降りてくるもの
夜に仕事をするのが好きだ。特に秋と冬は良い。夜が長い。
区切られた部屋の中で、スイッチをパチンと押せば変わらぬ世界が出迎えてくれる。そこが良い。
「人工的な光で、自然光じゃないところだとはかどるの?不健康で貴方らしいわね」
妻に言われたことがあるが、失敬な。
草木も眠る丑三つ時、などと言うが、その時間は何と言っても降りて来やすい。台詞が展開がアイディアが風景が、頭の中に降ってくる。闇の中、どこからか落ちてくる雪のようにはらはらと。時には通り雨のようにざあざあと。受けきれないのではと必死に手を動かして、言葉にして引き出す。
すると自然、朝までパソコンに向き合うはめになる。カタカタと言う音だけが部屋に響いて、気がつけばカーテンの向こう側が白んでいる。
……そして、どうやらそんな習性を持っているのは私だけではないらしい。
「丑三つ時、さまさまですよ」
飲み屋の小上がりにて、同業者である田代は死んだような体で言った。
「やっぱりね、一時から三時までが勝負ですよ。そこで来てくれなかったら、次のピークが四時、五時に来るんだけど、これは滅多に来ない。十回中三回くらいしか来てくれない。やっぱり丑の刻には敵わない」
締め切りまで二十四時間を切ったところで、唐突に降りてきたらしい。書き上げて出したのが今日の朝だと言う話だった。
「起きたのがついさっきで、焦った焦った。朝の五時なのか、夕方の五時なのか、感覚が狂っちまって。寝過ごしたのかと……携帯の日付見て、ようやく安心したんですよ。本当」
壁に上半身を預けて田代はくだを巻く。眠そうに目尻をさすり、そのくせ口だけはよく動いた。
「何はともあれ、お疲れ様。そしてようこそ、新しい締め切りだ」
「どうも」
少しの毒を込めてねぎらうと、田代は薄笑いを浮かべた。カチン、とジョッキをぶつけあって、ビールを喉に送り込む。やり取りを見ていた数人が笑った。
ある出版社から短編アンソロジーの企画を持ちかけられた。その顔合わせの席だった。
若手、ベテランが入り交じった物書き八人と担当が一人。それではと音頭を取って乾杯した後、注文した料理も半分ほどは消えた。場の空気もなごみ出した頃である。
「なんで夜って降りてくるんでしょうね」
「生活音がないから、ですかね」
「あー、僕は逆に駄目ですわ、夜。眠気にとても敵わない」
打ち解けて来た若い面々の会話に、微笑ましいものを感じる。夜派、昼派、朝派、昼夜関係なく波が来たら没頭派……。同じ生業と言えど、それぞれ集中出来る時間帯も、原稿の書き方も違う。面白いものだ。
「庄司先生、追加でドリンク頼むんですけど、何か飲みます?」
ジョッキをぐいぐい傾けていると、紅一点の梅原が声をかけてきた。これ幸いとばかりに熱燗を頼む。
「良いですね、日本酒熱燗」
手洗いから帰ってきた遠藤が羨ましがる。のっぽの彼は長編書きで、短編の場に出てくるのは珍しい。聞けば、短編を書こうとするとなかなか既定の枚数に収まらないタチなのだそうだ。
「庄司さんこそ、短編は久しぶりですよね?」
水を向けたら、見事に自らの足下に跳ね返ってきた。
「まあ、息抜きってところかな」
酌を受けながら言うと、遠藤が半眼になった。
「言ってみたい台詞ですね」
「違う違う。長編の仕事を一本抱えているんだが、それが行き詰まった。唸ってるところに丁度この話が来た。そう言う意味での息抜きだよ」
「ははあ、それで。……長編、楽しみにしてますね」
「君の短編もね」
ご勘弁を、と彼は笑った。
目を転じると、空いた皿が積み重なって出来た二重、三重の塔が見えた。卓の向こう、田代、梅原、他二、三名はまだ『降りてくる』話をしている。何でも、ホラーを書くような作家だと、本当に丑三つ時にふさわしいような体験もあるらしい。
「……だから、私の知っているその人は夜に筆を執りません。どうしても夜に作業しなきゃならない時には、朝までやってるファミレスに行くそうです」
誰かが発した言葉の切れ端が耳に入ってくる。
「一人にならないで済むように、明るくなってから帰れるように、か」
「そう聞くと、真偽はともかくリアルで嫌だなあ」
