濾過されたもののように感じるの。もちろんそれはそれで誠くんのいいところなんだけど、その前、濾過される前には一体どんなものがあるんだろうって、純粋な好奇心」
「それで、探しものは見つかった?」
「まだね。でもあんなふうに感情を爆発させるとは思わなかったから、興味深い収穫はあった。誠くんはどこで何をしてその不満をためこんでいるのかしら?」
机の引き出しにしまった書きかけの小説を誠は思った。「誰でも現状に満足できず不満を抱えている。僕だけ特別なことはないよ」
「本当に?」、裕子は誠の瞳を覗きこんだ。「なんか納得できないけど、この話はまた後で。話の流れで忘れかけたけど、とにかくお金、多かった分は返すから」
「いいって言ったじゃないか」
「だめ、受け取れない」
「僕も受け取れない。そろそろ授業はじまるよ」
裕子は頬に掛かった髪を流した。「じゃあ、預かっとく。今度飲みに行ったとき、このお金をふたりで使いましょう」
時間が経つにつれ、誠はどうしようもなく裕子に惹かれていった。誠はこれまで裕子のような異性と出会ったことがなかった。というより、同性にも裕子以上に一緒にいてしっくりくる友人はいなかった。好きな音楽を聴いて美味い酒を見つけて、その話を共有して楽しめる誰かのいることが、生活に温かみと張りをもたらしてくれることに喜びを感じた。そして裕子との思い出を辿ると心は軽く小説の筆も進んだ。
しかし、自分は裕子に相応しい人間か? と考えると誠の出せる答えは否定的なものだった。自分の将来のビジョンを明確に描いて前に進んで行く裕子に対し、やりたいことに自信が持てず、ただ小説と呼べるかも疑わしい文章を書き続けている自分には何も裕子に差し出せるものがない。それに、自分の想いを言葉にしてしまったことでこの関係が崩れてしまうのではと恐れた。いい弟、いい友だち、といった裕子の言葉は、バラのとげのように誠の胸を刺した。たしかに学校で裕子と打ち解けて話しができるのはおれくらいだろう。けれど、裕子の口からたびたびあがる早稲田や地元の友人、そして幼馴染はおれと同じような、いや、もしかしたらもっと親密な関係を築いているのかもしれない。
とくに幼馴染の彰人の存在を誠は不安に思った。
以前、誠は裕子からその幼馴染の写真を見せてもらったことがあった。お互いの両親も仲が良く、一緒に京都へ家族旅行をしたときのもの、と裕子は言った。整った顔立ちに穏やかな瞳が育ちと性格の良さを示唆している。ゆるくパーマのかかった羊の角のような髪は可愛らしいと感じる女性も多いだろう。写真を見た誠に、この男にはどうあがいても勝てないのでは、という雄の本能が働いた。通っている大学のレベルも自分より上だ。誠の心は寂しさと嫉妬の感情で揺れた。
今はこの関係でいい。もっと自分が成熟して、自信の持てる人間になったら裕子に想いを告げよう。
しかし誠がその想いを告げる前に誠と裕子の仲は変わらざるを得なくなってしまった。
前期の授業の最終日、ふたりはふたりだけのささやかな打ち上げを、行きつけのバーでやることにした。
「告白された?」
店を出て御茶ノ水へ向かう途中、誠は裕子に聞き返した。空は黒く澄み、雲ひとつなく月が白く輝いていた。思い返してみれば、今日の裕子はフォア・ローゼスを飲んでいるときも、好きな曲がかかったときも、どこかうわの空でぼおっとしていた。生暖かい風が誠と裕子の間を抜けてゆき、街路樹の銀杏がざわめいた。
「どんな人なの?」
「彰人」裕子はポツリと言った。
「幼馴染の……」誠は臆病に震える胸からなんとか声を絞り出した。
「うん」
誠はじっとり汗ばんだ手のひらをジーンズのヒップ・ポケットのあたりで拭った。カナブンが無軌道な飛行曲線を描き、居酒屋の窓ガラスに当たって落ちた。
「慶応の法学部でもう公認会計士の資格をとっていて顔もいい。性格はむかしから知っている。むしろ今まで付き合わなかったのが不思議なくらいだ」
「たしかに真面目でいいやつだけど、ちょっと固いのよね。お酒も煙草もやらない。むしろわたしにやめて欲しいと言うし、音楽も聴かない。そういう話がしたいときはもの足りなく感じてしまうの……でもそれより幼馴染という関係で、今まで築いてきたものが変わるのか変わらないのか? そういうところが上手くイメージできないからというのが大きいのかもしれない。だから今まで告白されても踏みきれなかったのだと思う。でも何回も断るのも悪い気がして……」
