入学編 第七話
夕刻。学園の敷地内にある商業区、通称『中央区』。そのちょうど中心に位置する噴水広場には、普段であれば学生たちの活気が溢れているはずだった。
だが、新学期がまだ始まっていない今は、人影もまばらで静けさに包まれている。
それでも手入れが行き届いた人工大理石の噴水は、絶え間なく水を噴き出していた。
「……」
噴水の水は夕陽に照らされ、白い石肌を柔らかいオレンジ色に染め上げている。
春の冷たい風が頬を撫で、心地よさを感じさせる。
閑散としているとはいえ、明日からの新学期を控えて少しずつ学生の姿が見え始めていた。
学生だとわかるのは、この場所を訪れる際、たとえ休日であっても制服の着用が義務付けられているからだ。
さらに言えば、この商業区には基本的に一般人の立ち入りは許可されていない。仮に立ち入ることが許された者でも、IDカードを見える位置に着用する義務がある。
ショップの店員や警備員などの職員がそれに該当する。
もしカードの所持が確認できなければ、たとえ学園関係者であっても拘束され、処罰の対象となるのだ。
「平和だな……」
静かに噴水を眺めながら、今日一日を振り返ってぽつりと呟く。
寮では美里に散々説教を受け、新入生ということもあり、様々な質問攻めにも遭った。ようやく解放された頃には、日はすでに傾いていた。
「……恵には悪いことをしたかもしれんな」
お嬢様とはいえ、年頃の女子が集まればやはり賑やかだ。
そういった環境に慣れていない百合は、早々にその場から逃げ出したのであった。ちなみに、恵はそのまま残っている。
制服に着替え、出かけようとしたときに向けられた恵の鋭い視線を思い出し、思わず笑みがこぼれる。
「しかし……始まる前からこれでは、身がもたんかもしれんな」
小さく溜息をつく。
百合はこれまでさまざまな戦場を転々としてきた。環境の変化には耐性があるつもりだったが、これほどまでに“女子だけ”という空間は彼女にとって初めてであり、戸惑いを隠すことができなかった。
「とはいえ――」
「っ!?」
ふと厳しい表情になり、背後を振り返る。
「驚いたな……気配は殺したつもりだったんだがな」
そこには、長いストレートの黒髪に鋭い眼差しをした少女が、余裕のある笑みを浮かべて立っていた。
「残念だが、そういうのには慣れているのでな。……ところで、貴様は一体何者だ?」
「おいおい、一応私は“女”なんだぞ? それに先輩に向かって“貴様”呼ばわりとは、あまり感心しないな」
少女の制服の襟元を確認すると、確かに最上級生であることを示す紺色のタイが付けられている。
「生憎だが、気配を殺して背後に立つような者を敬うほど、私は人間ができてはいないのでな……お姉さま」
警戒を解かぬまま、百合は微笑みながら応じた。
「あっはっはっははっ!」
我慢できなかったのか、少女は大声で笑い出した。
「はは……すまんすまん。心から聞いていた通り、君は本当に変わっているな」
目尻に涙を浮かべながら、彼女は百合の肩に手を置いた。
「?」
「ああ、遅れたな。私は三年の土方詩織。君と同じ風月寮の寮生だ」
やや困惑した様子の百合に、詩織はにこやかに自己紹介をした。
「心から、夕食の時間が近いのに帰ってこない不良娘を迎えに行くよう頼まれてな」
腕を組みながら、軽く笑う詩織。
「……そうでしたか。それは失礼いたしました。私は龍徳寺百合です」
「ふふっ、今さら取り繕っても仕方ないだろう?」
「はっ? はあ……では、なぜ最初から?」
最初の印象とは違い、気さくに笑う詩織に、百合はやや戸惑い気味に問いかけた。
「なぜ? ああ、気配を殺した理由か……。いや、君の立ち居振る舞いが“普通の生徒”には到底見えなかったものでな」
「……そうですか。あまり試されるのは好まないのですが……それで?」
「ん?」
「私が訊いたのは、後ろ手に隠しているそれで何をしようとしていたのか――という意味でしたが?」
百合の指摘に、詩織は少し驚きながら両手を上げる。
「やれやれ、ここまでとはな」
詩織の右手には、クナイのような暗器が握られていた。
「ジャパニーズ・クナイ……つまり、お姉さまはニンジャですか。なるほど、それで気配を殺して……」
詩織の持っていた武器を見て、百合は妙に納得した様子を見せる。その様子に苦笑しながら、
「いやいや、別に私は忍者じゃない。まあ、こういう物を持っているのは、学園の“風紀”を守るためさ」
「そんなものが必要なほど、治安が悪いようには見えませんが?」
「表向きはそうだがな。この学園には、国内外の要人や財閥の娘なども在籍しているんだ」
「ああ……それで、ですか」
百合はようやく入学式の日に感じた異様な殺気の正体を理解した。
聖盾女学園では普段、外部の人間の立ち入りは厳しく制限されている。だが、入学式などの特別なイベントの際には、多くの保護者やマスコミが学園内に入る。その中には、政治家や財閥関係者といった要人も多い。
警備側にとっては、万一にもテロリストなどが紛れ込めば、大惨事になりかねないのである。
「まったく……君が無駄に気配を放つから、警護の人間が殺気立っていたぞ?」
「それは申し訳ありません。どうりで位置が特定できなかったわけです」
いかに百合が優秀でも、四方から殺気を向けられていては対処のしようがない。
その様子を見ていた詩織は、改めて感心したように、
「驚いたな。普通なら気づかないのだが……君、一体何者なんだ?」
少し警戒した様子で問う。
「ただの女学生ですよ。ただ、ちょっとだけ経験があるだけの」
――まさか、半年前まで兵士として紛争地帯で戦っていた、などとは言えるはずもなく、無難な答えを返す。
しかし詩織はあまり納得していないようだった。
「ああ、なるほどな。だが、“生兵法は怪我のもと”だぞ?」
「ええ。以後、気をつけます」
そう言って諭される百合。だが、それ以上は何も追及されなかった。
やがて空は完全に暗くなり、街灯の光が夜道を照らし始める。
外の様子を見て、これ以上遅くなるのはまずいと判断した詩織の誘導で、二人は一緒に寮へと戻るのだった。