ピリリと辛い ▼ チンジャオロース
あの惨事からだいたい一時間が経過した。立て続けに何度も江本さんへメールを送るのだが、俺の失言を根に持っているのか返信は一通も返ってこなかった。
いつもはニコール鳴らせば出てくれるはずなのに、電話してみたところでツーツーと空しく機械音が聞こえてくるだけ。
最終的には今まで聞いたことのない音が電話越しから聞こえてきた。おそらく嫌がらせ電話する悪辣な輩を嫌がらせるために設定された音なのだろう。そんなこと、いくら鈍感な俺といえ想像に難くない。
――終わった。
――認めたくないが、終わった。
――まだ、なにも果たせていないのに。
「……ムシャムシャ、これ、美味い。大毅、料理上手い」
「あーそう……」
そして現在――目の前には、俺の華やかな青春にピリオドを打ちこんだ人間がいる。
サイズのデカイ椅子に腰をかけて、あり合わせの材料で作ったチンジャオロースをもそもそと食べている月雲。それを白い目で見つめる俺。失意の体をふるわせて中華鍋に適当な野菜をぶち込んで、怒りや悲しみや殺意をスパイスとして投入したことなどつゆ知らず、月雲はご機嫌を満面に浮かべてチンジャオロースを突っつきながら、ムシャムシャと米を頬張っている。
「ムシャムシャ、不本意ながら説明させてもらうけれど、今のは『美味い』と『上手い』……二つの意味をかけてみた」
「あーそう……」
「大毅、ムシャムシャ、今大毅が小気味よく『うまい』と叫べば、三連鎖だったのに……」
「あーそう……」
わかっていないなぁと、言わんばかりに落胆したような表情で眉をひそめる月雲。自分が犯した罪を一切自覚していない従妹の月雲美露はどうやら俺が怒っていることに気がついていないらしく、それゆえかこちらからは怒りだしづらい。怒るタイミングを完全に逸してしまったと言うべきか。
キャリーハンドルのついたトランクケースに入っていた替えの衣服はすべて濡れていたので、それらすべてを洗濯機に放り込んでから月雲には俺の服を着用するよう指示をした。ただ服のサイズが大きいため、月雲が前のめりになるたびに胸元に規格外の肉がちらつく。が、俺は負けない、そんな誘惑に絶対負けない。
「それより、大毅は食べないの? せっかく(大毅が)作ったのに」
「……あいにく食欲がねぇんだ」
「体が弱っている時は無理してでも食べないと体力がつかないってお婆ちゃんが言ってた」
「あーそう……」
誰のせいでこんな気分になってると思ってんだよ――殴りたい衝動をグッとこらえて、平常心を保つべく深呼吸を入れる。
とりあえず今は――一刻も早く説明してもらわねばならないことがあった。
「あのよ、いい加減に事情を聞かせてもらおうか……」
そう言って俺はコップに注いだお茶を一口で飲んだ。月雲も俺の仕草を真似するようにカップぎりぎりまで湛えた牛乳をグッと仰いだ。白ヒゲのついた口でさらにチンジャオロースをモグモグ頬張る。牛乳で米を食う人間なんて見たの小学校以来だぜ。
腹立つほど美味そうに飯を食いながらしゃべる月雲は、先ほどまでとは打って変わりやけに饒舌だった。
「……えっと、大毅と同じ高校に編入することが決まった。だから長野からわざわざ、きた、ムシャムシャ」
「まあ、それは知っている……。なんとなく話の流れから想像していた。地元を離れてこっちの高校にわざわざ編入しようとした理由は聞かねえし、この際どうだっていい。……そんなことよりも他に、お前は俺に話さなければならないことがあるんじゃないのか?」
「うん。寝室で下着一枚でいたのは私が変態だからという理由ではない。雨にぬれてしまったから着替える必要があった。それで大毅の服を借りようとあの部屋で着替えていたところだった。そこで偶然大毅と出くわした……ムシャムシャ」
「そのあとだよ、お前、どうしたか覚えてるか?」
「大毅が私に襲いかかってきた、ムシャムシャ」
「違うっ!! 俺が聞きたいのはどうして俺のパンツを被ってたのかってことだよ! あの荒い呼吸、そしてその後に言った狂気じみたセリフも含めて、しっかりと説明しろ!」