誠は冷静になろうと裕子の話を静かに聞き、注意深く相づちを打った。ふと、なんだか膝から下がなくなってしまったかのように歩いている感覚がないな、と誠は思った。
「今回はどうするの?」
まぶたに影が差し、裕子は軽く俯いた。長い髪がはらりと落ちて横顔を隠した。「どうしたらいいと思う?」
誠はアルコールと裕子の言葉によってバラバラになった思考を必死にまとめた。
「付き合ったからといって、幼馴染であるという事実は変わらない。付き合うことによって今まで見えなかったお互いのいいところや、わるいところが見つかる可能性がある。それがふたりにとって、かけがえのないものになるかもしれない。変わらないことより、むしろ変わることの方が自然なんだ。世界も自分も常に変化をしている。一秒たりとも同じ瞬間はない。だから怖がることは何もない」、誠は少しのあいだその先の言葉を言おうか迷った。「今のまま回答を先送りにしていても同じことの繰り返しになるだけだと思う。裕子はとても魅力的な人間だ。でも彰人さんもたぶん同じくらい魅力的な人間なんじゃないかな。もし裕子が告白を断ってしまったことによって、彰人さんがほかの誰かと一緒になってしまう可能性はゼロではない。いつまでも傍にいるとは限らない。裕子は彰人さんがほかの女の子と一緒になってしまってもいいの?」
相変わらず裕子は俯きながら歩いている。そこから表情は読み取れない。歩道をすれ違う人々や立ち並ぶ飲食店の灯かりもぼやけて見え、話し声も走り去る車のエンジン音もどこか遠くに聞こえる。――変わるのを恐れているのは自分の方だ。誠は奥歯を強く噛んだ。
やがてふたりは改札口の前で立ち止まった。
「ありがとう。考えてみる」
裕子はかすかに微笑んだかと思うと、くるりと背を向けて颯爽と階段を降りて行った。星の瞬きのような儚い微笑だった。裕子の姿が見えなくなり、微笑の余韻が消えるまで、誠はその場に立ちつくしていた。
夏が過ぎ後期の授業が始まった。講堂へ移動している途中、付き合うことにした、と裕子は短く言った。それはよかった、と誠は短く返した。
「よかった? 誰にとって?」
「みんなにとって」
「そう……、これからもよろしくね」
「こちらこそ」
誠は裕子の決断を覚悟はしていたが、実際に直面するとそのショックは予想以上のものだった。想像力の翼は折れて小説の筆は止まり、本を開くことさえできなくなってしまった。すべての出来事が枯れた井戸に桶を落とすようにむなしく思える。いつしか夜は乾き物をつまみに安いウイスキーをあおるという習慣がついた。そしてウイスキーを飲んでいるのか飲まれているのかわからなくなってくると、その辺に倒れて寝た。そんな生活が銀杏の葉が色づき、コートやマフラーが手放せなくなる季節まで続いた。夜の砂漠で遭難したように心と身体が凍てつく。当然のことながら誠は体調を崩した。
ベッドで布団にうずくまっていると携帯電話が鳴った。ディスプレイには裕子の名前が表示されている。誠は電話をとろうかどうかためらったが結局とった。
「どうしたの?」
「それはこっちのセリフなんだけど。もう三日も誠くんの姿を見てないからどうしたんだろうと思って。メールの返信もないし」と裕子は言った。
「ちょっと体調を崩しただけだよ。心配ない。ありがとう」
「ちょっとで三日も?」声のトーンがきつくなった。たぶん顔をしかめて言ったのだろう。「いいわ。どうせまともなもの食べてないでしょ? お見舞いがてら何か作ってあげるから待ってなさい」
「いや、大丈夫だよ。もう大分良くなってきたし……」
「最近どこかおかしいと思ってたら……待ってなさい」
裕子は誠の言葉を遮り電話を切った。誠はため息をつき、ベッドからふらふらと出て部屋に散らばった本やCDを片づけ始めた。
裕子は玄関でブーツを脱ぐと、細いフォックス・ファーのマフラーを取り、ベッドに腰かけた誠の顔をまじまじと見た。「痩せたね……髭も伸びて、でも顔色はそこまで悪くないかも」
「だから大丈夫だって言ったじゃないか。けど、わざわざありがとう」
「いいの」、裕子は買い物袋をテーブルに置いてキッチンに立った。新品同様の三角コーナーのネットが眼に留まった。「誠くん最近何を食べてたの?」
「ここ数日はほとんど食べてないな。その前はファースト・フードとかカップ麺とか……」
「それじゃあ体調もおかしくなるわよ。おかゆでいいかしら」と裕子はため息まじりに言った。「適当に音楽かけて」
