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心強い味方を得たと確信していた蜂須賀であったが、帰宅後データを洗いざらい確認してみたものの、果たしてこの『限定的情報の海』には、彼女の求める情報は存在しなかった。
(まああったらあったで、警察に進んで提供できるものでもないしね…)
無駄に危ない人物と縁を作ってしまったと感じもしたが、しかし門真未来という彼女自身に悪人という印象はなかったので、友達が一人増えた感覚と通ずるものもなくはなかった。
とはいえ、事件解決への突破口が狭くなったのもまた事実だった。あとはこのユリ科の球根と、警察及び公安の情報収集能力のみがアテだ。
(…何義務感じてるんだろう)
自分はあくまでボランティア、協力者である。私生活をそれで潰すようでは、優先順位を取り違えているというものだ。
明日の余呉との待ち合わせ時間を思い出しながら、蜂須賀は風呂で清めたばかりの痩躯をベッドに横たえた。
余呉清治は、周到な男である。悪く言えば短気な男だ。
そのため人と待ち合わせるとなると、必ず待ち合わせ場所に約束の時間の三十分前には到着し、いろいろと勝手に気回しをしてしまう。
そして今回もそれに違わず、長めの髪を春風になびかせながら、署の前で蜂須賀を待っていた。
「お待たせー」
対して蜂須賀は時間にルーズというわけではないが、だいたい待ち合わせには時刻ピッタリに現れる。それは余呉には少々煩わしいというだけで、至って一般的な行動だ。今日も今日とてファンシーな日傘を差している。
「…一応確認しておくが、我々が現場で見たものには基本的に守秘義務が発生する。深刻な理由がない限り、全ての口外は禁じられている」
「あいあいさー」
このやり取りも何度目だろう。彼女は何のために捜査に協力するのだろうかと、以前考えたことがあった。いわゆる私情の介入にあたるのでなるべく考えないようにしているが、警察が本格的に動き出す間もなく、蜂須賀は事件の真相にたどり着いてしまう。金のためか?官僚にコネを作っておきたいのか?
余呉は眼鏡越しに蜂須賀を見据える。理由はその程度しか思い浮かばなかったが、彼女はそれほど計算高い女性だろうか。勿論件の推理力からそうとも考えられるが、ならばもう少し分かりやすく効率的な方法が、もっと別にある気がする。
「ん…何見てんの」
「…何でもない。さあ、行くぞ」
彼女自身に尋ねれば済む問題だが、蜂須賀からは明るいながらも、どうも人を寄せつけないような、どこか排他的な雰囲気を感じていた。そのせいでと言うと情けなく聞こえるが、変に女性のプライバシーを詮索するようで、気が引けるというのもあった。
「やあ蜂須賀さん、今回もどうぞよろしくお願いします」
蜂須賀は捜査一課の内では『白雪姫』と呼ばれている。本名を持ち出すことを避けるための、いわばコードネームだが、それを本人の前で使うわけにはいかない。
「はい、今回は私のわがままでどうもすみません」
「いえいえ、捜査が順当に進むのを拒む理由などありませんよ」
彼女に応対しているのは上牧という巡査部長で、余呉は彼の直轄の部下にあたる。小柄で背丈も蜂須賀とそう変わらない程度、頭頂部が綺麗に禿げていて、逆に清潔感を感じさせる。目鼻立ちはあまりはっきりしない方だが、細い目には静かな野心を覗かせるような、微かな煌めきがあった。典型的な中年男性のビジュアルのど真ん中を突いているようでどこか一線を画した、不思議な男性だ。
彼らは顔を見合わせ頷くと、覆面パトカーに乗り込み現場へと急いだ。
「で、これが現状…」
現場は閑静な住宅街の道端。ここで被害者・能登川恭一が大型トラックに轢かれ、絶命した。
遺体の状態は頗る悪かったらしい。ディテールはというと、トラックで轢いただけかと疑う程に腹部の損傷が激しく、切断に至る寸前だったという。
