入学編 第十二話
風月寮には共用の大浴場がある。寮の地下に設けられたそれは、まるで温泉宿のような風情を漂わせる脱衣所に始まり、大型の洗濯乾燥機が四台並んでいる。寮生たちは自分たちでそれを使って洗濯を済ませるのだ。
脱衣所の扉を開けると、奥には広々とした浴室が広がっている。人造大理石で造られた大きな湯船。床はモザイクタイル仕上げで、断熱効果に優れ、なおかつ柔らかな素材が使われているのは、利用者が怪我をしないようにという配慮だろう。ちなみにこの大浴場は、ある資産家の寄付によって造られたものである。
「それで、何故あなたがここにいるのですか?」
「知るか。私はただ訓練後の汗を流しに来ただけだ」
早朝、湯船に浸かるシルビアの顔には、明らかに不機嫌の色が浮かんでいた。
「はあ……せっかく気持ちよく浸かっていたというのに、台無しです」
「それは悪かったな」
「悪いと思うなら、さっさと出て行ってくださいませんか?」
お互い一切顔を合わせることなく、言葉だけが宙を飛ぶ。
「それは無理だ。私も一応“華の女学生”なのでな。汗臭いまま授業に出るわけにはいかん」
「どの口がそれを言うのよ……」
思わず吹き出すシルビア。
「主が不在とはいえ、随分なものだな」
「私がこんな口を利くのは貴様だけだ。ある意味、特別扱いだ」
「そんな“スペシャル”は願い下げだ」
二人は背中を向けたまま、それぞれ身体を洗いはじめた。
「まったく……私の貴重なひとときが……最悪な気分だ」
「それはこっちの台詞だ。せっかくの朝シャワーが台無しだ」
「ふん……どこが“華の女学生”よ。そんな背中の傷、どこでつけてきたの?」
百合の背中を見て、シルビアが指先でなぞる。
「お転婆なものでな。どこかで転んだのだろう……そっちも、随分とお転婆だったようだが?」
今度はシルビアの腹の傷に指を当てる。
「勝手に触るな!」
「先に触ったのはそっちだろ」
「ああ!?」
「なんだ?」
睨み合う二人。
「いい機会だ、一度年上を敬うように教育してやろう」
「ほう、年下に本気になるような“大人”が教育を語るとはね?」
ぐい、と手を組み押し合う。
「ぐぐ……」
「むぅ……!」
互いに一歩も引かない。
そこへ──
「は~い、百合~。朝風呂に入ってるって聞いたから、背中流しに来てやったよ……由美が!」
「ええ、そうなのですが……って、えええっ!?」
ガラッ!
突然、浴室の扉が開いて、恵と由美の声が響き渡る。
「ああ、恵か……あっ!」
「お、お嬢様!?……わっ!」
恵たちが入ってきた瞬間、気を取られた百合とシルビアは足を滑らせ、そのまま豪快に湯船へダイブ!
