入学編 第十五話
午前十一時。
寮生や学生たちは、ちょうど学内で授業を受けている時間帯だ。そのため、この時間の商業区は驚くほど静まり返っていた。無理もない。商業区の利用者の大半は学生であり、その彼らが教室に閉じ込められている今、わざわざ足を運ぶ者などいるはずがない。
そんな静かな商業区に、ひときわ目を引く人影が一つ――。
金色の髪が陽光を受けてさらさらと揺れ、黒いロングワンピースに、ふりふりの白いエプロンを重ねたその姿は、どう見ても学生には見えなかった。
むしろ、どこかのおとぎ話から抜け出してきたかのようである。
その人物――シルビアは、商店街をゆっくりと歩きながら、何かを探しているように周囲を見渡していたが、やがて一軒の店の前でぴたりと足を止めた。
そして、入口の上に掲げられた看板を見上げ、小さく呟く。
「ここ……ですね」
看板には、英語で『Lapin』と書かれていた。
可愛らしくも洗練された外観は、若い女性に人気が出そうな雰囲気を醸している。
――最近、視られている。
昨晩、百合から告げられた言葉が、頭の中をよぎる。
『あれからいろいろ調べてみたけど、結局なにも出てこなかった。唯一、この敷地内で最近起きた変化といえば――』
学内に怪しい様子はない。教職員の異動もなければ、転入者もいない。警備も問題なく機能しており、何人かの顔見知りにさりげなく尋ねてみたものの、人員の入れ替えは「ここ最近していない」との返答だった。
あらゆる手段で調査を尽くした結果、ここ数日で確認できた唯一の変化は――
「この店がオープンしたこと、くらいですね」
パステルカラーの壁からは、ふんわりと甘い香りが漂っている。
可愛らしい洋菓子屋の店先には、「準備中」と書かれた小さな札が下げられていた。
一見、何も怪しいところはない。ただちょっと洒落たカフェが開店しただけ……そう思えるが――
「すみません。平日の営業は午後四時からなんです」
不意にかけられた声に、シルビアは顔を向けた。
そこに立っていたのは若い青年。年の頃は二十代前半だろうか。さらりとした黒髪に、爽やかな印象。白いシャツに黒のエプロンという清潔感ある装いは、いかにも「カフェ店員」といった風貌だ。
「そうでしたか。あまりにもいい香りがしていたものですから、つい足を止めてしまいました」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
深々と頭を下げたシルビアに、青年はやや恐縮したような笑みを浮かべた。
「ところで、あなたがこちらの店主でいらっしゃいますか?」
「いえ、店主は……えっと、開店前なので、調理中です。はい」
一瞬、「昼寝中」と言いかけたのを、シルビアは聞き逃さなかった。
問いただす気にもなったが、妙に気まずそうな青年の表情を見て、黙っておくことにする。
恐れているのか、こき使われているのか――どちらとも取れる雰囲気だった。
だが、それ以上に、シルビアが気になったのは別の点だった。
――洋菓子屋のウェイターにしては、体つきが良すぎる。
黒いエプロンの下、白いカッターシャツ越しでもわかる。しなやかに鍛え上げられた筋肉。
明らかにただのカフェ店員ではない。そんな直感が働いた。
「あの……何か?」
じっと見つめられていたことに気づき、青年が気まずそうに声をかける。
「ああ、失礼いたしました。不躾で申し訳ありませんが……何かスポーツでもなさっておられましたか?」
「え、えっと? そうですね。テニスを少々」
「テニス、ですか」
「……なぜ、そんなことを?」
「いえ。あなたがあまりにも魅力的だったものですから、つい」
「ははっ、そう言ってもらえると嬉しいですね」
謙遜しつつも、青年の頬はわずかに緩んでいた。悪い気はしていないらしい。
その様子を、シルビアは無表情のまま見つめる。
――テニス、ね。
「殺し屋は硝煙の匂いがする」なんて、まるで漫画や小説の世界の話だ。
現実ではそんなものは通用しない。
ちょっと鍛えているくらいで疑うのは早計だ。実際、人差し指にタコがあっても「ペンダコです」と言われればそう見えるし、小型の拳銃なら、女子高生でも扱える。命中させるには経験が必要だが――
――こんな平和な国で、それは考えすぎか。
思考を切り上げると、シルビアは穏やかに微笑んだ。
「では、お仕事の邪魔をしてもいけませんので、これにて失礼いたします」
「あ、はい。今度はぜひ、食べに来てくださいね」
「ええ。ぜひご相伴に預かりたいと思います」
深々と頭を下げ、背を向けるシルビア。
その後ろ姿が見えなくなるまで、青年はしばらくの間じっと見送っていた。
