細やかな追憶 △ バイオグラフィー
あれは七年も昔のことだった。としの頃なら八か九だった夏の大連休、我が家では建築家である父の海外出張にかこつけた、イギリスの首都ロンドンへの旅行が企画された。本当は父だけで行く予定だったのだけれど、上司の気遣いにより家族全員が行けるように手配してくれたのだった。
せっかく招待されたんだから――と、母は喜んでついていった。本当はぼくも同行する予定だった。しかし、怖がりだったぼくは空港へと向かう車に乗りこむ直前で駄々をこねた。
――「……やっぱり、いやだ」
――「どうしたんだ? 大毅」
――「お母さん、お父さん。そんなとこ……いくのやめようよ……」
――「そんなこと言われたってなぁ。お前だけおいていくわけにはいかないし……」
――「大毅……。我がままいっちゃダメよ、お父さんのお仕事なんだから仕方ないじゃない」
まだ幼かった当時のぼくは海外もののスパイ映画を観たことによって、外国とはすべからく恐ろしい土地だという固定概念を持っていた。そのためぼくは一緒につれていこうとする両親に頑なに抵抗した。おとなしかったぼくがあれほどまでに拒絶したのは“初めて”だったように思う。
――「いかない……。ぼくは……」
そう――大好きだった両親の手を“初めて”振り払ったのだ。
――「……いきたくない!」
それがまさしく――“運命の分かれ道”だったとも露知らず。
結局、夏休みは親と別の土地で過ごすといった、若かりし頃のぼくにとっては珍妙な体験をした。一人きりで家の番しているわけにもいかなかったため両親がいない約一ヶ月の間、長野にある親戚の家に預けられる運びとなった。
――「だったら、仕方がないな、月雲さんのところに頼むか」
――「月……雲……?」
――「月雲さんのところには大毅と同じくらいの歳のお子さんがいるんだぞ」
――「ええ、そうね。きちんと仲良くするのよ、大毅」
――「名前はなんて言ったかなぁ……たしか……み……」
――「み…………み……よ…………父……さん」
どれだけ思い出そうとしても両親の声と顔はいつもそこでぼやけてしまう。
東京で暮らしていたぼくに田舎で生活させるものはいい経験になるだろうという両親の計らいだったのかもしれない。青々と自生した自然の緑は感受性豊かだった少年時代のぼくに良い影響を与えてくれたかもしれない。もしくは悪い影響を及ぼしたのかもしれない。
――どれもこれも――よく覚えていない。
父と母の二人は夏休みが終わるころには、長野までぼくを迎えにきてくれるはずだった。
そうして――八月二十八日――“嵐の夜”はやってきた。
耳をつんざくのは、吹き荒れる風の音や枯木がなぎ倒される音、雨が轟々と降りしきる音。一ヶ月の間ずっとやかましく聞こえていた蛙の声は、この日だけは聞こえてこなかったように思う。屋根にぶつかった雨水はすべて音を立てて軒下に排出されていく。もっとも、それが定かな記憶かどうかなど今となっては分からない。
はっきりと覚えているのはテレビに映った人間の緊迫した声と、被害に遭った人が流れているクレジットロール。慌てるおじさんと叔母さん。さわがしい悲鳴やすすり泣く声、嗚咽、高鳴っていく鼓動の音。
ただ――「みんなが慌てているといった情景」は「みんなが慌てているといった言葉」に変換されて、ぼくの脳裏にいつまでも残っている。
きっとその場にいたのだろうが、月雲美露がいたかどうかは覚えていない。テレビの内容、細かい事情は子どもだったぼくにはよく分からなかった。けれど「お父さんとお母さんが死んだ」ってことだけはしっかりと理解できた。
臆病で泣虫で内気で軟弱だったぼくは他の人よりも強く親に依存していた。両親を失ったことは、ぼくにとって唯一生きる手段だった救いの手――心の主軸を失ったことになる。
だから――きっと、ぼくは――
――嵐の夜――荒れた川――
――“命をなげうった”のだ。
そして――“あの人”に助けられた。
今でもはっきりと思い浮かべることができるのは、“嵐の夜”に“あの人”が放った言葉とぼくを優しく抱きしめる“あの人”の面影――。
――「あなたが死んでなんになるのッ! そんなの……ずくなしよッ!」
あとで調べて分かったことだけれど、「ずくなし」とは長野県の方言で「怠け者」という意味をさす。ようするに――“命を捨てようとした”ぼくの考えなど“あの人”にはすべて見透かされていたわけだ。
月雲家の家族構成も“あの人”の顔も名前も一切思い出せない。加えて、七年前の夏休みをどのように過ごしたのか、“嵐の夜”になにが起きたのか、どうしてぼくは死にかけたのか――
――“両親を二人同時に亡くしてしまったショック”で、あのころの記憶は頭の奥深くに封印されてしまった。
それでも――いや、だからこそ――恩人であり初恋の人である“あの人”に会いにいきたい欲求はあった。東京都から長野県までの距離はそこまで遠くはない。いくら小学生だったとはいえ会おうと思えばなんとか会えたのだろうが、両親を失ったばかりのぼくは“それどころではなかった”し、長野まで赴くと“トラウマ”に触れてしまう気がして、ぼくの胸に“あの人”に会おうという勇気がわいてこなかった。
両親を失ってからのぼくは母の兄、つまりは東京に住むぼくの叔父にあたる人物に引き取られた。資産家の女性と結ばれた叔父さんの家庭は経済的に余裕があったから待遇よく迎えられた。叔母の家、つまりは長野へ行ったのは七年前が初めてであり、最後だった。
天邪鬼だったぼくに“心の強さ”や“命の大切さ”を教えてくれた“あの人”――そして七年ぶりに再開した“あの人”――月雲美露は七年の月日を経てとんでもない“変態女”と化していた。なおかつ、目を背けたくなるほどの変質者とこれから先の生活を共にせねばならなくなり、ぼくはえらく戸惑っている。アイツのせいで失恋した時は殺意まで覚えた。
だけど、それでも、ぼくは――俺は――。
あのド変態に――恩を返さねばならない。
次回 明・後・日(間違いなく)
12 意識飛ぶほど ▼ ファンタスティック
表紙絵をくっきりバージョンに差し替えました。完成版のロゴを見ていただけると、この作品群を「カクレドシリーズ」と命名した理由がわかって貰えると思います。(要するに変態の背後に「ド」が隠れているといっただけの作者の遊び心です)