誠はビートルズの『ラバー・ソウル』をデッキにセットした。裕子は髪をゴムで結び、『ドライブ・マイ・カー』にあわせてハミングしながら料理にとりかかった。誠は手慣れた様子で包丁を扱う裕子の後ろ姿を、何を考えるわけでもなく眺めていた。包丁がまな板に当たる音、換気扇の回る音、鍋から漂う昆布の匂い――ふと、あらためていい女だな、と誠は思った。もっと時間があったら、もっと自分が成熟した人間であったら……幼馴染であったらどんなによかっただろう。でも、と誠は考える。もしその条件が揃っていたとしても、裕子を手に入れられる保証はどこにもない。おれはどんな世界でも裕子を手に入れられず、彰人さんは手に入れられる運命にあるのかもしれない。
「手伝うことはある?」
「病人はおとなしくしてなさい」
「よく料理はするの?」
「用事のないときは夕飯を、あと休みの日は大体つくってるかも。なんで?」、 裕子は手元から眼を離さずに言った。
「手際がいいからさ。将来いい奥さんになれるんじゃないかな」
「ありがとう。あとちょっとかかるから本でも読んでたら?」
どこかそっけない声色だった。誠は心にひっかかるものがあったが、枕のわきの読み終えた小説をぱらぱらとめくった。
「とてもおいしかった」
蕪の塩粥としめじの入った卵スープを食べ終え、誠は言った。
「おそまつさまでした。誠くんあまりわたしの料理期待していなかったでしょ?」
「キッチンに立つまでは」
「ひどいなあ」裕子は笑って髪を耳にかけた。つられて誠も笑った。久しぶりに自然と笑う裕子を見た、と誠は思った。
「体調が戻るまでご飯作りにこようか? またぶり返すといけないし……」
誠は首をふった。「もう大丈夫だから。食生活には気をつける。それに彰人さんにも悪いし」
「どうして彰人の名前が出てくるの?」
「どうしてって、自分の彼女がほかの男の家に通っていたら、ふつう嫌な気分になるんじゃないかな? 僕が原因でふたりの仲をややこしくはしたくないんだ」
「でも今日誠くんの家に看病しに行くことは、ちゃんと彰人に言ってから来たのよ」
「それで、いいって言ったんだ、彰人さんは」
「そう」
誠は一瞬わけがわからなくなった。「怒った様子は?」
「ない」
「変わった人だ」
「困っている人がいたらほうって置けない性格なの。それに、わたしのことを信じてるから。昔からずっとそう」
音楽がとまり、部屋に静かな重い空気が満ちていった。裕子の言葉に誠の心は、風に翻弄される枯葉のように揺れた。「だけど、一方的に好意に甘えたくはない」
「誠くんはわたしのこと嫌い? 彰人と付き合うようになったから?」
「そうじゃない。ただ……」誠は宙に視線をやり、言葉を探した。「わからない。でも大丈夫だよ。信じて」
裕子はテーブルのグラスを手に取り、そっと口をつけた。「ならいいの。じゃあこの話はおしまい。誠くんがいないと退屈だから早く良くなってね。そしたら快気祝いでまた一緒に飲みにいきましょう。あとユニオンにも行って、ビートルズやツェッペリンのブートのチェックもしよう。誠くん、元気になったら楽しいことがいっぱい待ってるよ」
誰でも主役になれるわけではない。脇役がその役割を果たさなければ物語は破綻してしまう。自分は裕子の人生という物語において、そういう役回りなのかもしれない。おれはいい弟でありいい友だちの誠くんを演じなければならない。
「わかった」、誠は立ち上がり、本棚に並べたCDを前にした。「何を流そうか?」
「『コーダ』」と裕子は穏やかに答えた。
卒業式を迎えるまで誠は自分の役を無難に演じた。ふたり揃って授業を受け、夕方には本屋とCDショップを巡り、喫茶店やバーで買ったものの話や勉強のこと、将来のことを時間が許す限り語り合った。誠は裕子と遅くまで飲んでも終電には必ず乗せたし、もう家にも上げなかった。
裕子は希望通りに大学院に進学し、誠は最初に内定を貰ったOA機器のメーカーに就職を決めた。小説は在学中に5本仕上げ、純文学の新人賞に応募したがどの賞にもひっかからなかった。やはり自分に才能はないのだ、と誠は思った。ただ、裕子の告白を聞いてから書けなくなってしまったままの作品だけが心残りだった。
武道館で式を終え、ふたりは昼からやっている居酒屋で酒を飲み、あいだに一軒はさんでからいつものバーに向かった。そしていつもどおり裕子の終電に間に合うように店を出た。