「……サボってないで、早く中、手伝って」
「はいはい。ちょっと待ってください、姉さん」
店の奥から飛んできた女性の声に、青年は慌てて店内へと駆け戻っていった。
一方その頃──
「はあ……」
「どうなされましたの、恵さん? ご気分が優れないようですけれども……」
「……ああ、ううん。大丈夫だよ」
「そう……でしたら良いのですが」
制服のブラウスのボタンを外しながら、心配そうに恵の様子を窺う由美。ここは一階にある女子更衣室。次の授業が体育のため、生徒たちは皆、着替えの真っ最中である。
「なんだ、朝飯でも抜いてきたのか? 無理なダイエットは身体を壊すぞ」
「まあ、恵さん。ダイエットをおやりになっておられるの?」
「違うわっ! なんでそうなるのよ!?」
「違うのか?」
「違いますっ!」
「でも、調子悪そうに見えるけどな?」
「……ああ、それはね」
恵はそう言って、カバンの中から一枚の布切れを取り出した。
「これよ!! これ!!」
「ブルマー……ですか?」
「うむ、ブルマーだな」
恵が広げて見せたのは、紺色をした旧式の体操服──いわゆる“ブルマー”だった。
「なんで今どきブルマー!? 短パンでいいじゃん! ていうかこれ、名前でごまかしてるけど、実質“紺色のショーツ”じゃん!? ってことは、私たちショーツ姿で体育やるってことよね!?」
「あ、あの、えーと……」
「わかる!? ねえ、由美!」
「えっ!? え? え??」
「だから、私たちは学園ぐるみで辱めを受けてるってことなのよっ!! なんでうら若き乙女が、太もも丸出しのパンツ一丁で走り回らなきゃいけないの!? それともあれなの!? お嬢様は見られると興奮しなきゃいけないの!? それってもう露出癖っていうか──きゃんっ!」
「落ち着け、阿呆が」
興奮のあまり由美に詰め寄る恵の頭に、容赦ないチョップが入る。チョッパーの主は百合だった。
「いたた……なにすんのよぉ……」
涙目で頭を押さえて抗議する恵。
「なにをする、はこっちの台詞だ。見てみろ、由美が混乱している」
百合に言われて、恵は視線を由美に向ける。そこには、気まずそうに苦笑いを浮かべる彼女の姿があった。
「え、ええ……ちょっと、びっくりしましたわ」
「うん、ごめん、ちょっと興奮しすぎた。でもね、恥ずかしいって思うのは本当なの」
「私からすれば、さっきから“パンツ”だの“太もも”だの叫んでたお前のほうが、よほど恥ずかしいと思うが」
そう言って周囲を指差す百合。その先では、クラスメイトたちが引きつった笑みを浮かべながら、こっそり距離を取っていた。
「いやあ、あははは……」
「大体な、これのどこが恥ずかしい? むしろ良いと思うぞ?」
「そうですの?」
「ああ。ハーフパンツに比べて密着している分、ずり落ちたり引っかかったりしにくい。軽量だし、動きやすい」
そう語りながら、大きく足を振り上げたり、スクワットしてみせる百合。しなやかで無駄のない動きに、周囲の視線も思わず集まる。
「すごい柔らかいですわね……私、そこまで足が上がりませんわ」
自分も真似して足を上げようとする由美だったが、あまりの硬さに「うーん……」と唸っている。
「そりゃあ、あなた様方のようにおみ足がお綺麗でしたら、お気になりませんことでしょうねえ……」
いやらしい視線でじろじろと二人の脚を見つめる恵。舐めるような目つきとはこのことである。
「ああ、なるほど。確かに、そう見られたら……ちょっと恥ずかしいかもな」
「恵さんの言う通りですわね。確かに、恥ずかしいですわ」
「なあっ!?」
恥ずかしそうに太ももを体操着の裾で隠そうとする由美。そして、それを真似て同じ仕草をする百合。ただし、由美は本気で恥じらっているのに対し、百合はにやにやとからかう笑みを浮かべている。
「はあ……あんたら、最近結託しすぎ……」
「そうか?」
「そんなことありませんわ」
「そうやって、私だけのけ者にするんだ……いいんだいいんだ……」
恵は床にしゃがみこみ、わざとらしく「の」の字を指で書き始めた。
「ほら、拗ねてる場合じゃないぞ」
「そうですわね。遅れては大変ですもの、参りましょう」
「え!? ちょっと待ってよ!? ……まったく、最近私の扱い、雑じゃない!?」
「そうでもない。親しみやすい証だ」
「ですわよ?」
「嘘だ~~~っ!!」
楽しげに更衣室を後にする二人と、慌ててそれを追いかける恵の姿があった。
体育館にて──
「そろそろ皆さんもクラスに慣れてきた頃だと思うので、今日は両クラス混合でチームを組んで、バレーボールの試合を行います!」
