入学編 第三話※2015年6月27日修正
「ふう……」
ひととおり片付いたか――。
部屋を見渡しながら、ベッドに腰を下ろす。
「むう……どうにも、こうやわらかすぎると落ち着かん」
ここ十年ほど、地べたか、よくて簡易ベッドでしか寝たことがなかった身としては、こんな高級素材のふかふかクッションにはまったく馴染みがない。
ベッドに沈み込むような感覚すら、どこか警戒心を掻き立てられる。
「仕方がない。今日は床で寝るか」
とはいえ、床には分厚い絨毯が敷かれているため、決して不快ではない。むしろ、今までの環境に比べれば、天国のようなものだ。
まあ、徐々に慣らしていけばいい――そう思いながら時計に目をやる。
夕食までは、まだ一時間ある。さて、どう過ごすべきか。
ふと、今朝の出来事が脳裏をよぎる。
(……そういえば、今朝のあの殺気。なかなかのものだったな)
久しぶりに感じた、あの緊張感。
あの感覚を最後に味わったのは、いつだっただろうか。あの日々は、今ではもう遠い記憶の彼方になってしまったが、身体がそれを忘れてはいない。
(やはり……私は、軍のほうが性に合っているのだろうな)
任務の連続、張り詰めた空気の中で生きる日々。命を懸けた駆け引きすら、今のこの静寂よりずっと「生きている」と実感できた。
とはいえ、もう後戻りはできない。
「……仕方がない。これは“長めの保養期間”と思って、過ごすとするか」
この環境にも、役割にも、いずれ慣れるだろう。
―――食堂、午後6時45分
夕食の15分前、言われた通り午後7時ちょうどを目指して食堂に到着した。
既に料理の準備は整っているのか、食堂内にはとても良い香りが漂っていた。大きなテーブルの中央には、美しい装飾が施された飾り台が置かれ、所狭しと皿に盛られた料理が並べられている。
(私が一番乗り、か……)
まだ恵の姿は見えない。どうやら、私が一番早く到着したらしい。用意された席に腰を下ろす。
目の前には銀製のフォークとナイフが高級レストランのように綺麗に並べられ、料理の隣にはワイングラスまで置かれていた。
「ふふふ、ワインは出てきませんよ?」
興味深そうに周囲を見回していた私を見て、心さんが微笑む。どうやら、よほど怪訝な顔をしていたらしい。
「そうでしたね。こちらの法律では、18歳未満はアルコール禁止でしたね」
「……20歳よ」
呆れたような声が背後から飛んできた。
振り返ると、苦笑いを浮かべた恵と洋子さんが立っていた。そのままふたりも席に着く。恵は私の右隣、洋子さんはちょうど正面の席へ。
「お待たせしました。洋子、ちょっと手伝って」
「ん、わかったわ」
私たちも手伝おうと立ち上がろうとしたが、心さんに制止された。どうやら今夜は“ゲスト”ということで、なにもしなくていいらしい。
しばらく待つと、温かい料理が次々と運ばれてくる。湯気とともに漂ってくる香りが、食欲をくすぐる。
「それでは――」
全ての料理が並び、全員が席に着いたところで、心さんが手を組み、祈りの姿勢を取った。
「主よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と体を支える糧として下さい」
「「「アーメン」」」
全員で祈りを捧げた後、食事が始まる。
料理は――驚くほど美味しかった。見た目に負けず、味も申し分ない。どれも丁寧に作られており、素材の風味がしっかりと生かされている。
黙々と食べていると、ふと恵が口を開いた。
「えーっと、寮生って先輩方以外に何人いるんですか?」
「えーっと、今年は……」
「新入生を含めて9人よ」
洋子さんが続けて説明を加える。
「あー、そうでした。私と洋子、あと三年生が一人、二年生が四人。そして一年生のお二人を加えて、合計で9人ですね」
他の寮生たちは、今は実家へ帰省中とのこと。新入生の受け入れ準備のため、心さんと洋子さんだけが学園から一足早く戻るよう依頼されていたのだという。
「そういえば、この寮での生活について、細かい説明をしておいたほうがいいですね」
食事を終え、食後のお茶を啜りながら、心さんが続ける。
「この寮、というより聖盾女学園では、上級生のことを『お姉さま』とお呼びするのが伝統になっています」
「お姉さま……噂には聞いていましたが、本当にあるんですね」
『お姉さま』という言葉を、どこか感慨深げに呟く恵。
確かに、自分の人生でそんな単語を口にした覚えは一度もない。
「お姉さま、か……」
試しに呟いてみたが、どうにも馴染まない。違和感の塊である。
「なぜでしょう、龍徳寺さんが言うとすごく違和感がありますね」
「その気持ち、わかるわ」
どうやら、私だけの感想ではなかったようだ。
「私は、どちらかといえば『姉上』の方が似合うと思います?」
「「ああー」」
なんだ、その納得したような声と表情は。
『姉上』……私はどこかの騎士か何かか。
「ま、まあ……最初は戸惑うとは思いますが、すぐに慣れますよ」
「そうね。今は違和感があるかもしれないけど、数ヶ月もすれば当たり前になってしまうわ」
「なんて言いますか、まるで大正とか明治の小説みたいな感じですね……」
「私も入学したばかりの頃は、同じような感想を持っていましたよ」
「まあ、そうね。でも強制ではないから、普通に呼ぶ子もいるわ」
そう言って、心さんが安心させるように優しく微笑む。
「それからもうひとつ。この寮では、上級生のお世話を下級生が務めることになっています」
続いての説明に、思わず背筋が伸びる。
