マンボーくん
太陽は恋をしていた。おとめ座のスピカのさやかな輝きを一目見たときから、いつか結ばれる運命を感じたものだが、億万年かけてもいっこうに太陽とスピカが近しい関係になることはかなわず、太陽のアプローチはすべて失敗に終わったので、1500万度の情熱の塊もついに完璧な失恋を味わうにいたった。太陽は深く傷ついたが、しかし、それでも太陽もスピカも存在し、これからも存在し続けるにちがいなかった。それを思うと発狂しそうで、じじつ、太陽は狂った。たくましい腕――それは海王星までとどいた――をふりまわし、叫び声をあげ、太陽系に属する9つの惑星ダブルラリアットで叩き潰し、最後は自らも爆発して消えてなくなった。それが地球最後の日だった。
その日、サイトウは20歳の誕生日を迎えたために、親兄弟やそのことを知っている人びとからは、顔を会わせれば「誕生日おめでとう」と言われるはずだったのだが、前日から、誕生日は断固として家族を避けると心を決めていた。家族の誰よりもはやく目ざめ、家を出てマンガ喫茶で時間を潰して、それから隣の県へと行った。
というのも、彼は大学受験の2浪目に入っていたからで、何もしないまま歳を重ねたことを実感したくなかったのだ。
サイトウは勉強不足だったわけではない。多くの受験生が不得意科目を攻略できないまま失敗するのに対して、サイトウははじめからそのままでよく、むしろこれ以上何か違うことをするのは受験生として無駄足にすぎなかった。彼がやらなければならない勉強の多くは、すでに彼にとって知られていたため、ただ学力を維持するという目的しか持てず、余計に時間を無駄にしているように思えたのだ。しかしそれでも彼は合格できなかった。大学は悪意をもって、偶然から意識の闇へとこぼれおちたわずかな知識、窓の桟にのこった塵のような知識をかきあつめては問題にし、大げさに無知をあげつらっているようにしか思えなかった。
サイトウはT県S駅につくと、A2番出口近くの、剣をささげもった天使像の前で、一様に黒い服を着た人間の群れがいた。彼らはみんな、両手の指のを網の目のようにからめあった薄気味悪い服を着ていたのだが、その一体感のおかげなのか、話を交わす彼らの姿は相通じるものの親しさに満ちていた。サイトウは彼らに近づいていった。気づいた一団は彼の方を見やった。
サイトウはシャツの前を開き、同じ指のプリントのカットソーを下に着ていることを示した。
「こんにちは、マンボーです」
長髪の男がすすみ出て答えた。「へえ、あなたがマンボーさんですか。俺はカジキです。よろしく」と言って一団の方へ向きなおると「この人がマンボーさんだって。あと2人だな」
メガネの男が手にしている名簿にチェックを入れた。「でも、もうすぐ時間ですね。それまでにこなかったらどうしようかな」
「死刑!」カジキは自分の首をチョップした。「なんてね、でもイタコ役くらいはやってもらおうかな」
「きっと最後はマグロのやつだろうしね」メガネの男は皮肉っぽく言った。
「まあ、その時は3回連続遅刻のペナルティってことだな」とカジキ。
しばらくしてもう1人がやってきた。背中を通りこして腰までとどく異様に長い黒髪の女で、左右の髪を一束ずつ編んでいて、長いスカートの裾を引きずるようにのろのろ歩いている。おそろいのプリントのカットソーがあきらかに不似合いで、全身黒の姿の中で靴だけが目の覚めるようなパープルだった。遠目にサイトウは自分と同じくらいの年齢かと思ったが、近づいてみると結構年上のような気がした。椅子に座ったら地面にとどきそうな髪の長さだなと彼は思った。彼女はカレイと呼ばれていた。
「こちら、マンボーさん。今回がはじめての人」カジキは紹介した。