体育教師の号令が響き、準備体操と柔軟を終えた生徒たちに向けてアナウンスされる。そして、出席番号順に名前が呼ばれ、チームが編成されていく。
「ふっふっふ、よくぞ来たな。我、貴様らを待っておったぞ!」
「……なんだ、それは」
どこかで見たような決めポーズをとって仁王立ちする恵に、呆れたように溜息をつく百合。その隣では、クラスメイトの鳳さんが苦笑いを浮かべていた。
「ごめんねえ、ちょっと可哀想な子で」
「ちょっ!? それはヒドくない!?」
鳳 美穂。出席番号一番のクラスメイト。小柄な体格に短めのツインテール、大きくぱっちりした瞳。まるで小動物のような彼女は、その愛らしさからクラスのマスコット的存在となっている。
「鳳さん、ですよね。よろしくお願いします」
「ふふ、そんなに畏まらなくていいよ。同じクラスなんだし、気楽にいこう?」
いじけモードに入った恵を放置して、百合と美穂が会話を始める。ほぼ初対面のため敬語で話していた百合だったが、美穂に促され、すぐに普段の口調へ戻る。
「そうか。助かる。では、よろしくな、美穂」
自然体に戻った百合の言葉に、美穂は少し驚いた顔を見せた。
「ふふっ、本当に極端ですね。いきなり下の名前で呼ばれたの、初めてですよ」
「そうか? 馴れ馴れしかったらやめるが」
「ううん、ぜひそう呼んでください」
「あのー、おふたりさん?」
「ん?」
「はい?」
和気あいあいと談笑する二人の間に、ジト目の恵が割り込んでくる。
「私を無視して勝手に仲良くするんじゃないっ!」
「きゃっ!?」
「おっと」
両腕を広げながらダイブしてくる恵に驚く美穂。そして、慣れた様子でそのまま受け止める百合。
「ふっふふ〜ん♪」
「ずいぶんご機嫌じゃないか」
「そりゃあね! これでうちの勝利は約束されたも同然だし!」
胸を張って自信満々に笑う恵。どうやら勝利のイメージだけは完璧なようだ。
「えっと、でも私……足手まといになっちゃうかも……?」
「大丈夫大丈夫っ! なにを隠そう、私は中学時代バレー部だったのだ!」
「へぇ〜」
「なっ!? その目は何!? その反応は何!? ぜっっったい信じてないでしょっ!」
「いや、別に……?」
「ひどい、ひどいよ……みぽり〜ん!」
「変なあだ名つけないでよ、恵さん」
「え〜? 絶対かわいいと思うんだけどな〜。ねっ、さっちん!」
「……勝手に巻き込まないでくれる?」
呆れつつも苦笑しながら、美穂の頭を軽く撫でる少女──中村 祥子。百合の隣の席のクラスメイトである。
「まあでも、百合さんが同じチームなのは大きいよね」
「そうそう! 何せ学年トップクラスの運動神経の持ち主、歩く破壊兵器・百合だし!」
「誰が破壊兵器だ、誰が」
「で、そこに元バレー部エース(だったらいいな)の私、現役バレー部のさっちん! そして愛玩動物・みぽりんに、文学少女・桂ちゃん!」
「“だったらいいな”って、それ願望じゃないか」
「愛玩動物ってなによ、それ……」
「文学少女ってのは……まあ、悪くないですけど」
「私たち……もしかして、恵さんの中ではハンデ要員なのでは……?」
「でもでも! テンションは高いほうが勝ちって言うし! いけるって!」
自信満々の恵に、メンバーたちは半ば呆れつつも、どこか楽しげな雰囲気で盛り上がっていた。
「で、対戦相手は?」
そのとき、向かいのコートから静かに声が飛ぶ。
「ふふふ……楽しそうでよろしいですわね、皆様?」
そこに立っていたのは、にこやかな笑みを浮かべつつも、黒いオーラをまとった少女──由美。
「出たな魔王っ!」
「あらあら、恵さん? 面白いことをおっしゃいますのね」
相変わらず感情を読ませない、完璧な微笑を浮かべて、静かに返す由美。
「い、いや、由美? 今のは冗談だから……ね?」
「ええ、構いませんよ」
その笑顔は、まるで地獄から来た審判のように冷ややかで、それでいて完璧に優雅だった。
「うわ、あっちのメンバー……A組の運動部勢ぞろいじゃん」
「そうですね。由美さん以外、全員運動部の方のようです」
「ずるい〜っ!」
悲鳴まじりの声が響いたその瞬間、体育教師の号令がかかる。
「それでは、試合を開始してください!」
笛の音とともに、バレーボールの試合がスタートした。
体育館に響く、ボールの弾む音。生徒たちの歓声。そして……その熱気とは裏腹に、着々と点差は開いていく。
――そして、試合終了。
「くやしい〜!!」
「まあ、なんだ……まさか、こっちにもう一人ハンデがいたとはな」
「仲間ですね?」
「仲間仲間!」
「さっすが、元エース“だったらいいな”!」
「うっさいっ! うっさいってばー!!」
結果は……恵チームの、見事な(?)敗北に終わったのだった――。