学園では、上級生を『お姉さま』、下級生を『妹』と呼称する決まりがある。だがそれは単なる言葉遊びや、女学園らしい雰囲気づくりのためだけではない。
上級生――すなわち「姉」は「妹」である下級生の模範となり、生活面から学業まで、あらゆる面で指導的立場に立つ。
一方、「妹」は「姉」である上級生を敬い、その日々の生活を支えることで、自然と尊敬と信頼が育まれていく――そういう思想に基づいているのだという。
「とはいえ……今年は少子高齢化が進んでしまったので」
心さんが苦笑交じりにそう呟く。
(少子高齢化って……もう少し良い言い方はなかったのだろうか)
状況としては確かにその通りなのだが、あまりにも生々しい例えに思わずツッコミを入れたくなる。
今年の新入生は私と恵の二人。それに対し、二年生は四人、三年生は三人。単純に割り振れば、一年生一人あたり三人の「姉」を担当することになり、かなりの負担になる。
「でも安心して。姉が妹を選べるように、妹にも姉を選ぶ権利があるのよ」
「ええ。どれだけ上級生が望んでも、下級生が拒否すれば姉妹にはなれません」
なるほど。つまり、一方的に姉妹関係が決まるわけではなく、互いの同意が前提となっているらしい。現に、誰とも姉妹にならずに卒業していく生徒も珍しくないという。
「そういうのは無理にやらせちゃダメなんです」
「無理やり妹にさせられるとか、あまり想像したくないけど……百合はどう思う?」
「ん? まあ、無理やりというか、強引なのには慣れてるからな」
それを聞いて、自然と過去の記憶がよみがえる。
何も言わずに勝手な命令を下す上官――父。
末っ子の私に無茶な雑務を押し付ける先任たち――姉と兄。
そして、ここ三ヶ月ほどの間に特に強烈だったのが、孫ができて有頂天になった祖父母の振る舞いだ。
色とりどりの衣装を次々に着せられ、そのたびにカメラのシャッター音が響く。祖母などはアルバムにまでして親戚中に送りつけようとしていた。あれには本気で困った。
……思い出すだけで、思わずため息が漏れる。
「……なぜかは、聞かないでおくわ」
「賢明な判断だ」
「あ、あはは……それじゃあ、寮生活についての説明を続けますね」
「朝食は毎朝7時からです。お昼は学食でも、お弁当でも、お好きな方を選べます。もしお弁当が希望なら、こちらのボードにお名前を記入してください」
心さんは厨房の脇に掛けられたホワイトボードを指差した。
「まあ、ほとんどの子は学食を利用していますけどね」
ちなみに、この学園の学食は並の高級レストランを超えるクオリティだと評判らしい。確かにそれなら、学食で済ませたくなる気持ちもわかる。
「それから、厨房は基本的に自由に使用して構いません。料理をする方は遠慮なく使ってください。ただし、使用後はきちんと片付けをすること。これは絶対守ってくださいね」
心さんが念を押すように微笑んだ。
「夕食は、今日と同じく夜7時から食堂でいただきます。もし外食される場合は、同じようにボードに“不要”と書いてください」
この学園の敷地内には商業施設まであるという。食事処はもちろん、私服を取り扱うブティックや美容サロン、スポーツセンターなど、まるで小さな繁華街のような充実ぶりだ。
さらに、学園内では独自の通貨システムが採用されており、買い物などをする際は学生証を提示することで支払いが完了する。学生証にはICチップが内蔵されており、敷地内に設置された端末で残高や利用履歴などを随時確認することが可能だ。
「それと、お風呂は夜6時から11時まで、そして朝は6時から7時まで利用可能です」
寮の風呂は共用の大浴場で、全寮生が一度に入っても余裕があるほどの広さを誇るという。
「それから――門限は、基本的にありません」
「えっ、無いんですか?」
「はい。何時でも出入りできますよ」
驚いた声を上げる恵に、心さんは穏やかにうなずいた。
この学園は外界から完全に隔離されており、セキュリティも万全。そのうえ、在校生が深夜に不埒な行動を起こすことなどありえない、という信頼が前提になっている。
「とはいえ、年頃の娘が深夜に頻繁に出歩くのは考えものです。あまりおすすめはしませんね」
実際、風紀委員が夜間の巡回をしており、不審な行動を見つければ補導され、ペナルティを受けることになる。
「風紀委員って、そんなことまでやるんですね」
「ええ。この学園の委員会は、一般的なものとは少し違うかもしれません」
「当学園の委員会は、大きく分けて三つあります。『生徒会』『風紀委員会』『学生会』です」
さらにその下部組織として、部活動を統括する『部活会』、文化活動を管理する『文化会』、物販や運営を行う『購買部』など、多数の組織が存在している。
「学生の自主性を尊重する、というのが学園長の方針なんです。そのため、学園内の自治は基本的に学生たちに委ねられているんですよ」
「でも、それが“自由”という意味ではないわ」
洋子さんが真顔で補足する。
「ええ、洋子の言う通りです。たとえ学園内であっても、犯罪行為などが発生した場合は、速やかに警察や大人の方に対応をお願いしています」
もっとも、教職員や警備員が常駐しているため、そうした事態は滅多に起こらないそうだ。
「ほえー……思ったよりずっとすごいところなんですね」
「そうね。うちの学園ならではの制度もまだまだたくさんあるわ。それは、これから少しずつ覚えていけばいいと思います」
説明が一通り終わり、私もカップを手に取ってお茶を一口すすった。
(これは……慣れるまで、相当時間がかかりそうだ)
同じようにお茶を飲む恵の姿を見て、内心で苦笑する。
そうして、今夜はこのあたりでお開きということになった。