「へえ」遠慮なくサイトウを眺めまわしてカレイは言った。「大学生?」
「ええ、まあ」サイトウは答えた。
「ふーん。学校は楽しい?」
「いや、ぼく一浪して大学に入ったばかりなんで、まだよくわからないんですよ。でも、宇宙が好きなんで理学部に入れてよかった、みたいな。そんなところです。」
「科学者志望なんだねえ」
「そんな、まだ何とも言えないですよ。けど、前から不思議だなって思ってたんです。例えばなんで人類は地球が太陽のまわりを回ってるなんて思いつくことができたのか。宇宙よりもそっちの方が不思議だってたまに思うんです。しかもコペルニクスみたいな、言ってみれば田舎のアマチュア天文学者がそんなすごいことを発見できたなんて、絶対何かありますよ。これはもう……」
「宇宙人のしわざにちがいない?」
「そうです」サイトウは言った。「宇宙人の存在を証明するのがぼくの夢ですね」
「ハハハ」カレイはカジキの方を向いた。「ねえ、今日のイタコ役はこの子でいいんじゃない?」
「唐突だな。べつにダメってわけじゃないが」カジキは答えた。
「ビギナーズラックっていう言葉もあるわけだしさ」
「うーん、いや、さっきはマグロの奴にしようかって話になってたんだけど」
自分の扱いが勝手に話されていて、しかも何やら妙な運びになっているのを見て、サイトウは話題を換える必要を感じた。「カジキさんとカレイさんは長いんですか? つまり、その、〈トワイライト〉のこういう集まりとかは?」
聞くところによれば、カジキとカレイは〈トワイライト〉の初期メンバーだということだった。カジキとカレイと、現在コミュニティの管理人をしているクジラとが、〈トワイライト〉の初期メンバーで、彼らの共通の宇宙への興味が、もともと高価な望遠鏡を共有する天体観測のオフ会にすぎなかった「星空を眺める会」を、UFOおっかけクラブへと変えた。その宇宙観とは、つまり、地球には宇宙人がやってきていて、我々人類を観察し、必要あればコミュニケーションをとっている――そして政府高官や学者の何人かはそのことを実は知っている――ということだ。カジキなんかは、さっき出まかせに言ったことを大真面目に注釈した。
「マンボーくんなら知ってるとは思うけどさ、コペルニクスの『回転について』は、オジアンダーの序文のせいで当時まともに読んでもらなかった。これはよくできた嘘です、計算を便利にするためのモデルにすぎません、太陽のまわりを地球が回っているなんて本当に信じてるわけじゃないんです、ってわけだね。オジアンダーがそんな序文を書いたのは、一般には、カトリック教会に配慮したためだと言われている。『無限宇宙と諸世界について』のブルーノが火刑に処されたことを思えば、それも無理はない。俺もそれが嘘だとは思わないさ。だけどね、コペルニクスの手による本当の序文がそれよりましなものだったかといえば、そうとはかぎらないのさ。ある写本の英訳が、eGBLに載っている。それによると、コペルニクスは人ならざる天の使者の協力によって、『回転』より30年前の『コメンタリオルス』中の発見をなしたと言っているんだ。驚きだろ。天使が太陽中心説なんて、ハハ、話にならないよな。まぁこれだけなら眉唾、しかし、ポーランドのトルンが世界有数のUFO目撃件数をほこる地域で、向こうの民話には〈空飛ぶ円盤〉がたびたび出てくると知ったら、どうだろうか? しかも当の天文台があったフロムボルク城でもそいつが目撃されているとしたら? ま、それでも信じない奴は信じないだろうけどね。俺ははっきり思うよ、そういう奴は馬鹿なんだってね。何も感じないような鈍い奴。うんざりする」カジキは何だかうれしそうだった。「ちなみにね、今日これからいく西大篠静音天文台っていうのも、今の話と必ずしも無関係とは思えないんだ。俺にはね。そこに今日、君みたいなのがやってくる。ときめくね。いや、語っちゃったな」