「うわ~、やっちゃった」
「げほっ、げほっ……貴様っ!」
お湯が鼻に入ったのか咳き込みながら百合が詰め寄ろうとするが、
──ふにゅん。
何か柔らかい感触が手に。
「あ、なんか……デジャヴ?」
「ふふふ……」
「お、お嬢様!?違うんです、誤解です、お嬢様!!」
「まったく、朝から騒がしい連中ね」
「「誰のせいだ(よ)!!」」
こうして、今日も風月寮の退屈しない日常が始まるのだった。
私が日本の学校に通い始めて、早くも一ヶ月。生活にも慣れ、今では“普通の女学生”を演じることにもすっかり慣れてきた。
知ってるか? ここでは夜中に突然叩き起こされて集合させられることなんて、ないんだ。昔、学校に通っていたリチャードが「日本の訓練校では、教官たちが理不尽な命令をガンガン押しつけてくる」とか言ってたが、どうやら嘘だったらしい。
あまりに平穏すぎて、恵たちにそれを質問したら笑われた。……卒業して帰ったら、まず奴をぶん殴ろう。
──さて、そんなわけで、今の私は正座させられている。
理由はというと──
「あなたたち、寮内で騒ぎを起こさないよう、何度も注意しましたよね?」
大浴場の騒動に駆けつけた寮監・心から、現在進行形で説教を受けているからだ。
「イエス・マム」
「「申し訳ありません……」」
「シルビアさんも、ですよ?」
「……失礼いたしました」
横を見れば、シルビアも恵たちも同じく正座し、見事なまでに項垂れていた。
「いいですか? あなた方は聖盾女学園の生徒としての自覚を──」
「いや、そもそも私は生徒では──」
「言い訳しない!」
「……はい」
「なぜ私が……」という顔をしたシルビアを一喝し、心の説教タイムは延々と続いていくのだった。
「……酷い目にあった」
「誰のせいだよ、誰の」
「ええ、まったくですわね」
通学路の途中、ため息をつく百合に、呆れたように恵と由美が突っ込む。
最近では、百合を中心に三人で登校するのが当たり前になっていた。
「でもさ、シルビアさんも困った人だよね」
「ええ。でも普段はあんなじゃないのですよ。ただ、百合さんのことになると、ついムキになってしまうようで」
「百合もさ、シルビアさんにだけ対応が違うよね?」
「ん?」
「そうですわね。普段の百合さんなら、あの手の挑発なんて意にも介さないのに」
「ああ……なんでだろうな。彼女だけは、どうもな」
「それってつまり、シルビアさんは“特別”ってこと?」
「むぅ」
「特別か……まあ、特別といえば特別だな」
「へぇ~」
「むうぅ~」
「だって、あの立ち居振る舞い、普通じゃないだろ?」
「そうなの?」
「ああ、かなりすごいぞ」
「ふーん。で、どうなの? 由美」
「むむ……え?」
「由美、聞いてた?」
「え? ええ、聞いていましたわ。ええと……」
「シルビアさんのこと」
「え、ええ、そうですね。彼女は羅豪家に仕える十三人の“特別な従者”の一人で、序列は四位ですわ」
「んー、それってすごいの?」
「ええ。我が羅豪財閥には、各分野から選び抜かれた従者が108人おります。その中でも特別な訓練を受けた者が38人。そしてさらに、数々の試練をクリアした13人だけが“特別従者”として選ばれ、そこから実力で序列が決まります」
「つまり?」
「簡単に言えば、我が家の従業員の中で四番目に強い、ということですわ」
「なるほど、わかりやすい! さすが世界有数企業のお嬢様、護衛がすごいな」
「そんなことありませんよ。それに、この学園では安全ですし、シルビアさんにも羽を伸ばしてもらえると思っております」
「確かにね。この学園って、完全に外界と遮断されてるし」
上を見上げる恵。高い塀が空を分断していた。
「なんか、籠の鳥って感じだよね」
「ふふふ、そうかもしれませんね」
「まあ、ここにいるのは鳥っていうより、プテラノドンみたいだけどさ」
笑いながら百合の肩に手を置く恵。
「百合?」
だが百合は反応せず、じっと前を見つめている。彼女の視線の先には──一台のバンが停まっていた。
「ん? 新しい業者さんかな?」
「そのようですわね」
見慣れない男たちが、車から荷物を施設へと運び入れている。しばらくその様子を見ていたが──
「そろそろ行かないと遅刻するよ」
「ん? そうだな」
「ええ」
時計を確認して歩き出す三人。その背中を、バンの運転席からじっと見つめる男がいた。
バックミラー越しに彼女たちを確認し、手元の写真──そこには、由美の姿。
「ターゲット確認……」
男はタバコに火をつけ、にやりと笑う。そして、彼女たちの姿が見えなくなるまで、じっと見つめ続けていた。