というのも、遺体それ自体は鑑識と検死官が早々に持ち帰ってしまったようだ。まあそこまで損傷した遺体を放置して腐敗を進ませるよりかは、よほど良い選択だ。
言っても、蜂須賀が遺体を推理の手がかりにできないのは悔やまれる。しかし彼女にスプラッタな趣味でもない限り、そんな状態の遺体を見せるのも酷な気がした。彼女はあくまで協力者の立場にいるのだ。
対して証拠兼凶器の大型トラック。こちらもこちらで、住宅街の隙間を縫って通行する必要があるのかというくらいの大型で、勿論人を轢死させるには十分すぎる重量を持っている。ボディには『橿原工業』の文字。荷台には何も積んでおらず、前輪のタイヤからは能登川のものと見られる血が検出された。
そして能登川がアスファルトに残した、生々しい血痕。周りはここの辺りに住んでいるのだろう野次馬が集まり、報道のカメラもいくつか来ていた。蜂須賀は目立たないよう、そして何より日光を避けるためパーカーのフードを目深に被り、こっそりとテープを潜る。
「…この血痕、ここで殺されたにしては少し少なくないですか?」
「はあ、確かにそう言われれば…」
「出血多量が直接の死因じゃないとしても、腹部を欠損するくらいまで轢かれたんだとすれば、もう少し血痕は大胆な絵を描いてるでしょう」
蜂須賀の指摘に、難しい顔で頷く上牧。彼も巡査部長とて、数多の殺人事件を扱ってきたというわけではない。寧ろ殺害現場に慣れているのは蜂須賀の方だ。【鏡の手紙事件】に始まり、この事件に地続きになっている、彼女の奇妙な経験。たとえ出世を狙っているとしても、こんなリスクを自ら背負うだろうか。やはり根底にある目的は読み取れない。
「別の場所で殺された可能性がある、ということか?」
「その可能性が高い。予めブルーシートでも用意しないと、血痕は誤魔化しきれないからね」
確かに、アスファルトに飛び散った血を拭き取るのは簡単なことではないだろう。
「しかし、現に凶器がここに放置されていたとなると、やはりここが犯行現場と考えるのが妥当なのでは…」
「いえ、あれはそもそも凶器じゃないでしょう」
「…は?」
警官二人は揃って呆気に取られた顔をした。被害者の血痕がべっとりと付着した、それも殺傷能力充分のものを、『凶器じゃない』だと?
「血痕が付いている、というだけです。上牧さんが先入観に囚われるのも当然かと思いますが、犯行直後の遺体をトラックで轢けば、同じ状態を現出できるはずです。現にこの場に残った血痕全ては、見る限り飛散した跡が見当たりません。それにトラックで轢いただけで腹部に切断に近い損傷を負わすことができるか、というのも考えものです」
「…では、犯人は何故殺した後、トラックで轢くような面倒なことを…」
「簡単ですよ。犯行の手口、及び犯行現場のカモフラージュです」
…そうか、言われてみれば単純なことだ。不審な犯行なら、犯行そのものを疑えばいい。だが我々は、その犯行の不審さにさえ気づけなかった。蜂須賀の整った推理を聞く度、自分の無能さを思い知る。彼女の方がよほど刑事に適任だ。
「トラックの運転席に、何か痕跡は?」
「現在調査中だ。何か痕跡が出れば、その該当者が最有力容疑者となるだろう」
「では我々は、本当の犯行現場を抑えるため、事情聴取を再開しましょう」
上牧も上牧で悔しいのだろう、感情を紛らわすように外套を羽織り、パトカーに乗り込む。やはり刑事として民間人に事件の推理を依頼するのは、魂を切り売りしているような気分だ。望ましい結果は得られるものの、プロセスを顧みた時の無能感は凄まじい。
だが我々は大義を全うするために彼女の協力を得ているのだ。刑事としてのプライドなど邪魔なだけだ。余呉はそう自分に言い聞かせ、理性で心を支配した。