しかし、彼は不機嫌になった。集合時間20分すぎても最後の1人がまだやってこないのだ。さらに10分がすぎたとき、マグロと呼ばれる男が小走りでやってきた。まるまる太ったデブで、シャツがパンパンだ。走るにつれて二重あごがふるえていた。赤ちゃんみたいな手で坊主頭ににじんだ汗の玉をぬぐって笑った。「遅れてごめん」
カジキは無言でマグロに近寄っていくと。あいさつがわりに丸太のように太い腿に蹴りをくらわした。鋭くはいった蹴りは脂肪をゆたかに揺らして、乾いたいい音をたてた。カジキがもう2・3発ローキックをあてると、マグロは悲鳴をあげて倒れこんだ。
「死刑!」カレイがきゃっと笑いながら言った。
黒服の集団はマグロの手足に手錠をしめて猿ぐつをあてると、3人がかりで重い肉体をもちあげた。いや、正確に言うと、持ち上げようとしたのだが重くてかなわず、しかもマグロの身体は汗をかいていて手がすべりやすかったので、何度も持ちあがったと思いきや地面に打ちつけられた。細腕の男たちはあきらめて、マグロの巨体をずるずるキャンピングカーまで引きずっていき、車の前で顔を見かわすと、阿吽の呼吸で力という力を結集してこんどこそ持ち上げ、トランクに放り込んだ。マグロの肉体は一瞬宙に浮かびあがり、粘土の塊を床に落としたような音をたてて荷台に転がり落ちていった。
「ブラボー!」とカジキが言い、他の連中も拍手と口笛でこたえた。男たちはこちたらを振りむき、腕を折って深々と左右におじぎをした。
カジキが音頭をとって。彼らはキャンピングカーに乗りこみ、今日の目的地である西大篠静音天文台跡へと向かった。
駅前から30分も走らせれば、左右に広がるのは田舎の景色だった。
3階以上の建物が見られなくなり、一戸建ての家が続き、それがすぎると畑や誰のものともつかない空地がひろがった。風景の中で空がしめる割合が多くなり、かすんだ山の稜線が遠くに見える。いい天気だった。おだやかな春の陽が樹木の緑をやわらかく色どり、川の流れを輝かせている。窓を開けると、土のにおいが、さわやかな風に運ばれてきた。
サイトウは、車のトランクにのせられたマグロのことを考えていた。彼はマグロの本名を知っていた。なぜなら彼とマグロは中学校のクラスメイトだったからだ。しかし当時のマグロについて何か思い出があるかと言えば、ほとんどない。昔から太っていて、坊主頭で、一度学校に携帯ゲームを持ってきたのがバレて先生に取りあげられていた――せいぜいそんなことくらいだ。昔からついてないやつだったかもしれない。
サイトウとマグロが再開したのは、浪人後、K予備校のM校でのことだった。向こうから声をかけてきた。中学時代からさらに太っていたせいか、思い出すのに時間がかかったサイトウに反して、マグロは彼のことをよく覚えていたようで、屈託なかった。サイトウはおぼつかない思い出を一緒に懐かしんだりした。気をよくしたマグロは受験生専用のSNSのアカウントを教えてくれた。〈トワイライト〉のことを知ったのはその日記からだ。参加した〈トワイライト〉というコミュニティのオフ会について、マグロはじつに楽しそうに描写していた。
だから、まさかこういう結構頭のおかしい連中と付きあっていたとは思わなかった。カレイは自分を「イタコ役」にしようかと言っていた。それは、手足を縛られてトランクに放りこまれたマグロの扱いを、あるいは自分が引き受けていたかもしれないということなのだろうか? それともマグロはいつもあんな扱いなのだろうか?
