回想を含めた △ プロローグ
この作品の売りは一時間かけて厳選した「目に優しい背景」です。目に優しいので読んでくださると嬉しいです。
“あの人”は――ぼくの命の恩人だ。
あれは七年も昔のことだった。としの頃なら八か九だった夏の大連休、我が家では建築家である父の海外出張にかこつけた、イギリスの首都ロンドンへの旅行が企画された。
まだ幼かった当時のぼくは海外もののスパイ映画を観たことによって、外国とはすべからく恐ろしい土地だという固定観念を持っていた。そのためぼくは一緒につれていこうとする両親に頑なに抵抗した。おとなしかったぼくがあれほどまでに拒絶したのは初めてだったように思う。
結局、夏休みは親と別の土地で過ごすといった、若かりし頃のぼくにとっては珍妙な体験をした。一人きりで家の番しているわけにもいかなかったため両親がいない約一ヶ月の間、長野にある親戚の家に預けられる運びとなった。そのお世話になった親戚、月雲家の娘こそが――ぼくの恩人に当たる人物である。
“あの人”は――ぼくよりも一学年分だけ年下の七か八だった。それなのにほかの男の子よりも強くて、たくましくて――なにより格好よかった。まだ物事の分別のついていなかったぼくは、“あの人”から“心の強さ”や“命の大切さ”を教わった。
――「あなたが死んでなんになるのッ! そんなの……ずくなしよッ!」
これから、どのようにぼくがあの人に憧れたのかについての物語を書き記していきたいが、それは難しい。なぜならば親戚の家で過ごした日々の記憶をほとんどなくしてしまったからだ。
七年前の夏休みをどのように過ごしたのか、“嵐の夜”になにが起きたのか、どうしてぼくは死にかけたのか、それらの記憶をほとんどを失ってしまっている。
月雲家の家族構成も“あの人”の顔も名前も一切思い出せない。月雲家に関して今でもはっきりと思い浮かべることができるのは、“嵐の夜”に“あの人”が放った言葉とぼくを優しく抱きしめる“あの人”の面影――。
とにかく“あの人”は――恩人なのだ。
だから――もう一度“あの人”に会いたいと――ぼくは何度も思った。
東京都から長野県までの距離はそこまで遠くはない。いくら小学生だったとはいえ会おうと思えばなんとか会えたのだろうが、当時のぼくはそれどころではなかったし、長野まで赴くとトラウマに触れてしまう気がして、ぼくの胸に“あの人”に会おうという勇気がわいてこなかった。
だから、“あの人”とは七年前の夏休み以来会っていないこととなる。
ぼやけて膨らむ“あの人”の虚像と想像。会えない時間はぼくの心に無垢な感情を孕ませながら、嵐の夜、“あの人”に幼い心が抱いた憧憬は、時間をかけずに恋心に変わっていった。
幼心の恋愛が成就することのないままに、無常な世界は七年の歳月を刻んだ。
そしてぼくは――いや――俺は――高校生になった。
“あの人”について覚えているのは声色と面影と、月雲といった一風変わった苗字だけ。中学へ進学するまでの三年間くらいは“あの人”のことを思い続けていただろう。が、過去に固執したくないのが人情というもの――色恋のことであればなおさらだ。意識せずにいるうちに俺の中にあった“あの人”に向けられた好意はだんだんと薄らいでいった。
少しずつ少しずつ――俺の脳裏に残っていた当時の記憶を新しい出来事で上塗りしていくうちに――“あの人”の面影はやがて埋れてしまった。
「ぼくは変態に恩を返さねばならない。」