常識と思想の ▼ イノベーション
「……私、今日から大毅と一緒に暮らすことになった、よろしく」
ふらりふらりと体を揺らし、ブラすらつけていない少女の大ぶりな胸があらわになった。太陽の形を肉眼で捉えられないように俺にとってピンク色の誘惑は刺激が強すぎる。く、モザイクがかかったように眩しくてなにも見えない。
なんだ、なにが起きているッ!?
万全なセキュリティシステムにより安全であるはずの俺の部屋に知らないやつが侵入している。しかもその少女は全裸に近い格好をしており(そう、よくよく見れば男子が隠す方の恥部だけは隠されていた)、唯一着用しているのはアイボリーホワイトのショーツのみ。
……片方だけでも下着を着用していたことは喜ばしいのだが、身につけている下着の色が乳白色とはなにごとだ! 修整ものを頭の中で無修整ものに変容できる、想像力豊かな男子学生の俺にとっては無意味でしかない!
ショーツから視線を外して彼女の姿をもう一度確認した。やはり見覚えはない。145センチほどの小柄な体躯に長く細い黒々とした髪の毛。澄んだ瞳を縁どる淡いまつげと垂れ下がった眉。身長は低いものの、胸がやたらと大きく足はすらりとしている。テンプレートな美少女だと言えるだろう。ムーディな光を放つ寝室の電灯によって照らされた少女の姿は、展覧されている美術品のような造形美がある。ただし頭部の一点を除けば……だが。
頭にふかぶかと装着された、どこか居心地良さそうにしている俺のボクサーパンツ。それが少女の魅力を八割減させている。
……さて、落ち着いて現状、俺の立たされている窮地と、これからせねばならない行動を再認識しよう。
いっそ、この場から逃げ出したいくらいだが、ここで無防備な背中を見せるのはあまりにも愚策だ。勇を鼓して向かい立つのが一番だろう。
なにか使えそうな得物はないか……。左ポケットには――家の鍵が入っているが残念ながらこれは武器にはならない。胸ポケットには――生徒手帳が入っているがこれも役に立たないだろう。そして右ポケットには――よし、携帯電話が入っている。とすれば――やるべきことはたった一つ。不審者に悟られないようにポッケにいれたまま、携帯電話の三つのボタンを押すだけといった簡単な作業だ。
「……それと――明日から大毅と一緒の高校に通うことになった、よろしく」
「ひィ!!」
こちらが無言なのを訝るように前身をやや傾けながら、てくてくと歩いてくる変態は赤裸々な体を隠そうとさえしていない。
くそ、怖気ずくものかッ!
細かく指を動かして操作するのだが、最近使い慣れたガラケーからスマートフォンに変えたばかりであるために要領がつかめない。少女から視線をそらさないようにしながら、1を二回おして、0を一回押すだけでいいのに……
……モニタの表面がスベスベなためにそれができない!
どの番号を押しているのか分からないし、ちゃんと入力できているのかも分からない! チィ! これだから凹凸のない電話はいやなんだ! 防水加工といった謳い文句に負けて、機種変更してしまったのが運の尽きだったのかもしれない!
通報作業に四苦八苦しているうちに少女は俺のすぐそこまで迫ってきていた。俺は通報するのを諦め両手をあげた。無駄な抵抗はしない、その代わり貞操だけは勘弁してくれと目で語る。
「……なんで両手を上げるの?」
「憤懣やる方ない思いと、心胆寒からしめられる思いが拮抗して、わけのわからない感情が俺の脳内で渦巻いているからだ! 分かりやすくいえば、お前のことを心底恐れているんだ!」
「……恐れることはない。慌てないで、ほら」
「……ッ!?」
その得体のしれない変態が俺へ向け、右手を差し出してきた。
……なんだ……この右手は?
「警察を呼んでその手に手錠をかけさせるべきなのか、それとも捨て鉢になってその手をへし折りにかかるべきなのか……。う、ううん、悩みどころだな……」
「……いや、どちらもしなくていい。この右手は握手を求めて伸ばしたつもり」
「ひ、必要性は俺が決めるッ! お前に決定権はないッ!!」
「あの……いや……その……つまりは……」
「な、なんだよ?」
「……勝手に入ってごめんなさい。危害を加えるつもりはなかった」
ぺこりと頭を下げてから申し訳なさげに少女はさっと両手を上げた。一般的な女子であれば、男性に見られないよう胸を覆うであろうはずの両手を上げた。
俺の疑惑は余計に確信へ近づいた。うすうす感づいていたが間違いない――
――こいつは変質者だッッッ!!!