ただ受験や家族をはなれて1日すごすつもりが、思ったよりも遠い世界へ迷い込んでしまったようだ。さっきまでなら、つまり駅前でまだ車に乗りこむ前までなら、何とか口実を作ってこの集会から逃げることができたかもしれない。けれども今はもう人跡まばらなどことも知れない道路を、廃墟をめざして走っている。ここからひとりで帰ることはできない。今頃そのことに気づいて彼はぞっとした。
「顔色が悪いけれど、大丈夫?」カレイが言った。彼女はサイトウの隣に座っている。
「ちょっと乗り物酔いしちゃって」
「気の毒に。まぁカジキの運転って乱暴だものね」
「文句があるんなら代わってもらおうか」運転席のカジキが言った。「しかし、あんまり辛いようなら、ほら、俺のバッグの中に……そう、そのポケットのところに……酔い止めが入っているから、飲むといいよ」
「カジキ優しいねえ。ホモみたい」
「これくらい普通だ」
「はい、お水」カレイはサイトウにペットボトルを渡した。「安心して、口つけてないから」
「寝てていいよ」カジキは言った。「まだ時間がかかるからね。しかしそのおかげで途中洗われたUFOを見逃してしまったら、損だけどねえ」
「あ、ありがとうございます…」
サイトウは目を閉じた。そのうち本当に寝てしまった。
西大篠静音天文台は、明治後期に建てられた近代的天文台のひとつである。この天文台は設立の当初から不幸に見まわれた。有名なイギリス人技師の協力のもと建設が計画されたとき、西大篠静音天文台は、日本天文学界において、国内最高の望遠鏡をそなえた、来るべき新時代の中心地になるはずだった。しかし着工がはじまるとともに有名なイギリス人は急死し、その直後実際的な困難がいくつもあきらかになって、建設工事は大幅に遅れた。中断につぐ中断により永遠に続くかに思われた工事も終わり、西大篠静音天文台がようやくを完成をむかえたとき、そのため、それは日本で2番目の天文台になっており、しかもまもなく3番目になることが多くの人々に知られていた。
こうした環境により、西大篠静音は、既にその役目を終えた老学者の隠居先、または自らを2流と認める知的好奇心の乏しい研究者たちの吹き溜まり以外でありえなかった。したがってミタニ氏のような人物がここに流れ着いたことは、じつに不幸なことだった。
時まさに、カーティスとシャプリーの間で、天の川銀河は宇宙の中心なのか、それとも宇宙に無数に散らばる星雲に等しいものなのかをめぐって、論争の火蓋が切って落とされようとしていた時代だった。言うまでもないことだが、西大篠静音天文台の研究者たちは皆保守派、つまり、天の川銀河が宇宙の中心だとつよく信じる人々だった。華麗な思弁を離れて、頑健さが自慢の男たちが寒さと眠さに耐えながら星々の観察に没頭する、忌むべき望遠鏡時代を、日本で3番目の男たちは断固許さなかった。宇宙の広さをあかしだてるニュースが届けば、全会一致で唾を吐きかけ、宇宙の中心にして唯一の銀河の名のもとに、軽蔑と悪罵のギロチンで次々と観測者たちの首を落としていった。彼らの舌鋒はリーヴィットを火あぶりの刑にし、ピッカリングを磔刑および串刺しの刑にし、見るも無残なその死体は野ざらしされたままハゲタカと野犬に食い荒らされた。隠れ異端者の口をふさぐには十分な光景だった。
ミタニ氏は、彼が間違っていると信じていた。あるいはそう知っていた。後に残された彼の日記には、驚くべきことに、宇宙には無数の銀河があるという説だけでなく、後の宇宙膨張説すなわちビッグバンを予見するような考えさえ記されている。
「宇宙は、永遠不変の秩序などではない。生き物である。すなわち、はるか遠い過去において誕生し、今も成長を続けており、やがて死を迎える、巨大な生命なのである。われわれの銀河は彼(ミタニ氏は日記の中で宇宙を“彼”と呼んでいる)の心臓ではない。それは彼の一生のなかでわずかな輝きと共に消えていく1エピソードにすぎない」
