入学編 第四話※2023年7/31 龍徳寺百合画像投稿
「はっ、はっ、はっ……」
まだ薄暗い午前五時。茶色いトレーニングウェアに身を包み、遊歩道を走る。
綺麗に舗装された道には、歩く人の姿は見当たらなかった。
静寂の中に響くのは、自分の足音と荒い呼吸音だけ。ランニングを終えると、今度は寮の庭で筋トレを開始する。
腕立て伏せに始まり、腹筋、背筋――一つ一つの工程を丁寧にこなし、余すことなく鍛えていく。
白い肌はうっすらと桃色に染まり、シャツは既に汗でびっしょりと濡れていた。
「197、198、199、200!」
すべてのメニューを終えた頃には、全身汗まみれ。
春とはいえ朝晩はまだ肌寒いが、トレーニングを終えた体からは、湯気が立ち上っていた。
「ふう、確か六時から風呂に入れるんだったか」
腕時計で時間を確認すると、現在は午前五時五十五分。
着替えを持って行けば、ちょうどいいタイミングで入浴できそうだ。
スポーツタオルで汗を拭いながら、寮へと足を向ける。
「ん?」
寮の入口手前で、ふと気配を感じて立ち止まる。少しだけ警戒しながら先へ進むと、そこに一人の少女の姿があった。
「どこにしまったんだっけか……あーもう!」
鞄の中をごそごそと探し物をしている様子。文句を言いながら、何かを探しているようだ。
制服姿からして寮生のようだが、念のため確認を取る。
「失礼。何か御用ですか?」
「きゃっ!?」
声をかけた瞬間、少女は驚き飛び跳ねた。
――しまった。いつもの癖で、気配を完全に消して接近してしまっていた。
目の前の少女に目を向けた瞬間、思わず見惚れる。
ボリュームのある銀色の髪が朝の光にきらめき、切れ長の目元と整った眉、白く透き通るような肌――まるで物語の中に登場するお姫様のようだった。
「えーと、ごめんなさい。どうも鍵をなくしちゃったみたいで……」
「そうですか。失礼ですが、学生証を拝見してもよろしいでしょうか?」
制服を着ているとはいえ、念のために確認は必要だ。
あくまで冷静に、丁重に身分の提示を願い出る。
「え、あたしそんなに怪しく見えるかな?」
どうやら気に障ったらしく、少女はあからさまに不機嫌そうな表情を見せた。
「いえ、寮の警備上の処置です。お気を悪くされたのであれば、お詫びします」
「ていうか、あんたこそ誰よ? 見たことない顔だけど。学生証持ってんの?」
今度は逆に問い詰められ、言葉遣いも荒っぽくなっていく。
「私は今年からこちらの寮でお世話になる一年、龍徳寺百合。学生証は寮内に保管していますので、今は提示できませんが」
「はあ!? 自分は見せられないのに、あたしには見せろって? しかも一年のくせに!」
完全にキレている様子で、怒りを露わにする。
「んあー……何を騒いでいるんですか、朝っぱらから……」
静かに寮の扉が開き、ぽや~んとした声が聞こえる。
見ると、心が眠そうに瞼をこすりながらこちらを見ていた。
「失礼しました。不審者と思しき人物がいたため、職務質問を行っていました」
「誰が不審者よ!? 誰が!?」
私の説明に、少女が勢いよく詰め寄ってくる。
「あー、薫さんが不審者だったんですね? じゃあ、お願いしますね?」
「ちょっ!? 心お姉さま!?」
「了解しました。丁寧に尋問し、しかるべき処置をいたします」
「ちょっと待った!? “丁寧な尋問”って、言い方だけ柔らかいけど、それって拷問でしょ!?」
「ほう、冷静な判断力だ」
「さすがですねー」
「そこで褒められても嬉しくないよ!? お願いだから、目を覚ましてください!」
「……何してるのよ? 朝から……漫才?」
騒ぎを聞きつけたのか、今度は洋子が顔を出す。
「あー洋子だ。おはよう~」
「はい、おはよう。相変わらず朝に弱いわね。それと、朝からあまり騒がないでもらえる?」
「すみません、洋子お姉さま。ところで、これ何なんですか?」
「“これ”とは失礼な。貴様こそ何者だ?」
「なっ!? 先輩に向かって“貴様”って……貴様こそ何者なのよ!」
「私は最初に名乗ったぞ? もう忘れたのか? それとも脳みそをどこかに置き忘れたのか?」
「むきぃ!!!!」
少し沸点が低いようだ。カルシウム不足か? というより、地団駄なんて久しぶりに見たな。
「とりあえず、洋子は顔を洗ってらっしゃい」
「はーい」
促すと、洋子はふらふらと洗面所へ向かっていく。無事到着したらしく、扉が閉まる音が聞こえた。
その瞬間、洋子がわざとらしく咳払いしてこちらに注意を向けさせる。
「あー、とりあえず百合さん? 彼女は不審者ではないわよ。彼女の名前は六峰薫。あなたの一年先輩、二年生よ」
「薫、彼女が今年からうちに入る新入生、龍徳寺百合さんよ」
――どうやら本当に先輩だったらしい。
「上級生でしたか。申し訳ありません。父から『見知らぬ人間は疑え。疑わしきは排除せよ』と教えられてきたもので……」
「どんな教育よ!?」
「薫? 言葉遣いが荒くなっているわよ?」
「……申し訳ありません」
「よろしい。それから、百合さんも」
「はっ。申し訳ありませんでした」
まさに“喧嘩両成敗”。洋子が冷静に仲裁に入る。
「はあ、もういいわ。百合さんは今からお風呂使うんでしょ?」
――そうだった。すっかり忘れていた。汗で体が気持ち悪い。
「はい、朝のトレーニングを終えたので、汗を流そうかと」
「じゃあ、早く行ってらっしゃい」
「了解しました」
「……あなたも、もう部屋に戻ったら?」
「あ、はい……」
一連の騒動を呆然と眺めていた薫に、洋子が苦笑しながら促す。
彼女は力なく返事を返すと、階段を登っていった。
その後ろ姿を見送りながら――
これからの日々を思うと、自然と大きな溜め息が漏れてしまうのだった。