入学編 第一話※2015年6月23日修正
―――3ヶ月後
まだ少し肌寒さの残る春の日、真新しい制服に身を包んだ少女たちが、堂々とそびえ立つ校門を潜り抜けていく。
私立聖盾女学園。
都会から少し離れた、海に面した広大な敷地内に建設された、国内屈指の名門校である。
生徒数は1,000人以上。学園の外周には巨大な塀が巡らされ、まるで外界との接触を拒むかのように高くそびえていた。
そして、その物々しい警備の中を行き交う生徒たちの姿も、他の学校とはどこか趣が異なっている。
「「「「ごきげんよう」」」」
現代ではあまり耳にしなくなった、優雅な挨拶の言葉が自然に飛び交う。
それを、まるで呼吸するかのように当たり前に口にする少女たち。
スカートを翻さぬよう慎み深く歩き、まるで汚れを知らぬ天使のような、無垢な笑顔で大きな門をくぐっていく。
桜が舞う大きな並木道をさらに進んだ先には、まるで大正時代を彷彿とさせるような格調高い校舎が聳えていた。
季節は四月。入学式の真っ只中である。
まだ学園に慣れず、どこか戸惑った表情を浮かべる新入生たちが、玄関前の白いキャンバス(※記念撮影用の看板や布装飾を指す)に集まっていた。
だが、徹底した情操教育の成果か、あるいは緊張のためか、騒ぐ者の姿はほとんど見られない。
そんな整然とした集団から少し離れた場所に、一人の少女が静かに腕を組み、ため息を吐いていた。
肩まで伸びた漆黒の髪が陽光に照らされ、整った顔立ちと、程よく鍛え上げられた豊満な身体を引き立てる。
彼女の醸し出す雰囲気は、明らかに他の生徒たちとは異なっていた。
その名は――龍徳寺 百合。
そう、彼女こそがユーリ・グラハムである。
中東の激戦区から、平和の国・日本へと渡ってきた少女。その物語は、いま静かに幕を開ける――。
「寮生活……ですか?」
来月から通うことになる学校の制服の袖を合わせてもらいながら、私は祖父母にこれからのことを尋ねていた。
あれから約二ヶ月と少し。今、私は日本にいる。
広大な敷地の中に建てられた、風格漂う純和風の建物。その中で過ごす日々。
初めて嗅ぐ“畳”と呼ばれる床の匂いに、なぜか胸の奥がくすぐられるような懐かしさを覚えた。
――きっと、かつて日本で暮らしていた記憶が、どこかに残っているのだろう。
「そうじゃ。お前さんには、日本での生活に慣れてもらうためにも、寮に入ってもらうことにしたんじゃよ。
それと、学園では姓を『龍徳寺』と名乗ってもらう」
「龍徳寺? ……龍豪寺ではなくて、ですか?」
意味がわからなかった。
今までにも偽名を使った経験はある。だが、それは潜入任務や、自分の身を守るための非常時に限った話だ。
普通の学園生活を送るために、偽名を使う理由が見当たらない。
そんな私の困惑を察したのか、祖父母は説明を続けた。
「お前さんも知っての通り、日本は世界有数の平和な国じゃ。じゃが、だからといって、犯罪が皆無というわけではない」
「そう。それに、『龍豪寺』の名前のまま入学させてしまったら、恐らく学園生活に支障が出ると思ったの」
――なるほど。確かに、死んだと思われていた人間がいきなり現れたら混乱は避けられないだろう。
さらに、世界的に知られる資産家の娘となれば、周囲から浮いてしまい、“普通”の学園生活は送れない。
「それに、いろいろと用心のために、ちょっと設定を変えておいたのよ」
「養父であるフランク氏には、表向き“うちの社員”ということにしてな。お前さんは、その養子ということになっておる」
「なるほど……わかりました」
「やはり、いきなりの寮生活は不安か?」
「いえ。私はこれまで少佐と共に、さまざまな国や地域を転々としてきました。今さら寮生活を送ることに、不安などありません」
「でも、何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね? 私たちは、あなたの祖父母なのですから」
「はっ! お心遣い、感謝いたします。千代美殿」
思わずいつもの癖で敬礼してしまい、千代美――祖母は苦笑いを浮かべた。
「まずは、その“殿”付けと敬礼を直さんとな……」
「まあまあ、いいじゃありませんか正一郎さん。この子にいきなりあれこれ言っても、混乱させてしまいますよ」
「それもそうじゃがな。とはいえ、年頃の女子がこのような言葉遣いでは……」
「何を言っているんです。私はこの子に、あるがままの姿でいてほしいと思っているのです」
「むぅ……そうは言ってものう……」
「今まで、過酷な環境で生きてきたんです。今、私たちがいろいろ押し付けてしまったら、百合を困らせるだけですよ。ね?」
「えっ……いえ、そのようなことはありません」