だが、ミタニ氏はどうやってこのような知識に到達したのか。彼は数学的能力に秀でた学者ではなかった。まして当時それをあかしだてるような観測は無かった。ハッブルとヒューメイソン以前の時代である。日記によればなんとそれは「緑の妖精」のお告げであったという。
「西大篠静音天文台での孤独な日々、私の絶望をいやしてくれたのは彼らとの交情だった。彼らは宇宙に対する私の考えが間違いでないことを体験によって示してくれた」
こうした態度が信託に耳を傾ける予言者ののもので、科学者のそれではまったくないことを、ミタニ氏じしんも理解していた。だから彼は沈黙したのだ。しかし何の知的好奇心も持たず、観測を足蹴にし、宇宙への驚きをかたくなに拒みつづける醜悪な同僚たちの中にあって、その沈黙を守りつづけるには、彼の真理への愛はあまりにも深かった。
あるとき、彼はついに沈黙をやぶった。あなたたちは間違っている! と。だがそれは反論ではなく告白だった。一度口を出た言葉は次から次へ途切れずに流れ出し、繰り返し繰り返し、すべてを話してしまうまで止まらなかった。もうおしまいだった。この狂人の妄想はしばらくのあいだ日持ちのする世間話のタネとなり、人々をおおいに笑わせた。顔を合わせれば昨夜緑の妖精はどうしていたか尋ねられ、何か言えばそれは妖精のお告げかと訊かれて、ミタニ氏は公然となぶりものにされた。生来繊細だった彼はどれほど傷ついたか。毛は抜け落ち目は落ちくぼんで、失意に沈んだ彼の目の前にはやがて赤と紫の妖精があらわれるようになった。こんどこそ間違いなく幻覚だった。絶望を絵にかいたような悲惨な顔で彼は天文台を後にした。
事件はその翌日に起った。この事件が起らなければ、西大篠静音天文台もミタニ氏も誰の記憶に残ることなく忘れ去られたことだろう。その夜、天文台のある静音山付近のある村で、見慣れない動きをする発光体が空を飛んでいるのが目撃された。一見流星と間違えるようなそれは、しかし、落ちることも消えることもなく山の上空をぐるぐる旋回し続けた。あの光の輪はいったいなんの象徴なのだろう? 山の神のおつげだろうか? 村人たちが注目しはじめたまさにそのとき、山の一帯が――天文台を中心にして――赤々と輝きはじめたのだ。光ははじめ人々に何かを伝えようとする信号のように、するどく点滅し、しだいに強く大きくそして長く尾をひいて光を放ちだし、やがて曙光のように山の輪郭を夜空へと浮かびあがらせた。村人たちは山火事だと思った。天文台の連中が何かをやらかしたか。駐在に連絡した。だが光は、それからまもなく消えてしまった。山はふたたび闇にとざされ、夏虫や鳥の鳴き声を残して夜は静寂をとりもどした。まるで何もなかったかのように。
じじつ、消防団たちが天文台へと向かったとき、焼けた森に出くわすこともなく、天文台の建物も無事だった。けれども中ははそうではなかった。天文台の職員たちは全員すがたを消していたのだ。誰ひとりいない無人の天文台の中で、飲みかけのコーヒーや処理中の写真がそのまま残されていた。これが西大篠静音天文台事件である。後日、事情聴衆をミタニ氏は受けて答えた、「私の友人たちの仕業にちがいない」。
日が傾いていた。サイトウたちが壊れたバリケードをくぐると、ほとんど土台と骨組みを残しただけのような廃墟にたどりついた。何かの焼跡のようだ。残った部分のあちこちには意味不明の梵字のような文字や卑猥な言葉がスプレーで書かれている。身の丈ほどもある雑草が茂り、石畳は方々でくつがえされて、腐りきった建物の死骸が暴露されないよう緑のヴェールでおおっているようだった。さらに先に進むとすこし開けた場所があって、そこにクジラがいた。まわりには発電機やランプがおかれている。これからのイベントの用意をしていたのだ。