談笑、また次の話題。そしてまた次の話題。それらを肴に、喉に酒と料理を流し込んだ。会は日付をまたいだ頃にお開きとなり、寒風の中、駅へとそぞろ歩いた。
***
帰る家は二つある。一つは妻と高校生の娘が待つ郊外の一軒家。もう一つは仕事場として借りているマンションだ。どうにも人の気配があると書けない性分で、結婚してから契約した。以来十数年使っている。今朝はそちらで目覚めた。
冴えない灰色の外観で、間取りは2LDK。
週に五日はこのマンションで過ごし、週末になると家族の顔を見に帰る。私鉄にほど近い立地なので、中央へ出て行く分には交通の便は悪くない。ただ、下り方面の電車では、やはりそれなりの時間は食う。
乗り継ぎを含め四十分少々。更に住宅街を歩いて十分ばかり。
一応週末に帰る、と言う体裁は取っているのだが、予定は未定。仕事が立て込んでいると、なかなか予定通りには行かない。昼夜が窓の外を上下するような一週間が過ぎ、はたと気がつけば日曜だった。恥ずかしながら、その気づけば、と言うのも自主的な気づきではない。午前も遅くなってから起き出すと妻からメールが届いていた。
『いくらを漬けたので、今日の晩ご飯はいくら丼です』
現金なものでこうなると俄然、家に帰る気になる。舌の上、醤油と酒の効いた柔らかい触感。瞬時にそれが想像され、しかしすぐさま電車に飛び乗るのも躊躇われた為、時間つぶしに本屋などをぶらぶら覗いた。
〈秋も見納め!おすすめ行楽スポットはここだ!〉
丁度、翌週に十一月初旬の連休が控えていたからだろう。自動ドアの先、平積みにされた旅行雑誌は紅葉狩りと登山の情報だらけだった。
ぱらぱらとページを繰ると、しとやかな木漏れ日を散らす山道や枝葉の赤と黄色が目に入る。お土産特集には、艶めいた串団子。まんじゅう。栗羊羹。
……いかん、いかん。
食欲に直結しがちな意識にカツを入れ、雑誌を元の場所に戻す。もう二、三軒本屋を巡り、床屋に入り、日も暮れてきたところで下りの電車に乗った。
出迎えた妻の第一声は「髪、さっぱりしたわね」からの「えらいわ」だった。
***
馴染みの床屋では、髪を流す際に前屈みになる。白い洗髪台の中に顔を突っ込むようにして、上からがしがし洗って貰う。さっぱりする。しかし、美容院のような所では髪を洗う時も仰向けのままだと言う。経験はないが見たことはある。今日も見た。
床屋の近くに小洒落た美容院が出来た。店舗の前面がガラス張りになっているので、中の様子がよく見える。洗髪台は向かって右側。店内に置かれた観葉植物と衝立のおかげで、客の顔や洗われている様子は見えない。斜めになった椅子の上、仰向けになった胴体と足だけが飛び出しているのが外側から見て取れる。
……仰向けで、美容師と目を合わせながら談笑して、そうしながら頭を洗ってもらうのだろうか。
夕食の皿が出揃うのを待つ間、ふと疑問に思ったので、娘に聞いてみた。すると、
「ないない」
一笑に付されてしまった。
「洗って貰う間は顔にタオルを被せてくれるんだよ。店によってティッシュだったり、ガーゼだったりするけど」
「ほう」
ティッシュにガーゼ。衝立の向こう側が更にシュールさを増した。
「目つむった所を見られるのも嫌だし、逆に目を合わせっぱなしも気まずいじゃん」
続けて説明され、私は納得した。もう一度想像して……ぞろりと忌避感がやってきた。降って湧いた連想があまりに不吉で、想像するのをやめた。
「おお、秋だ、秋だ」
娘がはしゃいだ声を上げ、「ご飯にするわよ」と妻が私を睨んだ。
食卓につくと黒のどんぶりの中、湯気を立てる白飯が目の前にあった。妻がおたまで魚卵をよそい、それをいくら丼にしていく。手を合わせ、口に含めば秋を見た。
程良い塩気と酒の風味。舌の上が華やかで、次の一口のため箸を伸ばせば視界も華やかだ。白米の稜線と上っ面を覆ういくらの分布が、山の紅葉のように見える。
「赤い食材って体に良いらしいわね」
食べながら、妻が娘に向かって言う。
「ああ、前にテレビでやってたような、やってなかったような」
「アスタキサンチン。たくさん食べなさいよ」
「でも、いくらって油分多そう。ニキビ出来ちゃう」
