入学編 第八話
空は青く澄み渡り、桜並木の花が咲き乱れる通学路。商業区から学園までの道が一面桃色に染まり、春の陽気とともに今日から始まる新学期を祝福しているかのようだった。学園は生徒たちであふれかえり、どこもかしこも賑やかだった。
真新しい制服に身を包んだ新入生たちが、まだ初々しさを残した表情で歩く中、在校生たちは恒例の部活勧誘合戦で盛り上がっていた。さすがはお嬢様学園といえど、この時ばかりはまるで学園祭のような騒がしさである。
「ごきげんよう」
そんな喧騒の中、百合の後ろから聞き慣れた声がして、駆け寄ってきたのは由美だった。
「ああ、ごきげんよう、由美」
「ごきげんよう、由美」
「恵さんもごきげんよう」
三人は互いに挨拶を交わし、にこやかに微笑み合う。
「ふふ、一週間ぶりですね。お二人とも」
「そうだな」
「な〜に? 一週間も百合に会えなくて寂しかったとか?」
「そ、そんなことはありませんわっ!」
顔を真っ赤にして慌てて否定する由美に、からかう気満々の恵がニヤリと笑う。
「焦ってるところがますます怪しい〜」
わいわいと楽しげな二人のやり取りの中、百合はどこか静かだった。
「……」
「どうしたんです? 百合さん」
由美が不思議そうに尋ねる。百合は歩きながら、しきりに後ろを気にしていた。
「ん? ああ、なんでもない。ただ、ちょっとな」
百合は軽く誤魔化して答えるが、その視線の先には、大きな学園の門と、その手前でじっとこちらを見つめる小さな影があった。――由美の専属メイドである。
その視線は明らかに警戒心と敵意を含んだものだった。
「……ほう。この距離で気づくとはな……」
薄く笑みを浮かべ、百合は小さく呟いた。その笑みは、普通の少女やメイドが浮かべるような柔らかいものではなかった。
『従者か……護衛も兼ねているのだろうな』
隣で談笑する由美を一瞥しながら、百合は心中で考える。あのメイドから感じた殺気は、過去に護衛任務に就いていた時に接した熟練の先任兵に通じるものだった。それどころか、あれ以上かもしれない。
『まあ、ガーディアンとしての警告、というところか』
暗殺者とは違い、護衛の役割を担う者はあえて殺気を周囲に放ち、敵意を持つ者の戦意を削ぐ。護衛対象に手を出そうものなら即座に排除する、という強い意思表示である。
さすがは、要人の子女が集うお嬢様学園――百合は内心でそう納得しながら歩を進めていると、前方からざわめきが起こった。視線を向けると、校舎前に大勢の人だかりができていた。
「ほえ〜、あれが“三女神様”かぁ」
恵が感嘆の声を上げる。群衆の中心にいたのは、ひときわ目立つ三人の少女たち。その中のひとり――長身で凛とした雰囲気を纏う風紀委員長・土方詩織の姿に、百合はすぐに気づく。隣にはセミロングの整った髪をした少女と、ボリュームのあるロングヘアの少女が談笑しながら歩いていた。
「すごい人気ですね」
由美が感心したように声を漏らす。三人の周囲には自然と人垣ができており、まるで兵士を従えて進軍する指揮官のようだった。
その群衆が百合たちの前を通りかかったそのとき――詩織が足を止め、気づいたように声をかける。
「ん? ああ、君か」
「ああ、ごきげんよう、お姉さま」
百合は特に興味もなさそうな調子で挨拶を返す。
「ふふ、君らしいな」
「意味がわかりませんが?」
口をへの字にして不満げな百合の様子に、詩織はくすりと笑う。
そのやり取りを間近で見ていた由美と恵は、言葉もなく見つめ合った。
「どうした?」
「いやぁ、なんて言ったらいいのか……すごいね」
「そうですわね……」
二人は驚きを隠せない様子で顔を見合わせた。
「意味がわからん」
ぽつりと呟く百合。その表情を見て、詩織はさらにおかしそうに笑うのだった。
「詩織お姉さま、こちらは私たちの友人、羅豪由美さんです」
しばらく談笑を続けていた詩織に、恵が由美を紹介する。
「羅豪由美です。ごきげんよう、詩織お姉さま」
「ああ、ごきげんよう。なるほど、君が――」
そう言いながら、詩織はすっと手を差し出す。それに由美は笑顔で応え、丁寧に握手を交わした。
「ねえ? そろそろ私たちにも紹介してくださらないかしら、詩織」
そんなやりとりの最中、詩織の後ろから楽しげな声がかかる。声の主は、柔らかな微笑みを浮かべた少女だった。
「ああ、すまない、美咲」
詩織が軽く詫びながら横にずれると、彼女の背後にいた二人の少女が前に出てきた。
「こちらは、同じ寮の生徒で――新入生の龍徳寺百合さん、吉田恵さん、それから羅豪由美さんだ」
詩織が順に紹介すると、三人はそれぞれ丁寧に会釈をする。
「初めまして、私は神宮寺美咲。生徒会長を務めています」
「私は御剣 舞。学生総代を務めています」
落ち着いた口調で挨拶を交わすふたりに、百合たちもそれぞれ簡潔に返礼する。
その様子を周囲の生徒たちが遠巻きに見守っていた。学園の象徴とも言えるトップ3と挨拶を交わす光景に、羨望と好奇の視線が集中し、百合たちはどこか居心地悪そうに感じていた。