時と共に暗くなり、やがて夜がやってきた。空には星々がきらめいている。一同は思い思いに夜をたんのうして、やることをやり、そののちにバーベキューをはじめた。これも用意されていたことだった。廃墟の中を肉の焼けるにおいが充満した。
結局UFOはやってこなかったのだ。〈トワイライト〉の面々がはたしてそれを望んでいたのかどうか、サイトウにはよくわからなかった。UFO降臨の儀式は次のように行われた。〈トワイライト〉の今日の参加者全員が手をつないで円になり、UFOがやってくることを、空に奇跡が起こることを強く念じるのだ。五感を封じ強力な思念だけの存在に近づくために、マグロはアイマスクと耳栓をし合法ハーブを吸わされて、縛られたまま寝袋に入っている。彼の頭にはアルミでできたアンテナつきのヘルメットがかぶせられ、クリスマスツリー用の安っぽい電飾をまきつけられて、派手に明滅していた。
さなぎの化け物みたいなマクロの隣にクジラが立って、手に持ったプリントを読みあげている。それは、かつてこの天文台にいたというミタニ氏が日記に書き記した「緑の妖精」たちの言葉だという。何かのメッセージだと言うが何を言っているのかわからないカタカナで書かれた言葉を、まずクジラが読み、その〈呪文〉をその他が復唱するのだ。何かが起こることを念じながら、空へ向かって。
サイトウも空を見上げて呪文をとなえた。満点の星空だった。目がなれていくにつれてさらに多くの星たちが彼の視界にあらわれてくる。北の空高くにのぼった北極星を彼は見つけた。北斗七星の弓になりにそったカーブの先に、まずうしかい座のアルクトゥルスがあり、さらにその先におとめ座のスピカがあった。黒々とした空間にちらばる無数の星たちから、彼はしし座のデネボアを見つけ出し、それとオレンジ色のアルクトゥルスと青白いスピカとを結びつけて、夜空に春の大三角を描いた。それからはるか宇宙を左右に眺めわたして、うみへび座、からす座、コップ座、ろくぶんぎ座、りょうけん座を探りだし、カペラとカストルを見つけ、コルカロリのつましい光に魅入った。こんなに沢山の星を見たのは生まれて初めてだった。
彼はふたたび春の大三角へと戻り、アルクトゥルスとスピカを注視して、来年の受験のことなんてすっかり追い払った頭で、6万年後のことを考えた。オレンジ色のアルクトゥルスは秒速125キロメートルでスピカの方へ移動しているのだ。そして6万年後、アルクトゥルスはスピカのすぐそばまでやってくるという。昔の日本人はオレンジのアルクトゥルスと白いスピカを男女になぞらえて、春のめおと星と名付けたけれども、6万年後にその結婚は成就するのだ。時がたつのも、両手をつないだ仲間たちのことも忘れ、想像の翼を空高く天のはるか彼方までひろげて、6万年後の地上から、今と同じ場所で見上げたときの夜空を、サイトウは眼前に見ようとした。きっと人間なんて絶滅している6万年後の地球。スピカのすぐそばにあるアルクトゥルス。遠く天頂から降ってきたそのイメージは、恐ろしい沈黙で彼の存在を圧倒し、その闇の深さと美しさに肌があわだった。思わず、奇跡が起こってもいいような気がしたほどだった。
しかし何も起こらなかった。で、UFOとの交信はおひらきになり、バーベキューが始まったのだ。
サイトウはもくもくと肉を食べながら、彼らを観察していた。カジキとクジラは、もうすっかりUFOのことなど頭から追い払ったようすで日本経済の行く末と小説家Iの新刊について話し合っていた。彼らの論調は激辛だ。マグロはといえば、ずいぶんな扱いだったわりに怒っている様子もなく、ヘルメットを頭に付けたまま、メガネの男と話している。メガネは合法ハーブを吸っている。サイトウ同様にもくもくと食べているものもいれば、キャンピングカーから望遠鏡をとりだして天体観測をしているものもいた。