「気にする割には、夜更かしするじゃない」
「お母さんだって一緒でしょ」
女二人は笑う。が、気付いて欲しい。
この内から光る金朱。目にも綾な錦色。山陽に透けるモミジの葉を下から見上げたような清涼感。であるのに、実際は上から箸を入れ、ごっそりと白い山肌を削っていく矛盾、そして無情。
訴えると妻は少しの間、茶碗を見た。ついで、あなたは食べ過ぎちゃ駄目よ、と釘を刺す。、美容の話題へと帰って行った。
***
夜も更けた頃、布団の中で目が覚めた。階下から銃撃戦の音が聞こえてくる。嫌そうな、楽しそうな叫びと共に。私は頬を吊り上げた。
……物騒なのだか、平和なのだか分からない。
夕食を平らげ、風呂にも入った後。我が家の女衆はいそいそとテレビの前に集まる。バラエティ番組を見よう、と言うのではない。ゲーム機とソフトを出して、部屋を暗くする。いくらもしないうちに銃の乱射音とゾンビの悲鳴が聞こえ出す。
「お父さんもやる?」
たまに娘が誘ってくる。
が、いつも断る。
***
平常通り月曜がやってきて、その日のうちに仕事場へ戻った。いつもなら、一度帰った後は二週間ほど帰らない。が、巡ってきた次の土曜は、忘れずに家に帰った。娘から、情報のリークがあったのだ。
「先週に引き続き秋を食べる第二弾、きのこ鍋でございます」
うやうやしい言葉の割には乱雑な手つきで、娘が具材をすくった。秋は綺麗に平らげた。
風呂に入り、タオルを頭にひっかぶりながら居間へ向かうと、
「あーやだやだ、こっち来んな!こっち来んなってば!」
娘の叫びが耳に入った。
分かっていてもドキリとする。自分のことではない、と心を落ち着かせてドアを開けた。
照明を落とされた居間は仄暗く、画面の明るさだけで光源の全てをまかなっていた。 薄ら寒い光がギリギリ届く範囲に、娘が座り込んでいる。丈の低いテーブルの上には、ゲーム機が置かれていた。
発砲音、また発砲音。
「まだやってたのか」
「だってもうちょっとでセーブポイントなのに、お母さんが投げたんだもん」
「ほどほどにしろよ」
苦笑しながら見下ろして、ソファに座ろうと視線をずらした。
途端、呼吸が喉に張り付く。
「おい」
情けないことに、声が裏返った。
「はい?」
くぐもった妻の返事が返ってきた。
視線を下げるとそこに頭がある。妻の豊かな髪がソファの縁からこぼれている。額の生え際は見える。けれど、顔は見えない。白いタオルで覆われている。それが葬式に見る光景と酷似していた。
私は静かに息を吐く。気道から細い糸を吐き出すように、ゆるゆると。
すぐ脇で、娘が操作するコントローラがカタカタ言っている。ボタンを連打する微細な音。かと思えば小さな悪態。こんなに怖いものが近くにあると言うのに、娘はゲームに夢中だ。
「取るぞ」
声をかけ、片手でタオルを引き剥がす。何故だか知らないが、それはたっぷりと水を吸って重く、そして人肌に温かかった。手元にシールを剥がしたような感触が残る。本当は投げ捨てたいそれを、机の上に載せる。
「何するのよ」
妻が不満げな顔で文句を言った。あと三分は乗せてなきゃいけないのに、と私には分からない理屈をこねる。聞けばテレビで紹介されていた美容法だと言う。蒸しタオルをパック代わりに五分だか十分だか顔に当てると、肌に良いらしい。
「頼むから、俺が居る時にはやるな」
「なんで?」
理由を述べると妻は嬉しそうな顔をした。もぞもぞとテレビに向かう。何をするつもりか、と観察している私の前で、コントローラを掲げた。
「あなたもやらない?」
「やらない」
私がパチンと居間の電気を点けたので、娘の背がぴくりと跳ねる。丁度、画面にゾンビが大写しになった所だった。
「ちょっと、こう言うのは雰囲気が大事なんだからね」
怖いのならやめれば良いものを、ゲームを一時待機モードにし、壁際に手を伸ばす。
「目が悪くなるだろう」
すかさず、また点けてやった。娘が振り返らないまま、ぶうぶうと文句を言う。が、知ったことではなかった。おどろおどろしく響くゾンビの声と、妻の嬉しそうな悲鳴、時に娘の過激な悪態。それらを吸い込んで夜は肥えていった。