「それは、さっきも説明した通りでムラムラしていたから……あの、私も一応乙女なもので、察してもらいたいところ……ムシャクシャ」
「察しろったって、そこが一番わからねえんだよ! それと今、さり気なくムシャクシャっつっただろ!」
よくその口が「私は変態じゃない」と主張できるものだ。
「……私はムシャクシャしている。大毅、あなた私のことを邪険にしてるみたいに冷たい」
と平坦な口調。
ああ、コイツ、すごくムカつく。
言っていることの意味がわからないところが特にムカつく。
「邪険にしているつもりはねぇよ」
「だったら、大毅……」
「……なんだよ?」
「どうして私の名前をファーストネームで呼んでくれない?」
「ファーストネーム……だと?」
「昔は月雲、じゃなくて美露って呼んでくれてた。私、昔みたいに美露って呼ばれたい」
七年前か……いくら昔のことを出されたって覚えていないものは覚えていない。けれど記憶を失ってしまったことを説明するのも面倒だったので、適当な相槌を打っておくことにした。
「……昔は昔。そして今は今だ」
「なんか、長い時間をまたいだことにより、大毅と私の間に深い溝が刻まれてしまったみたいで、私……とてもさみしい」
正解だ。もっといえばそれは時間の介入によるものではなく、先ほどの出来事によって俺たちの間に深淵なる溝が生じた。言葉が通じないほどのアンポンタンだと評価していたが……改めよう、まっとうな思考能力はあるらしい。まっとうな思考能力のあるアンポンタンだ。
「……時は人の心を冷ます」
「うっせ! そもそもあたたまってもねぇし!!」
「でも、でもでもさっき大毅、私を初恋の人だって……」
くそ、思考停止していたくせに妙なことだけは聞いてやがったのか。
月雲は潤んだ瞳で俺を見つめて、コミカルな仕草で目を瞬いた。
「……私、すごく嬉しかったのに、あの言葉、嘘だったの?」
「…………」
「ねえ、大毅」
「…………ち」
小さく舌を打ったのち、月雲から逃げるように席を立って彼女に背を向けた。
どうしてコイツは、俺に好意を持った“ふり”をするんだろうか。七年にあれだけのことがあったのに。だから俺が恨まれることはあっても、俺がコイツから好かれる道理はない。それに月雲美露は初恋の人にすぎず、今の俺が好きなのは江本さんだ。
――あ……江本さん。
携帯電話は自室に置きっぱなしだ。もしかしたら、変態の面倒をみていた間にも江本さんからの返信があったかもしれない。こうしてはいられない。自室戻って確認せねばならない。
「……ちょっと、大毅。私の話、まだ終わってない」
「それ、食い終わったら、シンクん中にあるバケツに水貯めて、食器をちゃんとつかしとけよ。こびりついたら洗うのが面倒だからな」
「待って、立ち去るにしても、せめて、せめて、あと一杯ご飯を盛ってから、せめて盛ってから……あうっ!!!」
お茶碗を持った腕を伸ばしすぎて体勢を崩し、頭から派手にずっこけた月雲を無視して俺は自室に直行した。
そうしてすぐさまドアを背後にして、逆手で内側から鍵をかける。バクバクと高鳴る心臓の音を感じながら、机の上に置いてあった携帯の画面を見やった。折りたたみ携帯とは違って、開かずとも灯るモニタに――着信は――。受信メールは――。
…………。
部屋の電気を消す。
スススと部屋の隅まで移動する。
真っ白な壁に向かって体操座りをする。
ティーシャツの襟を持ち上げて、口もとに当てる。
声がもれないように下唇を強く噛みしめる。
よし、これで準備は整った。
「……く、うう……ああああ……」
いつまで経っても江本さんから返答のない電話を握りしめながら、月雲に聞こえない程度の小さな声でむせび泣いた。瞳からあふれた涙がほおの起伏をたどっていきながらポツポツとこぼれ落ち、手中の携帯電話をぬらしていく。
ちくしょう、失恋って――こんなに苦しいものなのか――。
「あ、ああ……ああああああああああ……」
携帯電話を防水仕様のものに替えてよかったかもしれない。
だって、こぼれた涙がしみ込むことはないのだから――。
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