「――ふむ。すまないが、先を急いでいるので、そろそろ失礼してもよろしいですか?」
周囲の視線に困っている由美の様子を察し、百合がそう口にする。その言葉に一瞬驚いたような表情を浮かべる神宮寺美咲だったが――
「そうですね。私たちもそろそろ行きましょう、詩織、舞さん」
すぐにいつも通りの落ち着いた表情に戻り、軽く会釈をして立ち去っていく。
トップ3がその場を離れると、周囲の生徒たちもようやく好奇心を収め、自然と解散していった。
「しっかし……すごい人気だったよね」
恵が感嘆まじりに言う。
「ええ、本当にあの三人にはオーラがありましたわ」
「そうか? まあ、人望はあるのだろうな」
あまり興味のなさそうな百合の返答に、恵と由美は苦笑する。
ここ聖盾女学園において、委員会の権限は非常に大きい。特に三大委員会――『生徒会』『風紀委員会』『学生総会』の影響力は絶大であり、学園の規律を定める校則の制定、各部活や委員会への予算配分、さらには人事に関する任命権まで掌握している。
「なんていうか……私からすると、雲の上の存在って感じよね」
「そうだな。たまに挨拶する程度で、基本的には関わりはないだろう」
「ええ、そうですわね」
そんな会話を交わしながら、三人は教室へと向かって歩き出した。
……
…………
「それにしても、羨ましいですわ」
「ん? 何が?」
教室に入ると同時に、由美が小さな溜息を吐いた。
「だって、恵さんと百合さんは同じ寮で一緒に生活していらっしゃるのでしょう? 私だけ実家通いだなんて、ちょっとずるいですわ」
少し不満げに頬を膨らませる由美。その様子に、恵は苦笑する。
「うーん、そう言われてもねぇ。そればっかりは仕方ないんじゃない? 由美は寮生活に切り替える手続きとかできるの?」
「それが……難しいかもしれませんの」
「そりゃそうか。羅豪財閥のお嬢様が一人で寮生活なんて、ご両親が簡単に許すとは思えないわよね」
羅豪財閥――重工業を中心とする日本屈指の大企業。神宮寺財閥、龍徳寺財閥と並ぶ三大財閥の一つである。
「一文字違いで大変なことになるのは、百合さんのところとですね」
「ああ、そうだな」
百合は淡々とした口調で、特に興味も示さずに頷いた。
「でも、もし百合さんが“龍徳寺”のご令嬢だったら、もっと早くお会いできていたかもしれませんね」
「さすが財閥のお嬢様、やっぱり上の方は自然と顔見知りなんだ。生徒会長とも?」
「ええ。親しくはありませんが、お名前や噂はよく耳にしますわ。才色兼備で文武両道、まさに模範的なお嬢様と」
「うわ~、完璧すぎて憧れすら通り越すわね。私なんて、どう頑張っても敵わないわ」
「そうだな。お前じゃ到底相手にならん」
肩を落とす恵に、百合が追い打ちのように言い放つ。
「ちょっと、もう少し慰めてよ!」
恵がむくれると、ふふっと由美が笑った。
「でも、お話を戻しますけど……私、本当に寮生活してみたいんですの。だって、お二人があんなに楽しそうにお話されていて、私も一緒にいたくなってしまいますわ」
恥ずかしそうに目を伏せながらも、はっきりと想いを口にする由美。その素直な気持ちに、恵が目を細めた。
「でもさ、実際のところ、ご両親が許してくれるかどうかよね。一人で寮生活は、ちょっとハードル高いかも」
「ええ……それが問題なのです」
「ん? だったら、一人じゃなければいいのでは?」
ふと、百合が何気なく口にする。
「え? 誰かと一緒にって……寮って基本、一人部屋じゃない?」
「いや、そういう意味ではない。由美には従者がいるだろう」
「あ、シルビアさんのことですの?」
「あー、あの金髪で目つき鋭いメイドさんね」
「護衛も兼ねているなら、そのシルビアさんとやらと一緒に寮で暮らせば、ご両親も少しは安心されるのではないか?」
百合の提案に、由美は目を見開いて固まった。
「確かに……それなら……」
「それだけじゃないわ。『学園の敷地内の寮で生活した方が、防弾仕様の車で一時間かけて通うよりも安全で、従者も同居していれば護衛としての対応もしやすい』って伝えたら、説得力出るんじゃない?」
「なるほど……毎日片道一時間の通学は、確かに少し不安でしたし」
「えっ、そんなに時間かかってたの? それは大変だわ」
「ええ……車で通学するのも慣れましたが、やはり負担はありますわ」
「だったら、寮生活の方が安全で便利よね。あの従者さんなら、ご両親も信頼してるでしょ?」
「……妙に詳しいですわね、百合さん?」
「何、ちょっとした趣味だ。それで、どうする?」
「……そう、ですわね。一度、お父様に相談してみます」
由美は静かに頷いた。その横顔には、ほんの少しの決意が宿っていた。
――そして、その日。
授業は何事もなく始まったが、由美は一日中、どこか難しい顔をしていた。まさか、その“結果”が、あんなにも早く現れるとは……そのとき、誰も予想していなかった。