「ふふふ、そんなに緊張しなくていいのよ。でも、次からは“おばあちゃん”って呼んでね?」
「はっ! 善処します」
「ダメです。命令です」
「え?」
「ふふふ……」
「了解しました。次回には」
「約束よ?」
「はっ」
――この人には、きっと敵わないのだろうな。
そう思いながら、私は入学と寮生活に関しての注意点を、祖父母二人からじっくりと聞いていくのだった。
「ふむ……やっと空いたか」
生徒数が多いとは聞いていたが、想像以上の人数だ。
白く大きなキャンバスのような立て看板に近づくと、自分の名前を探す。
上部には左から順に、A組からE組までのクラス名が記されており、その下に所属する生徒たちの名前が並んでいた。
左端から順番に目で追っていくと、思ったよりも早く自分の名前を見つけることができた。
(私の所属クラスは……A組か)
クラスを確認した私は、そのまま校舎の中へと足を進める。
長く続く廊下の先では、多くの生徒たちが楽しげに談笑していた。
一見すると、木目調の外観が時代を感じさせるこの建物。だが、近くで見るとどうやら最新の建材が使われているようで、造りはしっかりとしていた。
(……平和だな)
それが最初に抱いた率直な印象だった。
学校というものがどういう場所かは一応知識としてはある。だが――
この空気は、あまりにも緊張感がなさすぎる気がする。
――その時だった。
唐突に、背筋をなぞるような殺気を感じた。
思わず表情が引き締まり、足が止まる。
(これは……かなりの手練。場所の特定がまったくできない)
視線だけを巧みに動かし、周囲を探る。
だが、それらしい気配は一切見当たらない。すでに殺気は消えており、これ以上追跡することは不可能だった。
(……同業者か? いや、こんな場所にいるはずがない。となると――)
私はふと、一つの仮説にたどり着いた。
(……なるほど。これが、ジャパニーズ“ニンジャ”という存在か)
かつて戦場で共に戦った日本人、三枝――そんな名だっただろうか――から聞いた話を思い出す。
日本には、いまだに“忍者”と呼ばれる特殊技能者が存在しているという。
彼らは常に気配を殺す訓練を重ね、正体を明かすことなく人々の中に溶け込み、誰にも気づかれずに行動するという。
(……なるほど。ただの平和ボケした国というわけではない、ということか)
忍者か――一度、会ってみたいものだ。
銃火器を使わず、刃物と“忍術”と呼ばれる特殊な技で敵を殲滅すると言われている。
もし会えることがあれば、ぜひその技の一端でも教授してもらいたい。
そんな思いにふけっているうちに、私は目的地へと辿り着いていた。
教室の入り口上部に掛けられたプレートには、はっきりとこう記されている。
『1年A組』
(ここか……さて、私の席は――)
出席番号は40番。
教室内の座席は入り口から順番に並んでおり、私の席は窓側の一番後ろになる。
静かに教室へと足を踏み入れ、私は自分の居場所を確認するのだった。
(窓際か……)
普段ならあまり好ましくない席ではあるが、今となってはありがたい。
それにしても、この窓ひとつとっても、実に装飾が凝っている。
(……本当に、別世界のようだな)
鞄を机の上に置き、外へと視線を向ける。
校庭が一望できるその景色は、開放感があって心地よい。
窓を開ければ、春の柔らかな風が吹き込み、髪をふわりと揺らした。
「ごきげんよう。何か良いものでも見えるのですか?」
「ん? ああ、ごきげんよう」
声のした方へ顔を向けると、そこには可愛らしい少女が笑顔を浮かべて立っていた。
絹のように滑らかな白い肌、手入れの行き届いた長い髪、整った端正な顔立ち。
ぱっと見ただけで、生まれ育ちの良さが伝わってくる。
「いきなりごめんなさい。ずっと外を眺めておられたので、あまりに気持ちよさそうで、つい声をかけてしまいました」
「ん? ああ……そうだな。遮蔽物を気にせず外を眺められるのは、久しぶりだったのでな」
「え?」
「気にするな。癖みたいなものだ」
「ふふっ、変な癖ですね。それに、その話し方もちょっと変わってます」
「ん? そうか、変か?」
「いえ、なんというか……格好いいと思います」
「そうか。ありがとう。えーと……」
「由美。羅豪由美よ。よろしくね」
「ああ、私は龍徳寺百合。よろしく、由美」
由美はにこやかに手を差し出してきた。私はそれを握り返す。
シミひとつない、白く柔らかな手。その感触に、思わず目を奪われてしまう。
「……どうしたの?」
「いや、柔らかくて綺麗な手だなと思って」
「えっ、え、えっと……」
なぜか顔を赤らめてしまった。何かおかしなことでも言っただろうか。
「あ、ありがとう……」
「ん? どういたしまして。それで……」
「な、何ですの?」