「つ、つき合ってられねぇッ!」
「……ねぇ、大毅? どこへ行こうとしているの……?」
「くそ、南無三ッッ!!」
「そんなに表情をこわばらせて、私、大毅がずっと我慢していたのは知っていた」
逃げようとした俺の肩を力強くつかんで、なだめるような口調の変質者。すごく怖い。
「ひ、ひぃいぃい!! は、離せ! 離してくれえええええッ!!!」
「……けれど、トイレ行くのはすこしだけ待って欲しい。せっかくの感動の再会なんだから、もうちょっとだけゆっくり私と話を……」
「トイレじゃねぇよッ!」
「……落ち着いて欲しい」
「られっかッ! このたァけッ! 落ち着いて欲しければ、ぜひとも胸を隠してもらいたいところだッ!! だいたい、不法侵入しておいて、家主と友好な関係を築こうとしているのはどういう了見だッ!!」
「いや、その……これは……言い訳させてもらえると嬉しい」
「言い訳だあ? どこに言い訳する余地があるッ!? ここまで見まがいようのない変質者は初めてだぜ、オイ! 誰だ、お前は! どうしてここにいる!? だいいちどうやって入ってきやがった!? いや、それよりも先に、どうしてこんなところでほぼ真っ裸の格好していたのかを教えて欲しいッ!!」
数ある疑問の中で、「どうしてマッパなのか?」それが最重要項目のように思えた。
「ここで着替えていたのは、あくまでも肌着が雨でぬれてしまったためであり、不純な動機からじゃない」
「あ、ああ……外はどしゃ降りだからな。衣服がぬれるのも無理はない。分かった、その理屈は認めよう」
「それと、この部屋を選んだのは、あくまでも偶然」
他にたくさん部屋があるけど空き部屋ばかりで、人の気配がするのはこの寝室と俺の部屋だけだからな。
「そ、それでね。あなたのパンツを頭にかぶったのには、深ーい事情がある」
「なんだよ、言ってみろ。しょうもない理由だったり、嘘をついたりした瞬間に俺は通報するからな」
「……えっと、はい。パンツを被ったのはあくまでも趣味……です」
開き直りやがった!
「……はい。ムラムラしてたから大毅が帰ってこないうちに、●ナっちゃおうと思ってました」
開き直りすぎてやがる!!
「ま、ままま、まあ、よく聞け、そうだな……いろいろと訊きたいことがあるんだが……いや、まずはその……パンツを脱いでくれ、話はそれからだ」
「うう……しかたない。大毅がそう言うのなら、ちょっと恥ずかしいけれど脱ぐ」
頭のボクサーパンツを脱ぐのに別段恥ずかしがる要素はない。恥ずかしいのはむしろ俺の方だ。
と、よくみればこの痴女はボクサーパンツではなく下のほう――“最後の防波堤”に指を引っ掛けていた。
「ちょばッ! し、下のじゃないッ! 脱ぐべきなのは、う、上のだ! 頭に被っているほうだ! 本来の使い方から逸脱しているほうだ!」
「……?」
「なんでそこでクエスチョンマークが浮かび上がんだ!?」
俺が止めようとするも、すでに手遅れだったらしく、(俺が見たのは少女の持ったアイボリーホワイトの下着の方であり、下腹部に視線を送ったわけではない)、最後の防波堤は決壊していた。
「あまり見ないで欲しい……興奮する……」
「ち、ちち、ちったぁはずかしがれ、このバカっ!」
「……むぅ、はずかしいからこそ興奮しているのに、大毅は乙女心を分かっていない」
「分かってたまるかッ! ンな特定の女が持つ乙女心なんてッ!!!」
くそ、疲れる。どうしてこの少女は俺の名前を馴れ馴れしく呼んでいる? そもそもどうして知ってやがんだ。それになぜ主に見つかったというのに、男に裸を見られているというのに、こんな淡々とした口ぶりなんだ。一人で騒いでいる俺が童貞みたいではないか! ……まあ、馬鹿なんだけどよ。
「なんで分からねえかな……ッ! 頭にかぶった俺のパンツを脱げ! それとお前のパ……パンティを履け!」
「……どっちを先にすればいい?」
「わかった、まずは履け!! そのあとで脱げ!!」
指示した通りに彼女はしゅるりとショーツを履き直し、頭からボクサーパンツを取り払った。その仕草をなぜだか邪な感情を抱かずに正視していられる俺。同年代の女子の裸をみてしまったのに鼻血が出ないのが不思議なくらいだ。エロに意識がいくより先に脳みそが恐怖で麻痺しているのだろうか。もっともこの珍妙な生物を「同年代の女子」と呼ぶには抵抗があるが……。
「……あのさ、お前誰だよ、どちら様だよ? どこの星からやってきた?」
「……大毅、ホントウに覚えてないの?」
ううん、俺の名前、大毅と呼んでいるところから俺と関わりのある知人であることは間違いなさそうだった。そうなるとますます分からないことが増える。中学を卒業すると同時に名古屋へ引っ越してきたから、中学以前の同級生でない確率が高い。
となると、高校の同級生か。それにしたって、先ほどこいつは、「明日から一緒の学校に通うことになった」と口にした。「再会」と言ったようにも思う。つまりは高校に上がってから知り合った人物でもない。
数少ない中学までの友人がわざわざ名古屋まで遊びにきたのか、それとも、ただのストーカーか。後者の線がかなり濃厚だ。
「……わ、わるい。俺はお前のことを全然覚えてない」
俺が謝るのも筋違いな話ではあるのだが、混乱していた俺は素直に謝罪していた。
「教えてくれ、いったいお前は誰なんだ……?」
その時になって“初めて”、彼女はわずかにほおを赤らめた。上目遣いで俺を見やり、下唇をムムっと上げる。俺が覚えていないと言ったことに不満があるようだ。
そして――
キンと高い幼げな声色をつくり、目前の少女は歌うようにこう言った。
「従妹の月雲美露だよ!」
え? 月雲……?
今まではずっとモソモソしゃべっていたので気がつかなかったが、今放たれた明晰としたその声は――頭の奥深くに眠る、“あの人”の記憶を思い起こさせるに十分な素因だった。
――「あなたが死んでなんになるのッ! そんなの……ずくなしよッ!」
つまり――この変態が、俺がずっと羨望していた人物であり、俺の初恋の人であり、
「……そ、そんな……バカな、お前が俺の……」
――命の恩人……だと?