「飲まないの?」カレイが酒をすすめてきた。
「まだ未成年なんです」
「ふーん、でも今年でハタチなんでしょ?」
「来月ですねえ、誕生日。残念」
キャンピングカーの照明からはなれた暗がりの中で、けれども明るい星月夜の下で、細くて小柄なカレイはさっきまでより若く見えた。夜風はやわらかく流れていて廃墟の向こうに見える黒い森は、謎にとざされている。世界がなんだか甘やかで、サイトウはカレイのことが美しく思えてきた。なんだか騙されている気分だったので、目を逸らした。
たぶんまもなくこのオフ会はおひらきになるのだろう。面白いと言えばそういえなくもない1日だった。二十歳の誕生日をこうやって迎えるのも悪くないだろう。しかしやっぱり信じられないのは、話をすればちゃんと通じる彼らが、宇宙人の陰謀論だかなんだかみたいな話を、大真面目に信じているらしいことだ。いや、本当はそんなこと信じていないのかもしれない。集まるのが楽しいだけとかそういうのだ。べつに何も悪くない。ただ今日のばかばかしいことも、そう思った方が納得いくような気がする。ギャグだったんだ、と。
おひらきになる前にサイトウは何か言いたい気分になっていた。すこし意地が悪いかもしれないが、ストレートに訊ねてみよう、本気でUFOとか信じてるんですか? と。
「じつはちょっと言いたいことがあったんですけど」彼は言った。
「なに?」訊ね返すカレイの瞳は大きかった。
「いや結構つまらない話であれというか、もしかしたら引くかもしれないんですけど……」
「内容によるかなぁ」
「実はですね」彼は言葉区切った。「ぼくは大学生じゃないんです」
「へえ?」
「今年も大学に落ちてしまって、なんか言うのが恥ずかしくて、見栄張っちゃってたんですけど、今年2浪なんです。実は……」
「うんうん」
「ごめんなさい」
「いや、私にあやまられても。あー、でも、一応だまされてはいたのかな」カレイは苦笑した。「大丈夫、2浪くらいいくらでいるって。元気だしなよ?」
「はい、元気出します」
「まぁ、私が偉そうなこと言っても説得力ないかもだけどさ、妥協して行きたくもないところに行くより、2浪してでも行きたいところへ行く方がずっといいって」
なんで自分はこんなことをこんな時にこんな場所で話しているのだろう? しかし話しはじめると言いたいことが他にもあるような気がした。なんだか世界がきらきら光っているようだ。
「こんどのオフ会にも来たいです。いいですか?」
「だから、そんなこと私に訊かないでよ。遊んでて試験また落ちたら、どうするの」
空たかく風が吹きすぎ、まばらに浮かんでいた雲をかき消して、流れるような幾筋もの光とともに、世界がいっせいに輝きだしたように思えたのは、サイトウの気のせいではなかった。彼の気分ゆえの錯覚などではなくて、いままさに永遠のような太陽の一方的な恋情がその自殺とともに終わりを迎えようとしていたのだ。太陽は、一瞬ごとにその輝きを累乗倍にしてゆき、地球は海が蒸発した次の瞬間には火につつまれ、またたくまに光の渦にのみこまれて46億年におよぶ歴史に終止符をうった。サイトウがまだ19歳だった頃の数十億倍の明るさで輝く見事な最期、その光が、おとめ座のスピカまでとどいたのは、それから230年経った後だった。
プロットとか何も考えずに、勢いだけで速く書くことを目指しました。
今年の目標だった「1日に2枚以上書けるようになる」は達成できたのですが、
やっぱり次はちゃんと考えようと思いました。