「いつまで手を握っていればいいんだ?」
気づけば、私はずっと彼女の手を握っていた。
由美は慌てて手を引っ込めると、そっとその手を見つめている。
「……どうした? 気分でも悪いのか?」
頬が赤い。熱でもあるのだろうか。
「熱は……」
自分の掌を彼女の額に当ててみるが、よくわからない。仕方がない……
「~~~っ!?」
無言で顔を近づけてみると、由美の顔はさらに真っ赤になった。
呼吸もやや荒い。動悸か? これは思ったより深刻かもしれない。
「ふむ……熱はそれほど無いようだ」
「あの〜、お二人さん?」
そんなことをしていると、隣から気まずそうな声がかけられた。
「なんだ?」
「いやあ……別にいいんですけど、場所はわきまえた方が……」
「何を言っている?」
「ち、ちちち違うのよ!? こ、これは百合さんが勝手に……!」
由美は真っ赤になりながら、私との距離をとった。
「熱は無いようだ。ストレスが溜まっているのかもしれんな。とりあえず、よく眠って栄養のあるものを摂ることを勧める」
真剣に助言したつもりだったのだが、なぜか呆けたような表情をされてしまう。
声をかけてきた少女も、奇妙なものを見るような視線でこちらを見ていた。
「……何か変なことを言ったか?」
「い、いえ……気をつけますわ」
「あははっ、おもしろいね。君たち」
何がそんなに可笑しかったのか、目尻に涙を浮かべながら、もう一人の少女が手を差し出してくる。
「私は吉田恵。君たちの前の席になると思うよ?」
「そうか。よろしく、恵」
「で、私の手はどうかな? 結構手入れしてると思うんだけど?」
先ほどのやり取りを見ていたのか、意地の悪い笑みを浮かべながら尋ねてくる。
「んー、由美とそれほど変わらんな。私の手に比べれば、どちらも綺麗に決まっている」
そう言いながら、自分の手のひらを見せる。
今まで数多の任務をこなしてきたその手には、指先の硬くなった皮膚、所々に走る細かな傷跡が残っていた。
「へえ、結構ゴツゴツしてるんだ。にしては綺麗じゃん」
「そうですわね。質実剛健って感じですわ」
二人は珍しそうに私の手を触れてくる。
少しくすぐったいが、嫌ではなかったのでそのままにしておいた。
「そうか? まあ、鍛えているからな。それより……いいのか? 皆、移動しているぞ?」
「あっ!」
周囲を見渡すと、他の生徒たちはすでにグループを作って移動を始めていた。
「もうそんな時間か。じゃあ、一緒に体育館に行く?」
「ああ」
「ええ、もちろんですわ」
こうして私たち三人は、連れ立って体育館へと向かうことにした。
「へえ、じゃあ寮に住むんだ」
道すがら、三人は他愛もない話で盛り上がっていた。
「ああ。荷物はもう届いてるはずだから、今日の行事が終わったら整理しようと思ってな」
「そうなんですの? 私たちもお手伝いしましょうか?」
「いや、さすがにそれは悪いな」
「そうですか……」
由美は少し残念そうに俯いた。
「まあ、仕方ないよ。荷解きを手伝うってことは、百合の下着とかも見ることになるしね?」
「な、なななにをおっしゃって……!」
思わず目を見開く。
何を言い出すんだこいつは……。
悪戯っぽい笑みを浮かべる恵を見て、内心でツッコまざるを得なかった。
――というか。
「由美は私の下着を見たいのか? それくらい別にかまわんぞ」
そう言って、スカートの裾を両手で掴み、そのまま捲り上げようとする。
「ちょっ!? な、何してるの!?」
「ゆ、ゆゆゆ、百合さんっ!?」
驚いた二人が左右から慌てて私の手を押さえ、なんとか阻止する。
「……何をそんなに驚いている? たかが布一枚、見せようとしただけだぞ?」
私がまったく気にしていない様子で言うと、恵が大きくため息を吐いた。
「はあ……やっぱり変わってるね、百合は」
隣では、由美が顔を真っ赤にして俯いていた。
「まあ、いいもの見れたし、とりあえず急ごうか?」
「え? ええ、そうですね……って、何をおっしゃってますの!? 私は別に……っ」
「はいはい、わかってるって~」
恵は笑いながら早足で先へと歩き出し、それを慌てて追いかける由美。
二人の背中を眺めながら、私はふと思い出す。
「ああ、そういえば……今日は履いていなかったな」
そうだった。
今朝、下着が見つからなかったので、そのまま履かずに登校してしまったのだった。
まあ、これまでにも現地調達で装備を整える任務は何度もこなしてきたし、そこまで気にはしていなかったのだが――
流石に、下着は現地調達できなかった。当たり前といえば当たり前か。
ちなみにこの事実を知った由美と恵により、私は文字通り「拉致」され、購買部へと連れていかれた。
そして、短パンを購入し、その場で装備させられたことは……言うまでもない。