いつもとちがったのは、裕子がひどく酔っ払っていることだった。まぶたは重く垂れさがり、頬には血の気がなく、唇はかさつき、足取りは覚束ない。ヒールが不規則にアーケードのタイルを鳴らした。マスターにお祝いで出してもらった「ブッカーズ」が効いたのかもしれない。こんな裕子の姿は四年間で一度も見たことがなかった。誠はそんな裕子の身体に触れて支えていいかどうか迷いながら隣を歩いた。
「家までもつ?」と誠は心配そうに尋ねた。
「無理そう。ちょっと肩かして」
裕子は寄りかかるように身体を誠に預け、誠の腕に両手を絡めた。心地よい重みが肩にかかった。うなじから昇る甘くやわらかな香りが鼻をくすぐる。誠は自分のなかに熱が疼くのを感じた。
「ちゃんと帰らないと駄目だよ」
「都内大学生、佐々木裕子さん23歳、卒業式後に多量の飲酒をして泥酔状態となり電車内で居眠り中に吐瀉物を喉に詰まらせて窒息死。新聞の地方欄の隅には載るかもね」裕子は誠を睨むようにして言った。「誠くんがそういう記事を読みたいのなら話は別だけど。誠くんはわたしのお葬式に来てくれるのかしら。まあボンゾと同じ死因は悪くないかも」
「わかった。うちに行こう。だからそんなことは言わないで欲しい」
裕子は顔を伏せ、安心して力を抜きぐったりとした。誠は一瞬よろめいたが姿勢を持ちなおし、家路を辿った。
家に着くと誠は裕子に水をたっぷり飲ませ、これでもかというほど厚着をさせた。自分のベッドに自分の服を着た裕子が横になっているのは不思議な眺めだった。頬には血色が戻り穏やかな表情で眼をつむっている。しかし油断はできない。誠は両の手のひらで頬を叩き寝ずの番につく決心を固めた。
「音をあげてくれない?」裕子がくぐもった声で言った。
「起きてたんだ」、誠はボリュームをつまんだ。ウェス・モンゴメリーの『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』もう何周しただろうか?
「ありがとう。それと……ごめんね」
「気にしないでいい。具合はどう?」
「かなり楽になった。誠くんもそろそろ寝ないと」裕子はもぞもぞと身体を移動させた。
「寝ないよ。ここでボンゾにならないよう見張っている」と誠は微笑んで言った。
「やさしいのね」
「そう感じてくれるのなら嬉しい。仰向けになって寝ないように」
「わかった」、裕子は再びまぶたを閉じた。
何かの呻くような音で誠は眼を開いた。眠ってしまったみたいだ。次第に意識は覚醒していく。裕子は? 誠ははっとして椅子から立ち上がった。ベッドに近づくと裕子は肩を震わせていた。大丈夫? 問いかけたが返事はない。オレンジ色の薄暗いあかりのなか、裕子は眠りながら泣いていた。まぶたから涙が音もなくシーツにつたう。誠は吸い込まれるように手を伸ばし、涙をすくい指先の温かな雫を舐めた。
駄目だ――このまま一緒にいたらいつか間違いを犯してしまう。誠は声にならない声をあげ、頭をかかえた。心が重い。悪い木の根が心に急速に根を張っていく気がする。壁に掛けた時計の秒針の音が誠に決断を迫る。誠は息を大きくひとつついた。――おれはここまでだ。あとは他の誰かにおれの役割を引き継いでもらうしかない。
コーヒーの匂いで裕子は眼を醒ました。窓から差し込む朝の白い光が部屋中を明るく照らし眩しかった。
「いい天気ね」
誠はポットから眼を離してふり返った。「おはよう。体調はどう?」
「おかげさまで悪くないわ」裕子は髪をかき上げた。「美味しそうな匂い」
「そろそろできる。ちょっと待ってて」
ふたりはテーブルに差し向い、熱く濃いブラック・コーヒーを飲んだ。
「月日が経つのは早いわね。もう卒業。わたしは大学に残るけど誠くんが社会人だなんて感慨深い」
「昨日も同じようなこと言ってた」と誠は笑って言った。
「そうだったかしら? 昨日は飲みすぎたわ。大学生活の最後にあんなみっともないところを誠くんに見られたなんて、失態」
「いい思い出になったよ」
「それなら良しとしておきましょう」と裕子は間延びした声で言った。「でもブッカーズだっけ? 美味しかった。仕事は忙しいでしょうけど、たまにはこっちの方にも顔を出してね。またバーにでも行きましょう」
誠は黙って肯き、カップに口をつけた。
御茶ノ水駅まで裕子を見送り、裕子を乗せた電車が行ってしまうと、誠は携帯電話をポケットから出し、肩を大きく回して神田川に放りこんだ。橋を渡る人たちはその光景を呆気にとられた表情で見ていたが、誠が歩きだすと視線を戻し、みな何事もなかったかのように歩みを進めた。
その日以来、誠と裕子は言葉を交わしていない。




